加藤忠広とは 薄幸の時代に生を受けた加藤清正の嫡男

加藤忠広


加藤忠広(かとう-ただひろ、加藤忠廣とも)は、慶長6年(1601年)に肥後熊本藩主・加藤清正と玉目氏出身の側室である正応院の間に三男として生まれました。
ただし『丸岡城ものがたり』加藤忠廣略年表によると慶長5年(1600年)生まれとあります。
彼は幼名を虎藤と言い、長兄の虎熊と次兄の熊之助、姉妹には本浄院と徳川頼宣の正室・八十姫がおり、兄二人が夭逝した事で忠広が清正の世継ぎに選ばれます。

慶長16年(1611年)に清正の死去に伴い、虎藤は11歳の若さで熊本藩主となりました。
藩主が若いことから江戸幕府は、水俣城、宇土城、矢部城の廃止や支城の人事並びに重臣の知行割を幕府が行うことなど、9条の掟書を示して継承の条件としています。
2年後に従五位下肥後守、元和6年(1620年)には将軍・徳川秀忠から一字拝領して忠広と名乗り、従四位下侍従の官位を賜りました。


また、忠広が藩主であった頃の熊本藩の政治は、藤堂高虎が藩主の後見人となって支え、重臣が合議制で藩を運営していました。
しかし、戦国の世を生きた家臣団を擁する大藩を担うのは若年の忠広には荷が重かったのでしょう。
合議して藩政を行うべき家老がそれぞれの派閥を作って闘争した“牛方馬方騒動”が起きてしまったのです。

この事件は、元和4年(1618年)に熊本藩の重臣・加藤正方に与する武士が対立する加藤正次ならびに、忠広の外祖父や母を輩出した玉目氏が大坂の陣で豊臣に加担したと幕府に訴え、それに抵抗した正次側も負けじと訴訟を起こした御家騒動で、加藤家の内紛が幕府に発覚します。
結果として正方が勝訴して正次派は多くが配流され、熊本から追放されました。

この件に関して忠広は無罪であったものの、藩政を混乱させた一因だと見做されたことは疑いがなく、小倉藩主・細川忠興は彼を狂気と評しています。
他にも、徳川家光と不仲な弟・徳川忠長と個人的な親交があったこと、築城のために重税をかけて藩内の農村を荒廃させるなど、忠広の周囲には不穏な空気が漂っている状況でした。

寛永9年(1632年)5月22日に、江戸へ向かっていた忠広は品川宿で入府を制止され、池上本門寺で稲葉正勝(家光の乳母・春日局の息子)から改易の沙汰を申し渡されます。
理由としては忠広の長男・光広が諸大名の名と花押を記載した謀反の連判状を戯れに書いたこと、日頃の行跡が良くなかったことが主なものとされます。

しかし、先述した忠広の公私にわたる問題とも無関係とは言えず、まして清正と忠広は豊臣家に忠義を尽くした譜代の臣下で血縁者でもありました。
すなわち、江戸幕府にとって加藤氏は警戒の対象にして、邪魔な存在でもあり、それ故に言いがかり同然の責めを追わせて取り潰したとする説もあります。

改易の結果、忠広は出羽(山形県)の庄内藩主・酒井忠勝に預けられ、母の正応院や母方の祖母、20名の家臣、そして乳母や女官らを従えた50人で出羽に移り住み、出羽丸岡藩主として一代限りで1万石の待遇を与えられました。
なお、改易の一因となった光広は飛騨高山へ移され、次男正良はその母や妹と共に上州の真田家に預けられます。

父から52万石を引き継いだ大大名から小さな藩へと転落した忠広でしたが、庄内藩の忠勝が徳川方ながらも彼を気の毒に思って米100俵を年ごとに与え、城郭を新築して住まわせるなど、恩情のある処遇で臨みました。
流人になったとはいえ、近隣にある金峯山への参拝が自由にできたり、詩歌や文学を嗜むなど加藤一族と従者達は穏やかに暮らしていたと言います。


配流から22年後の承応2年(1653年)、加藤忠広は故郷を遠く離れた出羽の地で53歳の生涯を終え、本住寺(山形県鶴岡市)に葬られました。
忠広は慈愛と政治力を兼ねた名将だった父に及ばない暗君とされることが多い一方、出羽の豆を西国に広めるなど農事をおろそかにしない賢さと思いやりを持っていたとする記録もまた、彼の人となりを残す逸話です。
終焉の地である山形県の丸岡でも大正2年に忠広を顕彰する活動が始まるなど、激動の時代を生き抜いた加藤忠広は長い時を経て、異郷の地で再評価されつつある武将でもあります。

(寄稿)太田

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