斎藤道三(斎藤利政) 権謀術数を駆使し大名になった美濃の蝮

斎藤道三(さいとう-どうさん)は1494年?(又は1504年?)に誕生したと推定されている。生誕地については山城国など諸説ある。
生い立ちについては不明な点が多いが、最新の研究による解釈にてご紹介したい。
斎藤道三(斎藤山城守利政)の父は長井新左衛門尉(豊後守)が有力。
父・長井新左衛門尉は、京都妙覚寺の僧侶であったが、還俗して西村勘九郎と名乗り、美濃にて守護土岐氏の家臣・長井弥二郎に仕えたと言う。


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父・新左衛門尉は次第に頭角を現し、土岐家中の混乱に乗じ土岐氏の三奉行にまで出世し、長井の名字を称した。
父が活躍する下で、斎藤道三も父と共に活動していたものと推測される。

1526年12月、美濃守護・土岐頼芸の愛妾である一色義清の娘・深芳野(みよしの)が下贈され、斎藤道三(33歳)の側室となった。
1527年6月10日、豊太丸(のちの斎藤義龍)が誕生。
また、斎藤道三は1532年に、明智長山城主・明智光継の娘・小見の方(おみのかた)を正室に迎えている。

1533年頃?、父から家督を譲られ(もしくは、父が亡くなった?)て、斎藤道三が長井家の当主となった。

1534年、長井家の惣領・長井長弘(長井藤左衛門尉景弘)を殺害して、斎藤道三は長井新九郎規秀と名乗り、その武芸と才覚は、美濃守護・土岐頼武の次男である土岐頼芸の信頼を得た。
1535年、帰蝶が生まれた。
1535年、家督相続に敗れた土岐頼芸をかついで、美濃守護の土岐頼武(土岐次郎頼武)を越前に追放するクーデターに成功。稲葉一徹や安藤守就ら有力豪族を味方にし、美濃国土岐家の実権をにぎった。

追放された兄・土岐頼武の跡を継いだ甥・土岐頼純と、土岐頼芸・長井新九郎規秀は対立。朝倉家、六角家らも兵を送り、内乱は美濃全土へ広がった。

しかし、土岐頼芸が六角定頼の娘を娶り、六角家と和睦すると争いは収まり、1539年には、甥・土岐頼純と土岐頼芸が和睦した。


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一方、長井新九郎規秀(斎藤道三、45歳)は、1538年に美濃守護代の斎藤利良が病死したのを受け、その名跡(斎藤家)を継いで斎藤新九郎利政と改名。
1539年、居城・稲葉山城の大改築を行なった。

1541年、斎藤新九郎利政(斎藤道三)は、主君・土岐頼芸の弟・土岐頼満を毒殺すると、以後、2人の仲は険悪となり対立した。

一時、斎藤新九郎利政(斎藤道三)は窮地に陥ったが盛返し、1542年に、土岐頼芸の居城・大桑城を攻め、土岐頼芸とその子の土岐二郎(土岐頼次)を尾張に追放。
これにより、事実上の斎藤新九郎利政(斎藤道三)が美濃国主となり、いわゆる「国盗り」を達成し、戦国大名となった。
斎藤新九郎利政(斎藤道三)は街道を整備し、楽市楽座を導入するなど内政面でも実績を残している。


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しかし、追放されたいた土岐頼芸は、尾張の織田信秀の後援を得て、朝倉孝景の庇護を受けていた土岐頼純とも連携し、美濃へ侵攻。
そして、土岐頼芸は揖斐北方城を奪い、土岐頼純は革手城に復帰した。

1547年9月、織田信秀が稲葉山城攻めを敢行したが、斎藤新九郎利政(斎藤道三)は籠城し、織田勢を奇襲して壊滅寸前にまで追い込んだ(加納口の戦い)。
1547年11月に土岐頼純が病死すると、斎藤新九郎利政(斎藤道三)は、今川義元からの圧迫を受けている織田信秀と和睦して、1548年に娘・帰蝶(きちょう)を織田信秀の嫡男・織田信長に嫁がせた。

帰蝶を嫁がせた後、正徳寺(現在の愛知県一宮市(旧尾西市)冨田)で斎藤利政(さいとう-としまさ)と織田信長は会見。
「うつけ者」と評されていた織田信長が、多数の鉄砲を護衛に装備させ正装で訪れたことに大変驚き、斎藤利政(斎藤道三)は織田信長の器量を認め、家臣の猪子兵助に対して「我が子たちはあのうつけ(織田信長)の門前に馬をつなぐようになる」と述べたとされる。
斎藤利政(斎藤道三)は織田家の支援を受けて、反逆していた相羽城主・長屋景興や揖斐城主・揖斐光親らを攻略し、1552年には揖斐北方城の土岐頼芸を再び尾張へ追放。美濃を完全に平定した。

斎藤義龍は、側室・深芳野が嫁いですぐに生まれていた為、土岐頼芸の子だという噂も立ち、土岐家恩顧の家臣の反発も受け、1554年、斎藤利政(斎藤道三)は家督を嫡男・斎藤義龍へ譲って、岐阜・常在寺で剃髪入道し「道三」と号し、鷺山城に隠居。
しかし、斎藤道三は斎藤義龍よりも、その弟で正室・小見の方の子である斎藤孫四郎斎藤喜平次らを寵愛し、ついに斎藤義龍の廃嫡を考え始めたとされている。
斎藤喜平次には名門一色氏を名乗らせたこともあり、斎藤道三と斎藤義龍の関係は最悪の事態を迎えた。

1555年、斎藤義龍は叔父とされる長井道利と共謀し、日根野弘就に弟達を殺害させて、斎藤道三に討伐軍を派遣した。
この時、氏家直元稲葉一鉄(稲葉良通)、安藤守就ら旧土岐家の家臣のほとんどは斎藤義龍に味方し、斎藤道三は織田信長に援軍を要請した。
1556年4月、斎藤義龍17500は、2500の斎藤道三と長良川河畔で合戦となる(長良川の戦い)。
竹腰道鎮(竹腰摂津守)を討ち取るなど対抗するも、兵力の少なさは否めず、また、娘婿・織田信長は急ぎ救援軍を出したが間に合わず、斎藤道三は討死した。享年63。


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斉藤道三は、戦死する直前、織田信長に対して美濃を譲り渡すという遺言書を送っていた。
息子・斎藤義龍を「無能」と考えていたが、長良川の合戦で卓越した戦略・戦術を目の当たりにし、評価を誤っていた事を認めたと伝わる。
斎藤道三の首は、斎藤義龍勢の旧臣により、道三塚に手厚く葬られた。なお、首を討たれた際、乱戦の中で井上道勝により鼻も削がれたと言う。

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