瀬名とは~築山殿は悪女だったのか?築山御前が殺害された本当の理由とは【どうする家康】

築山殿(瀬名)とは

瀬名(せな)とも言う築山殿(つきやまどの)は、今川家一族の駿河持船城主・関口親永(関口刑部少輔)(または瀬名義広)の娘で戦国時代の1542年?に生まれたとされます。
母は今川義元の妹ですが、今川氏親の養女と言う事で井伊直平の娘とされます。
また、関口瀬名、他にも瀬名姫、お瀬名の方、築山御前(つきやまごぜん)、駿河御前とも呼ばれます。
瀬名と言う呼び方は、父方の「瀬名氏の娘」と言う意味になりますので、本当の名前は不詳と言えます。

2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」では瀬名(築山殿)を俳優(女優)の有村架純さんが演じられます。
また、名門である関口家の侍女として瀬名の世話をする少女「たね」は女優(俳優)の豊嶋花さんが演じます。

岡崎城

1557年1月、瀬名姫は伯父である今川義元の養女となって、駿府で人質生活していた松平次郎三郎元信(徳川家康)の正室となりました。
この時、二人とも年齢は16歳であったと推定されますが、瀬名姫の方が8歳くらい年上であったとも言われます。
そして、1559年には嫡男・竹千代(松平信康)が誕生し、1560年には亀姫(奥平信昌の正室)も生まれました。


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しかし、1560年5月19日、桶狭間の戦いにて今川義元が織田信長に討たれてしまうと言う、今川一族にとっては大きな出来事が起こります。
大高城にいた松平元康(徳川家康)は駿府に帰らず、松平家の本拠地・岡崎城へ入ったことで、瀬名姫と嫡男・竹千代(松平信康)らは駿府に取り残されてしまいました。

今川家の跡を継いだ今川氏真は、当然、瀬名姫らを岡崎城に送る事は無く、実質的に人質となる訳ですが、今川家にゆかり深い瀬名姫は、松平元康(徳川家康)のことを恨んだかも知れません。
そんな状況下で、1561年には、徳川家康の嫡男・竹千代(岡崎信康)と織田信長の娘・徳姫(五徳)との婚約が成立し、更に追い打ちを掛けるように、1562年3月、徳川家康は織田信長と清洲同盟を結んだ事で、今川氏真は怒り出し瀬名姫らを軟禁状態にします。
また、瀬名姫の父・関口親永も疑われて切腹を命じられ、駿府尾形町の屋敷にて正室と共に果てました。(享年45)
瀬名の悲しみはどれほどの事だったかと想像もできます。

石川数正の尽力により、生け捕りにしていた今川義元の妹の夫である上ノ郷城城主・鵜殿長照(うどのながてる)の2人の遺児・鵜殿氏長鵜殿氏次との人質交換により、瀬名姫(21歳)は竹千代・亀姫らと駿府から岡崎へ移ります。
家臣の尽力もあり徳川家康は妻子を取り戻したと言う事になるのですが、瀬名は岡崎城に入ることが許されず、岡崎城下の東にある菅生川のほとりの惣持尼寺(現在のNTT西日本岡崎ビル)の西側に屋敷を与えられて、幽閉同然の生活を強いられました。
侍女の多くも徳川家の女性に変えられたと言います。
なお、屋敷の地が惣持尼寺の築山領であったことから、瀬名姫は築山御前(築山殿)と称されるようになりました。

築山御前の首塚(岡崎・八柱神社)

しかし、本来であれば苦労を掛けたと暖かく迎えられるはずの築山殿は、なぜ、徳川家康に合う事すら許されなかったのでしょうか?

もしかしたら、築山殿は今川家と松平家がより親密になるため嫁いでいたと言うプライドがあり、竹千代と徳姫の婚約が相談も無く決まったこともあり、徳川家康が今川家を見限ったことを不満に思っていたのかも知れません。
<注釈> 大河ドラマ「どうする家康」では、武田勝頼の間者である歩き巫女によって、瀬名が武田家に内通したとする話になっている。
実際に、瀬名姫(築山殿)の父・関口親永(瀬名義広)は、徳川家康が今川家を裏切ったことで、娘である瀬名姫が嫁いでいたことから、同様に裏切ると疑われて切腹となった訳です。
それらを考慮しますと、父を切腹に追い込んだ原因でもある徳川家康を瀬名姫は許せなかったとも考えられ、瀬名姫の方から徳川家康に会うのを拒んだ可能性もあるように思えます。

いずれにせよ、のち瀬名姫を処罰するにあたり、甲斐・武田信玄と内通し徳川家康を倒してわが子・松平信康を立てて、徳姫を排除し武田信玄と連合して仇敵・織田信長を倒そうと図った言うのは、あとになってからの徳川家の言い分です。

もっとも、織田家と同盟したばかりの徳川家にしてみても、正室が織田家と敵対する今川一族の娘では、都合が悪かったとも言えます。
それだったら離縁すれば良い話なのですが、しかし、離婚まではしていないのですよね。
もしかしたら、織田家との関係が悪くなった時、今川家に取りいるための保険として築山殿を手元に残していたのかも?と、疑ってしまいます。

1567年、松平信康(岡崎信康)と、織田信長の長女・徳姫が結婚するとこの若い2人は岡崎城にて暮らしていますが、依然として築山殿は城には入っていません。
そして、今川氏真を破った徳川家康は1570年に本拠を浜松城に移すと、松平信康(岡崎信康)が岡崎城主となり、ようやく築山殿は岡崎城に入りました。


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しかし、浜松城には同行しておらず、築山殿はもはや徳川家康の正室とは言えない状態だったとも考えられます。
また、築山殿からしてみれば、徳姫は恨みある織田家の娘ですので、嫁姑の問題以上の事が発生したとも推測できます。
築山殿が松平信康(岡崎信康)にまだ嫡男が生れない事から、部屋子の女中であった元武田氏家臣・浅原昌時の娘や、日向時昌の娘などを、松平信康の側室にしたとされ、それで徳姫と不和になったとも言われています。
そのため、徳川家康が仲裁に岡崎城へやってきたとも、織田信長も岡崎城を理由なく訪れているとされ、徳姫と松平信康の関係も次第にこじれた模様です。

1579年、徳姫は父・織田信長に、築山殿と松平信康の罪を訴える十二ヶ条の訴状を送り、安土城に滞在していた酒井忠次に問いただすと事実と認めた為(何も答えなかったとも?)、織田信長は徳川家康に松平信康の切腹を要求したとされています。
通説では、築山殿は傲慢で嫉妬深い女性だったとされ、築山殿が悪いということになっていますが、それらは江戸時代の創作であり築山殿はそこまで悪女ではなかったのではと感じます。

1579年8月3日、徳川家康は浜松城から岡崎城に来ると、翌日に松平信康を三河・大浜城へ移します。
事の重大さを知った松平信康は釈明しようとしますが拒絶され、8月5日に徳川家康は西尾城へ入り、8月7日に再び三河・岡崎城へ入っていますので、岡崎衆の掌握に努めていたものと推測されます。
そして、松平信康は三河・大浜城から堀江城に移され、8月10日には二俣城へ幽閉されました。
岡崎城では8月12日に松平康忠と榊原康政によって戒厳令が敷かれています。

徳川家康の重い判断を知った築山殿は、岡崎から東海道を東へと進み、浜松城の徳川家康に子の助命嘆願のため向かいます。(野中重政が命を受けて、岡崎城へ迎えに行ったともされます。)
1579年8月29日、徳川家康の命を受けた野中重政(野中三五郎重政)と岡本時仲(岡本平右衛門時仲)、石川義房によって、佐鳴湖を船で渡った東端・小藪村(太刀洗の池、佐鳴湖岸)にて、築山殿は殺害されました。享年39。

そして、瀬名姫の遺骸は東へ1km程離れた浜松・西来院(下記)に葬られました。

浜松・西来院

ただし、瀬名姫の首は織田信長の首実検の後、岡崎に返されると、1580年、首級を埋めた築山神明宮が建立されています。

築山神明宮

一方、瀬名が命を落としてから半月後となる1579年9月15日、二俣城において、服部正成の介錯により松平信康も切腹となります。(享年21)

ちなみに、徳姫は娘らを徳川家に残して、1580年2月20日に岡崎城を出て織田信忠を頼りました。
本来であれば、夫が亡くなって未亡人となった妻は「出家」しますが、五徳は出家した形跡がありません。
そのまま捉えると、松平信康の死を悲しんでいなかった?とも考えられますが、再婚もしなかったようなので、五徳がどのような考えでいたのか?は不明としか言いようがありません。
晩年の五徳は義弟・松平忠吉(清洲藩主)から1761石を与えられています。
長女の登久姫は小笠原秀政の正室となり、次女の熊姫は本多忠政の正室になりました。

殺害された理由

無実の罪で殺された?とも言われる母と子の悲劇は、どうして起こってしまったのでしょうか?
最初、この記事を執筆開始した時点では、築山殿の無実を晴らそうと頑張っていました。
しかし、事実が色々とわかってくると私の考えは逆転して、少なくとも謀反は企んでいたと言う結論に至っています。
その理由を明記してみたいと存じます。

まず、夫の徳川家康にしてみても、大切な嫡男を静粛するまでの大事件ですので、やはり徳川家内部にて「権力争い」があったことは否めないでしょう。
とすると、武田に内通していたとまでは言いませんが、築山殿と松平信康が徳川家康への謀反をちょっとは企んでいたとは考えるのが妥当かと存じます。
織田信長の命もあり、いずれにせよ命を奪った訳ですので、それだけの大きな理由があった事には間違いありませんが、もちろん、今となっては、築山殿や松平信康の本心を知る機会はもはやありません。
よって、事実の部分から紐解いていきたいと存じます。


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最大の要因は、前述したとおり徳川家の内部の争いだと存じます。
嫡男・松平信康の正室が、織田信長の娘だったことが一番の原因だと感じます。
築山殿など織田家の属国のような立場に不満があった家臣(岡崎衆)らの反発が顕著になったことを、徳姫らより報告を受けた織田信長は、将来、徳川家が離反するのではと感じたものと推測します。
その芽を早い段階で摘むのか?、それとも織田家から離れるのか?、徳川家康に態度を明らかにするように迫ったのが、この松平信康事件と言う事になるでしょう。

築山殿を殺害した野中重政は隠居し、築山殿の侍女である伊奈忠基の娘は、訃報を知ると入水自殺し殉死しました。
もし、築山殿が罪深い女性であったならば、殉死するような侍女まで現れるとは考えにくいですので、築山殿サイド(周辺)では、それなりの謀反の理由も納得していたと言う事だったのかも知れません。
そして、松平信康や築山殿も、徳川家康から本当に敵視されていたのであれば、菩提を弔う供養塔が何箇所もある理由の理解に苦しみます。

徳川家康にしてみれば、織田信長に逆らえず生き抜くため仕方ないとは言え、嫡男・松平信康を失いたくなかったでしょうし、やむを得ないとは言え2人を死に追いやった落ち度も、少しは感じていたと推測致します。
その為、松平信康を謹慎させても、岡崎城から大浜城・堀江城・二俣城へと、1ヶ月以上もかけてわざわざ転々とさせたのは「逃げられるチャンス」を、暗黙のうちに与えたものと感じずにいられません。
最初から殺害するつもりだったら、こんなに日数を掛けずさっさと死に追い込むでしょう。

もし、武田勝頼に内通していたのであれば、武田領に接する二俣城には幽閉しないと思いますが、もしかしたら武田を頼って北へ逃亡しても良いぞ?、くらいの事を、徳川家康は心の片隅で願っていたのかも知れません。
しかし、松平信康は謀反など考えていないけど、どんな命令でも父の命にはきちんと従うと、おのれの運命を受け入れて、最後まで武将らしく果てました。
築山殿にしてみても本当に悪女でしたら、とっくに離縁されていたでしょうから、色々な悪い行いに関して徳川家康は悪くないよ(織田信長が命じたからだよ)と徳川家サイドがあとから追加した創作だと感じます。

松平信康に関しても優れた武将であり織田信長が恐れたとする史料もあれば、無能な武将だと中傷する史料もあり、徳川幕府を開いた徳川家だけに資料がありすぎて判断を誤りやすい点も多いです。
極端な話、織田信長は徳川家康より早く亡くなった武将ですので、あとになって悪者扱いになり、神君家康公を汚さないよう、織田信長に命じられたような創作話になった可能性もあります。
ただし、築山殿と松平信康の首が織田信長に送られている事実を捉えますと、織田信長の命に徳川家康は従う事になったと言うのが正しいような気が致します。
織田信長の命がなかったのであれば、わざわざ、首を届ける必要性がありませんのでね。


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隣の甲斐においても武田信玄は、父・武田信虎を追放しただけでなく、謀反の疑いで嫡男・武田義信を殺害するに至るケースもあった訳です。
ひょっとしたら、1575年に長篠の戦いで大敗した武田勝頼が、徳川家の弱体化を狙って松平信康を陥れたなんて想像もしてしまいます。

普段はできる限り中立な立場で人物を捉え、検証した事実に基づいて記事にさせて頂いておりますが、今回はかなり私見も入ってしまいました。
お許し願えますと幸いです。

太刀洗の池

瀬名が殺害された佐鳴湖の近くに、太刀洗の池があります。
家康の命を受けた家臣・野中重政と岡本時仲が、血の付いた刀を洗ったとされる池があった場所です。

太刀洗の池

太刀を洗ったあと、池の水が涸れたといわれ、延宝6年(1678年)に瀬名姫(築山殿)の百年忌法要を行うと、清水に戻ったという伝承があります。
築山御前の遺骸は浜松・西来院の一隅に葬られました。

太刀洗の池の場所に駐車場はありませんが、西側にある浜松医療センターの有料駐車場を利用可能です。
場所は当方オリジナルのGoogleマップにてご確認願います。

※浜松医療センターの建て替え工事が終わるまで、太刀洗の池は見学できない可能性があります。

西来院・築山御前の墓

浜松城の西側にある西来院(せいらいいん)には、徳川家康の正室・築山御前の廟堂(月窟廟)と、徳川家康の異父弟・松平康俊(松平源三郎康俊)の墓があります。

築山御前の廟堂・月窟廟(げっくつびょう、がっくつびょう)は、太平洋戦争の際に焼失したため、その後、復元された建物となっています。

築山御前の墓

普通、このような霊廟は門が閉ざされていて、内部をお参りすることはできないのですが、築山御前の月窟廟は門が開いていました。

築山御前の月窟廟

丁重にお参りさせて頂きました。

築山御前の墓

なお、月窟廟の左には、松平康俊(松平源三郎康俊)の墓もあります。

駐車場は西来院の入口から境内に入った右側にあります。
西来院の場所は当方オリジナルのGoogleマップにてご確認願います。

築山御前の首塚(岡崎・祐伝寺)

岡崎には築山御前の首塚とされる場所が2箇所ありますが、まずは岡崎・祐伝寺からです。

岡崎・祐伝寺

消防署近くの岡崎・祐伝寺の門を入ってすぐに左にクルっと向きを変えた塀の下に、小さな築山御前の首塚がありました。
岡崎城の石川数正が祐傳寺境内に御首を埋葬し、のち築山神明宮を勧請したと言います。

築山御前の首塚(岡崎・祐伝寺)

小さいと言う事は、謀反人として扱われていた可能性を示唆することでしょう。
その後、江戸時代に入って八柱神社に改葬されました。

築山御前の首塚(岡崎・八柱神社)

岡崎で築山殿の首塚と言うと、この八柱神社と答えるのが一般的です。

岡崎・八柱神社

もともと南北朝時代には鈴木氏の領地だったようで、和歌山出身の鈴木氏が熊野神社の祭神を祀ったのが始まりとされます。
<注釈> 三河・鈴木氏としてはし足助城の鈴木氏などがいる。

江戸時代の1646年、三河・岡崎藩5万石となっていた水野忠善の頃?、築山神明宮を現在の八柱神社境内に移した模様。

築山御前の首塚(岡崎・八柱神社)

その後、八柱神社が築山神明宮の東側高台に移転してきたと言うのが正解なようです。

築山御前の首塚(岡崎・八柱神社)

よって、八柱神社にある築山御前の首塚は新しい供養塔と言えるでしょう。

築山御前の首塚(岡崎・八柱神社)

八柱神社の御朱印は岡崎天満宮の授与所で頂けるとの事。

境内に数台の駐車場が確保されているが、入口がわかりにくいので駐車場入口を、当方のオリジナル地図「名古屋・北陸方面」にてポイントしている。
オリジナル地図「名古屋・北陸」方面
スマホ画面などで表示して「検索窓」から検索して、カーナビ設定することでも使用可能。(徒歩ナビとしても可能)

松平信康の首塚岡崎城などとセットでどうぞ。

以上、ご覧頂きまして、誠にありがとうございました。

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コメント

  • コメント ( 4 )

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  1. 戦国未来

    築山殿について、私も書いてみました!

  2. 素晴らしい内容ですね。いつも感服致しております。
    当サイトでも寄稿者様を募集させて頂いておりますので、是非ご検討賜りますと嬉しく存じます。

  3. とも

    今年の大河は説明不足な部分が多いので勉強になりました
    歴史を知ってる人からしたら常識で、そこを語るよりも主人公周りの話を重点的にって事なんでしょうね

  4. ともさま、コメントありがとうございます。
    ドラマ番組は「演劇」を映像化して発展させたものですので、創作の要素の方が多いです。
    史実どおりにストーリーをやると、放送される内容はおもしろくないので、演劇として時代劇も作ります。
    ただし、ともさまがお気づきになられたように、予備知識を持ってドラマを見ると、また違った面白さがある訳でして、脚本家さんの解釈にうならされることも出たりします。
    そのため、ぜひ、登場人物に関しては、史実においてはどの程度わかっていたのか?、また、どのような武将や姫だったのか?、ご覧頂くと、より大河ドラマもお楽しみいただけるかと存じております。
    このたびは、ご感想を賜り、ありがとうございました。
    高田