木村重茲とは 豊臣秀次に最後まで殉じた忠義の武人

木村重茲




木村重茲(きむら-しげこれ)は豊臣秀吉配下の家臣・木村定重の子として生を受け、秀吉の甥・豊臣秀次に仕えた武士です。官位から常陸介と呼ばれることが多く、秀次の家臣として名高い重玆ですが、その生年は分かっていません。

彼が武将として歴史に名を残したのは天正11年(1583年)で、父・定重が亡くなった事により、木村家の家督を継いでいます。
同年に賤ヶ岳の戦いが起こると重茲は秀吉軍の武将として従軍し、近江・堂本山砦で守将の任務に従事しました。
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは武功をあげており、翌年には秀吉から越前国・府中(福井県越前市)に12万石を賜ります。

また、重玆は天正15年(1587年)に九州征伐に参陣して島津氏ら九州の群雄を相手に戦い、天正18年(1590年)に小田原征伐へ赴いた時には豊臣の先鋒として武蔵・岩槻城で功績を挙げました。同年に行われた奥州仕置では出羽国(山形県、秋田県)の検地を受け持っており、政治面での活躍も見られます。


また、秀吉に改易された奥州の武将・葛西と大崎の両氏に仕えていた者達が引き起こした葛西大崎一揆(伊達政宗が扇動したとの説あり)を鎮圧した際には秀次に従って参戦し、ここでも重玆は武功を挙げました。彼が秀次の家老として仕官し始めたのはこの頃からと言われています。

秀吉の後継者であった秀次に仕えて安泰と栄華を獲得しても重玆の武勲は留まるところを知らず、文禄元年(1592年)に勃発した文禄の役にも3500の兵を率いる将として海を渡り、朝鮮で戦いました。彼の功労を秀吉は絶賛し、山城・淀城にて18万石の加増移封と言う好待遇で報います。

木村重玆は先述したように武勇のみでは無く、政治家としての才覚もあった人物でしたが、文化とりわけ茶人としての活躍もあった人物で、千利休に教えを乞うた門弟でもありました。
その千利休が改定し、秀吉が秘伝とした『台子手前』を秀吉自ら伝授した7名の人物を指して台子七人衆と呼びますが、重玆は主君・秀次と並んでその七人衆に名を連ねています。

そうした栄光に満ちた人生を歩んでいた重玆でしたが、悲劇は突然に訪れました。文禄4年(1595年)7月15日、秀次事件に連座した重玆は秀次の与党として死罪の沙汰を下されたのです。罪に問われた理由は、秀次を弁護した事によるものでした。若き日から没落するまで秀次に仕え続けた重玆は、摂津国茨城(大阪府)の大門寺で切腹ないしは斬首刑で処刑され、その人生を終えます。戒名を常照院殿重高大居士と言います。

秀吉の追及は重玆の子供達にも及び、長男の高成も父と同じく死罪の上梟首、娘も磔刑にされる末路を迎えました。重玆一家の生存者は逃亡に成功した妻の宮内卿局と、やはり幼年故に不問とされ、後に赦免されて母と共に豊臣に仕官した一人の男児だけであり、その子供こそが大坂夏の陣で豊臣秀頼に殉じた若き勇者・木村重成です。

殺生関白と嫌われる一方で豊臣の御家騒動で消された被害者とも言われる豊臣秀次に木村重玆の評価は人によって様々で、『奸智に長けている』『秀吉殺害を企てた』悪人として『良将言行録』に記される一方、義賊として今も絶大な人気を誇る戦国の怪盗・石川五右衛門に秀吉暗殺を依頼し、あくまでも秀次に忠義立てする人物とする諸作品も少なくないなど、正義感溢れる人物としての評価も存在します。


豊臣秀次に生涯の忠義を誓うものの、それが皮肉にも一家の破滅を招いた悲劇の武士・木村重玆は、終焉の地である大門寺に、今も眠り続けています。

参考サイト

(寄稿)太田

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