榊原康政とは~武勇と知勇を馳せた徳川家の重臣


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榊原康政(さかきばらやすまさ)は1548年に三河国上野郷(現在の愛知県豊田市上郷町)にて誕生。通称は榊原小平太。
父は榊原長政で、松平家の譜代家臣・酒井忠尚に仕える陪臣であり、その次男である。幼名は於亀(亀丸とも?)
母は道家氏の娘。(名前など不詳)

幼いころから松平元康(後の徳川家康)の小姓となった。行政能力に長けており、書状もよく代筆したとされる。
1560年の桶狭間の戦い前後に、初めて徳川家康に謁見したとも? 桶狭間の戦いの直後、徳川家康が大高城から岡崎城へと戻る際に、一時入った大樹寺で初めて謁見したとも?
徳川四天王で最年少の井伊直政が誕生した1561年では、酒井忠次は34歳、本多忠勝は13歳、榊原康政は13歳である。

1563年、三河一向一揆が起こると、榊原康政は平定に従軍。
徳川家康から武功を賞されて「康」の字を与えられ、榊原康政と名乗った。
1564年、三河吉田城攻めでは先陣に加わった。

榊原康政の兄・榊原清政が本来家督を継ぐところだが、差し置いて次男の榊原康政が榊原家の家督を相続した。
理由としては、兄が三河一向一揆に加担?した為とする説と、謀反の疑いで切腹した徳川家康の長男・松平信康に近侍していた為、生涯、浪人の身分を貫いたからだとする説がある。

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1566年、榊原康政は19歳で元服したとする説があるが、何年も前から出陣していたことから、兄に変わって家督を継いだの間違えか? (でも、松平信康が切腹したのは1579年)
いずれにせよ、同年齢の本多忠勝と共に旗本先手役に抜擢され、与力50騎が付属された。
以後、徳川家康の側近であり、旗本部隊の指揮官として活躍。

1568年の遠州・堀川城攻めでは二カ所に深手を負って虫の息となり、徳川家康から「後事に思うことがあればなんなりと申せ」とまで言われたが、奇跡的に回復したとある。
このように徳川家康が駿河・今川氏真から独立し、尾張の織田信長に従うと、姉川の戦い三方ヶ原の戦い長篠の戦いなど数々の戦いで戦功を挙げた。
特に浅井長政朝倉義景との姉川の戦いでは、徳川勢5000に対して10000の朝倉勢。榊原康政は朝倉勢の横に廻り込み側面を攻撃して、戦勝のきっかけを得ると言う大きな武功を立てて名を上げた。

1581年、武田勝頼との高天神城の戦いでは先陣を務めた。
この年、嫡男・大須賀忠政が生まれているが、榊原康政の正室は大須賀康高の娘で、側室としては花房氏の娘がいる。
この大須賀康高も、榊原家が最初に仕えていた酒井忠尚の家臣であり、のち大須賀家は榊原家に吸収される形となった。

1582年、明智光秀本能寺の変を起こし、織田信長が横死した際には、徳川家康を警護し、堺からの伊賀越えに同行している。

清洲会議を経て、豊臣秀吉が織田家の実権を握り、柴田勝家も滅ぼすと、1584年には豊臣秀吉と織田信雄が対立し、小牧・長久手の戦いに至った。
この合戦で織田信雄に味方すると、榊原康政は戦場を俯瞰できる小牧山への布陣を進言。甥・大須賀康高と共に豊臣秀吉の甥・豊臣秀次の軍勢をほぼ壊滅に追い込み、森長可池田恒興を討ち取り、徳川勢の勝利に貢献した。
徳川四天王の1人である榊原康政は、武勇では本多忠勝に劣るが、部隊の指揮官としての能力は本多忠勝に勝り、井伊直政に匹敵したとされている。また、外交面では榊原康政は上杉謙信担当であった。
 
また江戸時代に書かれた『藩翰譜』によると小牧・長久手の戦いの際、榊原康政はあちこちに高札を立てて、豊臣秀吉の織田家の乗っ取りを非難したとある。
これに激怒した豊臣秀吉は、榊原康政の首に10万石の賞金をかけたと伝わるが、榊原康政は羽黒の戦いでも戦功を挙げた。
もっともこれらの行動によって、豊臣秀吉の注目を受け、徳川家康と豊臣秀吉が和睦すると朝日姫の婚約で結納使を務め、京都への使者として赴いており、その度胸に天晴れと豊臣秀吉は榊原康政を許している。

1586年11月、徳川家康の上洛に随身し、徳川家康は11月5日、正三位に昇叙。榊原康政は11月9日、従五位下・式部大輔に叙任され、豊臣姓を下賜された。

1590年、小田原征伐(小田原攻め)においては徳川勢の先手を努めて、山中城八王子城などを攻撃し、武功を挙げた。

徳川家康が関東に移封されると、上野国館林城10万石となった。これは、本多忠勝と並んで家臣で第2位の知行である。
そして、関東総奉行として本多正信らを監督し、江戸城の修築に務め、館林では堤防工事(利根川東遷工事の一環)や、街道整備などに力を注いだ。

1600年、石田三成との関ヶ原の戦いでは、主力の徳川秀忠に「軍事の事は全て康政に相談せよ」と、榊原康政を軍監として付け、次男・榊原忠長と共に中山道を辿って美濃を目指した。
しかし、荒天で徳川家康からの進発命令を携えた使者が遅れた事や、信濃国上田城真田昌幸攻めに手間取り、攻撃を中止して美濃に急いだものの、雨天で川が増水するなどして、徳川秀忠とともに本戦に遅参した。
『藩翰譜』によると、徳川家康は徳川秀忠の失態に激怒したが、坂原康政のとりなしで事なきを得て、伏見城での対面が許されたと言われる。
また、榊原康政は徳川秀忠に対して上田城攻撃を止めるように進言したとも伝わっている。

関ヶ原の合戦の後は、徳川幕府において徳川秀忠の老中となったが、所領の加増は無く、徳川家康との関係が少しギクシャクしたとされる。
理由としては、本多正信が老中首座となった為「老臣権を争うは亡国の兆しなり」として領地に戻り、自ら距離を置いたとする説や、武功派家臣として大きな失態のなかったのに徳川家康が冷たかった為、憤慨していたという説、また、一説には水戸25万石に加増転封を打診されたが、関ヶ原での戦功がないこと、館林が江戸城に参勤しやすいことを理由に断り、徳川家康は感銘して「徳川家のあらん限り、榊原家のあらん限り、反逆は格別、外の不調法では、長く見棄てはしない」と、榊原康政に借りがあることを神に誓う証文を与えたとも。
この神誓証文は、江戸時代に榊原家を2度の改易危機から救うことになった。

一方で、大須賀家を継いでいた嫡男・大須賀忠政は、関ヶ原以降、上総久留里に3万石を与えられ久留里城主となり、1601年2月には遠江横須賀6万石に加増移封され、横須賀藩の初代藩主となった。

1603年、徳川秀忠上洛に供奉し、無事務め上げた功績で5000石加増された。
 
徳川秀忠は病床にある榊原康政を見舞うため、医師や家臣を派したが、薬石効なく、1606年5月14日、榊原康政は館林にて死去。59歳。
墓所は群馬県館林市楠町の善導寺。

長男・榊原忠政は母方の大須賀家を継ぎ、次男・榊原忠長は1604年に20歳の若さで夭折していたことから、家督は3男・榊原康勝(正室は加藤清正の娘・本浄院)が継いだ。3男・榊原康勝は武勇に優れたが、大坂の陣の際、痔が悪化して死亡。

館林・善導寺にある榊原康政と側室・お辻の墓

館林城から東方にある善導寺(ぜんどうじ)は、1590年に館林城主となった榊原康政が菩提寺として諸堂を建立しました。
もともとは館林駅前にあったそうですが、駅前整備で1990年に現在地へ移転したそうです。

館林・善導寺

本堂の裏手には、立派な墓所があり、榊原康政の墓、長子・大須賀忠政の墓、二代・榊原康勝の墓、その母である側室・花房氏の娘(お辻)の墓があります。

下記が榊原康政の墓です。丁重にお参りさせて頂きました。

榊原康政の墓

下記は榊原忠政(大須賀忠政)の墓です。
各写真はクリックすると拡大致します。

榊原忠政の墓

墓所全体は下記の写真のようになっており、左から榊原康政、大須賀忠政、榊原康勝、側室・花房氏の娘(お辻)と言う事になるのですが、ビックリしたのは側室・お辻の墓(花房氏の墓)です。

館林・善導寺にある榊原家墓所

そもそも、正室でも女性が殿様と一緒の墓所に弔らわれることは普通ないのですが、側室にも拘わらず、同じ場所に、しかも、隣にある2代藩主よりも、立派な墓標がある訳ですから、驚きです。
お辻さんと言う側室は、どんな女性だったのでしょう?
ちょっと、追加で調べてみました。

館林・善導寺

なんでも、榊原康勝の生母であるお辻は1605年に亡くなったそうですが、他の側室に妬まれて、城沼に身を投げて自殺したそうです。
館林城下の人々は、そんなお辻の死を悲しみ霊を慰めたとも言われているようですので、そのような理由から立派なお墓になったのでしょう。

ちなみに、榊原家の墓所と言うと、1644年に榊原家が館林から白河城に移ったあと、1649年に姫路城主となった3代・榊原忠次がおり、書寫山円教寺にも姫路系ですが榊原家墓所があります。

下記の地図ポイント地点は、善導寺の無料駐車場入口となりますので、念のため記載しておきます。

姉川の戦いと遠藤直経~信長暗殺を進言した知勇兼備の謀将【姉川合戦場探訪】
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