織田信秀 名将が乗り越えられなかったもの

織田信秀


織田信秀(おだ-のぶひで)といえば、天下人に近づいた武将織田信長の父として有名です。
ただ、織田信秀の政策と織田信長の政策には類似点もあり、織田信長に大きな影響を与えた人物の一人とも言えます。
今回は、織田信秀が信長に与えた影響のいくつかと、そんな織田信秀が信長と違って飛躍しきれなかった原因について探っていきます。

複雑な織田家

織田信秀の父織田信定の時代、織田氏は非常に複雑でした。
織田氏は尾張の国の有力な氏であったのですが、尾張の国で一番身分が高かったわけではありません。
尾張の国で最も偉いのは、室町幕府から尾張の国を任された者として守護に任命されていた斯波氏です。
織田氏は、この斯波氏の家来です。


ただ、斯波氏の経済力や軍事力といった実質的な力は衰退をしており、尾張の国のまとめ役は、経済力も軍事力も台頭した守護代織田氏が行っていました。
ですが、この織田氏にもたくさん家があります。
尾張の国をいくつか分けて、それぞれをそれぞれの織田家が統治するイメージです。
そして、その織田家たちをまとめる最も偉い織田家が、大和守の織田家です。
織田信定の織田家は、大和守織田家の有力配下でした。
織田信秀は、こんな複雑な織田家の事情の中で、1511年に織田信定の長男として生まれます。

織田信定は、1521年~1528年に新たな拠点を勝幡に作ったことをきっかけに躍進、尾張の国の中で港町や門前町として発展をしていた津島やそのまとめ役である津島神宮をおさえることに成功します。
つまり経済的発展をしている津島をおさえることで、そこからの税収等で経済力をアップさせたのです。

織田信秀の勢力拡大

そんな最中の1520年代後半、織田信秀は存命中の織田信定から家督を譲り受けます。
尾張国内には那古野城を拠点に今川氏の勢力がありましたけど、1538年に織田信秀は謀略で那古野城を奪います。
そして、勝幡城から那古野城に拠点を移し、尾張の国東部等への勢力拡大を行います。
ちなみに、織田信長が生まれたのは1534年です。
織田信秀は尾張の国の東部をおさえた後に、いきつくまもなく1539年には古渡に城を築いて移り、熱田の支配に成功します。
熱田もまた、尾張の国内で商業の盛んな土地であって、津島とともに織田信秀の大きな経済基盤となります。
領土拡大や経済力のアップを背景に、信秀は上洛して朝廷に献金、備後守に任官します。
実力だけでなく、権威も身につけたのです。
信秀はさらなる領土の拡大を行い、ついには尾張国の東隣にある三河国の一部、尾張国の北隣の美濃国の一部にまで勢力を広げます。

織田信秀と織田信長の共通点

ここまで見てきたように、織田信秀は目的のために拠点となる城を移しています。
これは清州城、岐阜城安土城、さらに石山本願寺を倒した後は石山へ拠点を移す計画もあったとされる織田信長の政策とよく似ています。
上杉謙信はじめ、戦国大名は現地の農民を兵隊として招集することが多くて、その農民のまとめ役である現地豪族を家臣として扱います。
そのため、家臣を土地から離すと農民兵を招集できなくなります。
一方で、信長は多くの兵を農民の徴兵ではなく専業軍人として給料制で雇っていたとされます。
それを可能にしたのが、津島や熱田をおさえたことで入ってくる貨幣だったとされます。
職業兵隊はばっちり訓練されていたり、農民兵と違って農繁期に限らず戦闘をできます。
また、農民も農業に専念できるメリットがあります。
信長が、拠点となる城を目的に合わせて移す方法を取ったり、それを可能にする商業都市をおさえることの重要性を知るのは、織田信秀から教わったのかもしれません。

織田家の主家にならなかった織田信秀

以上見てきたように、織田信秀は大きく勢力を拡大しました。
その力は、主家大和守織田家をはるかにしのぎました。
ところが、信秀は織田の主家にとって代わる行動は起こしていません。
それも、織田信定から家督を譲られて間もなく主家や親戚の織田家との争いも起こっている等、たびたび織田家の親戚から攻撃を受けているのにも関わらずです。
中には、斎藤や今川といった強い外敵と戦っている最中に重要な城を親戚から攻撃されるという例もあります。
1548年、美濃に拡大した信秀の勢力を排除すべく斎藤道三が行動に出ますが、信秀はこれを阻止しようと美濃に出陣。
その最中に、大和守織田家の当主織田信友に古渡城を攻撃されます。
これにより、信秀は美濃での戦いを諦めて帰国し、信友と戦います。
信友とは講和しますけど、美濃の勢力を手放すことになります。
これ程の重大事態にも関わらず、信秀が主家にとって代わったり国内の粛清を行わなかったのは、室町時代の秩序に縛られていたためという意見もあります。
つまり、主家をあくまで立てるということだそうです。
筆者の想像するに、いろいろな織田家はあってもさかのぼればもとは同じ土地で同じ家に生まれた兄弟どうし、派生してできた家は生まれた家を敬うものであったのかもしれません。
織田信長が織田信秀より家督を譲り受けた時にはじめに行ったのは、自身に反対する親戚や兄弟に対する断固とした処罰です。
そしてその後に、尾張の国を実質的にまとめていきます。
織田家の序列ナンバーワンのように振る舞えずにいた信秀には、自国をまとめあげることもできず、隣国進出は無理だったのかもしれません。
それでも、信秀が信長の天下取りに与えた影響は非常に大きいということは言えるでしょう。
商業都市をおさえる重要性、拠点の城を目的に合わせて移すこと、信長の天下は信秀なしには成しえなかったかもしれません。
ちなみに、信長が信秀の死去によって家督を譲り受けたタイミングは最低な状況でした。


斎藤は美濃から織田の勢力を追い出したところ、今川は三河から織田の勢力を追い出してさらには尾張に攻勢をかける段階です。
また尾張国内の織田家の親戚たちも、信秀からの代替わりで不安定な信長の織田家を支配するべく画策。
織田信長自身の力も相当なものであったことを付け加えておきます。

(寄稿)稲岡良仁

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稲岡 良仁

投稿者プロフィール

塾講師兼予備校講師を本業にしております。義務教育の日本史や高校日本史、高校古典の授業で受けた質問をもとに、記事を書いていきたいと思っております。ただし、受験や定期テストで点を取るための記事では全くありませんのでご注意ください。仕事ではしゃべることと板書と生徒の手元の資料を用いて歴史や古典を伝えており、純粋に文章だけで伝えることに慣れていないために、読みにくいこともあるかと思いますが、しっかり調査して内容のしっかりしたものを書いていきたいと思っております。よろしくお願いします。

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