大政所【豊臣秀吉の母・なか】と朝日姫(旭姫)とは



大政所(おおまんどころ)は、尾張国愛知郡御器所村にて1513年に生まれたとされる女性で、名は「仲(なか)」とも伝わる。
織田家の足軽(又は雑兵、雇い兵)である木下弥右衛門に嫁ぐと、1534年に日秀(日秀尼)、1537年に木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)を生んだ。

なかは、1543年に夫が亡くなると、織田信秀に仕えた同朋衆・竹阿弥(ちくあみ)と再婚し、1540年に木下小一郎(木下秀長、のちの豊臣秀長)と1543年には朝日(朝日姫)が誕生したとされる。
※木下弥右衛門が負傷して出家し竹阿弥と称したとする説がある。


竹阿弥と馬が合わず、15歳で家を飛び出した木下藤吉郎は、今川家の陪臣となったあと織田信長の家臣となる。
そして出世して羽柴秀吉として長浜城主となると、以降は、羽柴秀吉の正室・おね(北政所)と共に生活した。
明智光秀による本能寺の変の際には、おね・なかは、共に伊吹山麓大吉寺へ逃れて、難を回避している。

大阪城が完成すると「おね」と「なか」も大阪城に入り、豊臣秀吉が関白となった際には、異例の従一位が、なかに叙されている。
これ以降、なかは「大政所」と称されるようになった。

1586年9月、いまだ豊臣家に臣従しない徳川家康(45歳)に対して、豊臣秀吉は妹の朝日姫(44歳)を継室に送った。
旭姫(朝日姫)は佐治日向守に嫁いでいたが離縁させて、徳川家康を懐柔するための再嫁であった。

これは事実上の人質として送った形であったが、それでも上洛しない徳川家康に対し、今度は大政所も人質として岡崎城へ送ったため、さすがの徳川家康も京へと上洛した。
この時、大政所は1ヶ月程で大阪城へと戻っている。

1587年9月に聚楽第が完成すると、豊臣秀吉らと共に大政所も居を移したが、病気がちで一時、大阪城へ戻っている。

1590年1月14日、朝日姫(駿河御前)が病死。京都の東福寺に葬られている。

1591年1月22日には、大和郡山城にて豊臣秀長が病死。

豊臣秀吉の朝鮮攻めが行われていた、1592年7月22日、大政所は聚楽第にて死去した。享年80歳。法名は天瑞院殿。


危篤であると知らせを受けた豊臣秀吉が、名護屋城から大阪へ向かったのも同じ7月22日で、失意の豊臣秀吉は8月6日に大徳寺で法要を行っている。

なお、大政所の妹・大恩院は、青木一矩に嫁いでおり、青木一矩は羽柴秀長の筆頭家老を務め越前・府中城北ノ庄城を任されました。

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