仁徳天皇 善政で名高き記紀神話の聖帝

仁徳天皇


今年2019年は今上天皇(現・上皇陛下)の退位礼、新天皇の即位礼正殿の儀、大嘗祭と皇室に関する事柄が多い年でした。
また、ユネスコによって2019年7月9日に、仁徳天皇陵を含む百舌鳥・古市古墳群が世界文化遺産登録されるなど、過去の皇室に対する話題も各方面で取り上げられました。
本稿では、その古墳に眠る上古の帝王にして武将でもあった仁徳天皇(にんとくてんのう)を紹介します。

『日本書紀』によると仁徳天皇は祖母に当たる神功皇后摂政57年(西暦257年)、応神天皇の4子として誕生したと記録されています。
名は大鷦鷯尊(おおさざきのみこと、古事記では大雀命)で、兄の大山守命(おおやまもりのみこと)と共に皇太子の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ、応神帝の末子)を補佐する重職にありました。


大鷦鷯尊が仁徳天皇として即位することとなったのは、父帝の崩御後に不満を抱いて反逆した兄王・大山守を共に倒し、即位を目前とした郎子の夭死(書紀では自決)が理由です。
それには謎が多く大鷦鷯尊側による謀殺説もあり、仁徳天皇が即位する前後の大和朝廷は不穏な空気が漂う状況でもありました。

日本書紀によると、そうした状況下で難波の高津宮(たかつのみや。今の大阪府)で政治に取り組んでいた仁徳帝は4年春2月6日、群臣達に民衆の困窮を憂える詔を発します。
それによると、高い建物から国内の様子を眺めた天皇は、食事を作る煙がまばらであるのを目撃しました。
それは、人々が貧しいことに加えて五穀が不作である事と悟り、都から離れた国ではどんなに大変だろうかと思ったことが記されています。

そして3月21日には3年の間、課税を免除して人民を救う詔を出します。
その善政は天皇が自らの衣食を節制したばかりか、皇居の屋根や垣が破損して雨風が吹き込んできても修理しない徹底ぶりで、その恩恵を受けて豊かになった臣民からは天皇を称える声が起こりました。


ついには、民が落とし物を着服しなくなり、自発的に皇居の修築を申し出るようになっても仁徳帝は徴税を認めず、ついには10年10月に労役を命じるまで、一切の税を取らなかったと『書紀』には記録されています(古事記では3年の免税後に民生が回復したのを見てから再開)。

こうした仁徳帝の偉業は後世までも語り継がれますが、当時最先端の学問であった儒学の聖典に影響された可能性も高く、とりわけ『書紀』が強大国でもあった中国に対する意味も込めて編纂されたことからもそれが伺えます。
一方で仁徳帝は、住吉津と呼ばれる港を開港したのを皮切りに、水害を防ぐための水路掘削(難波の堀江)、堤防の建築(茨田堤)、農業に用いる灌漑用水の整備を遂行し、近畿地方を中心に大和朝廷の統治する地域は繁栄を謳歌しました。

また、近年は日本に限らずエジプトなど古代王朝の高度な施設や巨大墳墓が民衆や奴隷を強制労働させたとする従来の説は疑問符が呈され、農閑期の民ないしは災害の被災者に衣食を施して救済するための公共事業とする見解が有力です。一方で巨大古墳建造や各地の開拓を興した英雄、もう一方では長期にわたる免税で民を救った仁徳天皇ですが、先述した古代の事情を考慮すれば整合がとれているとも言えます。

仁徳天皇にはこれまで紹介した大政治家としての一面だけでなく、魅力的な文化人、敏腕な武将・外交官としての側面も存在します。
仁徳帝は『英雄色を好む』の例えに洩れず、皇子時代に応神天皇から譲られた髪長媛を始めとして数多くの女性を愛し、中でも武内宿禰を開祖とする葛城氏出身の大后(皇后)である磐之姫との物語は著名です。

この后が嫉妬深いので、仁徳天皇は各地の姫を側室に迎えよう(ないしは彼女らのもとに通おう)とするが、あまりにも磐之姫が厳しいので困難を極めたとする説話が残されます。
『古事記』には激怒した磐之姫が出奔したのに悩んだ天皇と側近達が歌を通して彼女を慰め、その怒りを解いて和解する歌物語が記録されており、仁徳帝の文化的英雄としての面が見て取れる逸話です。
なお、仁徳帝の後に皇位を継承した3名の天皇は磐之姫との間に生まれており、后の出身氏族との関係維持に腐心した史実が反映されているとも言われます。

仁徳天皇と言う英主のもとに繁栄する大和朝廷でしたが、その権威と支配領域の拡大は内憂外患をもたらす一因ともなりました。
『書紀』によると40年に弟の隼別(はやぶさわけ)皇子が、雌鳥(めどり)皇女との密通が原因で天皇を弑そうと目論んだが征伐されたこと、53年には朝鮮半島の新羅と対立して大和朝廷軍が勝利したこと、その2年後には蝦夷の反逆が起こったと記されます。
65年には2つの頭を持つ飛騨の怪人・宿儺(すくな)を退治したとする神話的な逸話が記録されるなど、大和朝廷の繁栄を築いた仁徳天皇の人生には戦いがつきものでした。


一方、友好的な国だった百済の王族を通して海外から鷹狩りを導入したこと、朝鮮半島の高麗国から鉄製の的と盾が贈られたり、呉の使者が来日した記録が多く残っており、仁徳帝の時代は海外との交易を通して国が栄えた時期でもありました。
中国の史書に記された倭の五王の一人が仁徳天皇ではないかとする説もあります。

政治・文化・戦争・外交と多岐に渡って精力的に活動した仁徳天皇は、87年1月16日に崩御するまで110歳(『古事記』では83歳)の長寿を保ち、百舌鳥野陵に葬られたと『日本書紀』に記されています。
この陵墓を含めた『百舌鳥・古市古墳群』が2019年にユネスコに世界文化遺産として認定されました。

明治維新以降、天皇中心の歴史教育が絶対視された風潮の日本で、仁徳天皇の事績は為政者にとって格好の題材であり、皇室の偉大さ・神聖性を叩きこむための道具として用いられました。
しかし、今も大阪府では仁徳天皇陵や仁徳帝を祭神とする難波神社が仁徳さんとして敬慕され、大阪市歌の一番に民のかまどの逸話が歌われるなど、現在でも国と民衆のために一生をささげた仁徳天皇の優しさと偉業は潰えることなく、人々の間で語り継がれています。


参考文献

宇治谷孟 『日本書紀(上)』 講談社学術文庫
田辺聖子 『田辺聖子の古事記』 集英社
三浦祐之 『口語訳古事記』 文藝春秋

(寄稿)太田

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