日根野備中守(日根野弘就・延永弘就) 斎藤孫四郎らを殺害か?

日根野備中守(日根野弘就・延永弘就)




日根野弘就(ひねの-ひろなり)は、1518年に生まれたとされる戦国時代の武将で、美濃・本田城主として斎藤道三に仕えました。
父は、和泉から美濃に移住した日根野九郎左衛門尉で、兄弟に、日根野弘就、日根野弘定、日根野盛就がいます。

斎藤道三は、家中の不満を抑えるために隠居して、家督を嫡男・斎藤義龍(斎藤高政)に譲りますが、今度は斎藤義龍が兄弟の斎藤孫四郎斎藤喜平次と対立するようになります。
そのため、1555年、斎藤義龍は、弟・斎藤孫四郎と斎藤喜平次を暗殺しますが、この時、殺害を実行したひとりが、日根野弘就(
日根野備中守)とされます。
斎藤道三との長良川の戦いでも、日根野備中守は、斎藤義龍に味方しました。


これらの功績から、日根野弘就はかなりの人物であったことが伺え、斎藤家の重臣として抜擢されます。
氏家直元安藤守就・竹腰尚光・日比野清実・長井衛安らと、斎藤義龍を支えました。
ただし、稲葉良通(稲葉一鉄)、安藤守就、氏家直元らとは不仲だったようで、織田信長と西美濃三人衆が内通した疑いになると、近江・小谷城浅井長政に加勢を要請するなどしています。

1564年、安藤守就と竹中重治(竹中半兵衛)らにより、稲葉山城が占拠された際には、主君の斎藤龍興と一緒に稲葉山城から逃れました。
1566年、丹後守護代などを務めた家柄の延永の姓名を名乗るようになり、延永備中守弘就と称しています。

織田信長の攻勢が強まっても、貫して戦ったため、1567年、稲葉山城が落城すると、延永弘就(日根野弘就)は所領を失い、一族は浪人しています。

そして、日根野一族は遠江の今川氏真に仕えたようです。
永禄11年(1568年)、掛川城主の朝比奈泰朝が、徳川家康の家臣・石川数正と戦った際に、日根野弘就の家来である日根野源太・鈴木深右衛門が討死した記録があります。
しかし、1569年には、掛川城も徳川家の手に落ち、またしても日根野一族は浪人しました。

その後、近江の浅井長政に一時仕えますが、斎藤龍興の要請があったのか、浅井家を離れ、1572年には、長島一向一揆に参加しています。
しかし、斎藤龍興が頼った朝倉勢などは雪のために越前に引き上げたこともあり、連携は失敗します。
1574年、伊勢・長島城は総攻撃を受けて壊滅し、日根野一族はまたしても浪人しました。


その後はさすがに行くあても無かったようで、しばらくして、織田家の馬廻りに加わり、近江に所領を与えられた模様です。

日根野弘就は、1575年、越前一向一揆の討伐では、遠藤慶隆らと共に白木峠を越えて穴馬谷に入り戦功を挙げました。
1578年、荒木村重が裏切った有岡城の戦いにも参陣しています。
その後、日根野弘就ら一族は、安土城の城下に屋敷を与えられており、織田信長の近くで警護を担いました。

天正10年(1582年)、明智光秀本能寺の変の際にも、京都にいましたが、別に宿をとっていたようで、本能寺や二条御所には駆けつけず、静観した模様です。
山崎の戦いのあとは、遠藤慶隆に京都の情勢を伝えるなどしています。

賤ヶ岳の戦いでは、羽柴勢に加わっていたようで、その後、美濃に領地を与えられました。
1584年、豊臣秀吉の命にて伊勢に出陣し、尾張に移動すると小牧・長久手の戦いで、弟・日根野盛就らと二重堀砦の守備をしています。
豊臣勢の撤退時には、細川忠興木村重茲長谷川秀一・神子田正治ら殿(しんがり)を努め、日根野弘就は織田信雄を撃退しています。

天正13年(1585年)、四国攻めの羽柴秀次に加わり、阿波・脇城を攻撃しました。
日根野弘就は、その後、豊臣秀吉の勘気を被り一時追放されますが、1590年、子の日根野高吉が山中城の戦いなどにて功績があったためか許されて、再び豊臣家に仕えています。
朝鮮攻めでは、豊臣秀吉の使者として朝鮮に渡りました。

子の日根野高吉は、信濃・高島城に3万8000石を与えられて、7年かけて高島城を築城しています。


1595年、豊臣秀次事件後のあと、日根野弘就は伊勢・尾張・三河に合わせて16000石の大名に抜擢されています。

1600年、関ヶ原の戦いでは、石田三成・徳川家康のどちらにも協力せず、静観したため、戦後、所領を減らしました。

1602年に日根野弘就は死去。
一説では、西軍に内通していたものの証拠を隠滅した上で自害したともされます。

日根野氏は、下野・壬生城の壬生藩として存続し、のち豊後・府内藩2万石となっていますが、日根野吉明に子が無く、1656年、無嗣改易・断絶となっています。
一族は、徳川家の旗本として存続しました。


なお、日根野頭形兜と言う戦国時代にはやった「兜」(かぶと)があります。
日根野弘就は、防具の研究に熱心だったようで、曲線的な形状にて、鉄砲からの防御性を高めたこともあり、日根野頭形(ひねのずなり)は、徳川家康、真田信繁真田幸村)、井伊直政立花宗茂千利休など、有名武将も採用しています。

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