藤堂高虎【詳細版】~主を7回も変えた猛将で水軍指揮も取れる築城名手



藤堂高虎の父は三井虎高(藤堂虎高)で、母は藤堂忠高の娘・おとら(多賀良氏の娘・盛との説もある)
父の三井虎高は、若くして近江から甲斐・武田信虎(武田信玄の父)の家臣となり「虎」の字を賜るほどの有能な武将であったが、他の家臣に嫉妬され武田家を離れると、近江犬上郡藤堂村に戻り、藤堂忠高の娘と結婚して養子に入った。そして、京極氏、後に浅井氏に仕えたとされる。
そんな折り、1556年1月6日、近江国犬上郡藤堂村にて藤堂高虎は次男として生まれたが、藤堂家は先祖代々の小領主ではあっても没落しており、農民にまで身を落としていたとされる。幼名は与吉。
成長すると父や兄と共に、浅井長政の軍勢に加わったようで、1569年に北近江で一揆が発生し、父と兄が出陣した際には、まだ13歳と幼かった事から同行を許されなかったが、手製の刀と竹槍を持って、後を追いかけ一揆衆の田部熊蔵を討ち取った為、浅井長政は活躍を褒め称えて、備前兼光の刀と黄金一枚を与えたとされる。

1569年、織田信長が伊勢の北畠家を攻めた際、その加勢として浅井家の陣に加わって参陣した、兄・藤堂高則が大河内城の戦いで討死。



藤堂高虎は、1570年6月28日、姉川の戦いにでは織田勢の敵首を取る武功を挙げ、浅井長政から感状を受けた。僅か15歳であったが、姉川の戦いが正式な初陣とも言える。

姉川・野村橋

1573年に小谷城の戦いで浅井長政が自害し、浅井家が滅ぶと、浅井氏の旧臣だった山本山城主・阿閉貞征の家臣となった。
3ヶ月後には、同じく浅井氏旧臣の磯野員昌の家臣として仕えたが、1576年、織田信長が磯野員正を追放した為、やがて近江を去って、織田信長の甥・織田信澄の家臣となった。
丹波攻めにて名のある武将を討ち取る功を立て母衣を許されたが、80石と評価が低かったこともあり長続きせず出奔。

流浪生活中には三河吉田宿(現・豊橋市)の吉田屋で三河餅を無銭飲食して捕まったとようで、吉田屋の細君もたまたま近江の出であったとことから、主の吉田屋彦兵衛に故郷に帰って親孝行するようにと路銀まで与えられたと言う。後日、大名にまで出世した藤堂高虎は、参勤交代の折に立ち寄って餅代を支払った。
ちなみに藤堂高虎の旗指物は「三つ餅」で、白餅は「城持ち」にひっかけられているとも言われる。

その後、藤堂高虎(21歳)は1576年に羽柴秀吉の弟・羽柴秀長(後の豊臣秀長)に300石で仕えた。
羽柴秀長のもとでは織田信長の安土城築城にも参加し、このとき築城術を学んだとされ、この頃より与右衛門(よえもん)と名を変えた。
1577年からは、中国攻めなど参戦し、功績抜群により1300石。
1580年、羽柴秀長の有子山城攻めにも加わったようで、落城した有子山城の改修を藤堂高虎が担当し、石垣を用いた。
また黒田官兵衛らも参加した播磨の三木城兵糧攻めにも参陣。
城内から討って出てきた猛将・賀古六右衛門と一騎打ちをして、見事討ち取っている。
この頃、一色義直の娘・お久(久芳院)を正室として迎えた。
1581年、但馬の一揆鎮定の際には一揆の首領・富安某を討ち取ると言う戦功を上げ、名馬「賀古黒」を賜った他、鉄砲大将として大和郡山で3000石となった。
1582年、備中高松城の水攻め包囲の頃、高松城の支城である冠山城攻めの先陣を務め、敵将・竹本幸之助を討ち取っている。
1582年6月の明智光秀による本能寺の変では、羽柴秀長勢の先鋒を務め、伊勢与三郎らの武将首3つを上げる。 
特に柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでは佐久間盛政を銃撃して敗走させることに成功して、戦況を左右する戦功を挙げたため、1300石を加増され合計4300石となっている。

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1584年の徳川家康との小牧・長久手の戦では、伊勢・松ヶ島城を攻めて功を立てた。

紀州征伐では1585年10月に湯川直晴を降伏させ、山本主膳を討ち、羽柴秀長の命で雑賀党の鈴木重意を謀略して自害に追い込んだと言われる。この時の紀州攻めにて水軍活用術も得た。
羽柴秀長が紀伊国と和泉国の領主として大和郡山城主となったことから、紀伊国粉河で5000石となり、普請奉行として猿岡山城和歌山城の築城に当たった。
これが築城の名人と言われる藤堂高虎最初の築城であり、この頃から高虎と名乗るようになった。家督を譲られた可能性が有る。
同年1585年の四国攻めでは木津城攻めで城将を説得して降伏させた他、一の宮城攻めでは自ら偵察を務め城将・谷忠澄を説得して降伏させるなどの功績をあげ、羽柴秀吉に認められると紀州粉川に5400石が加増され、合計10400石の大名にまでなった。降伏した長宗我部元親の堺~大坂の往復見送りもしている。
羽柴秀吉関連では、方広寺大仏殿建設の際に、材木を熊野から調達するよう命じられている。

1586年、関白となった豊臣秀吉に、謁見するため上洛することになった徳川家康の屋敷を聚楽第の邸内に作るよう指示を受けた羽柴秀長は、作事奉行として藤堂高虎を任命した。
藤堂高虎は渡された設計図に警備上の問題点があるとして、独断で設計を変更して費用は自分で負担した。
のちに引き渡された徳川家康より、設計図と違う点があると指摘を受けると「天下の武将である家康様に御不慮があれば、主人である秀長の不行き届き、関白秀吉様の面目に関わると存じ、私の一存で変更いたしました。御不興であれば、ご容赦なくお手討ちください」と返し、徳川家康は刀を与えて藤堂高虎の心遣いに感謝したと伝わる。
これにより、徳川家康は藤堂高虎とは親近を持ったとされる。

1587年の九州征伐では、根白坂の戦いで、島津勢に包囲されてピンチだった宮部継潤を救援する為、島津の大軍と戦うと言う活躍を見せた。
この戦功により、紀州・粉河城主として20000石となり、豊臣秀吉の推挙を受け正五位下・佐渡守に叙任。
丹羽長秀の遺児・仙丸を養子として迎え、藤堂高吉と命名した。

1589年、北山一揆の鎮圧の拠点として赤木城(現三重県熊野市紀和町)を築城。
この一揆では藤堂高虎が多数の農民を田平子峠で斬首したとされ「行たら戻らぬ赤木の城へ、身捨てどころは田平子じゃ」との歌が残されており、処罰の厳しさが伝わる。

1590年1月頃から、主君・豊臣秀長の病状が悪化。豊臣秀長は小田原征伐(小田原攻め)には参加できなかったが、藤堂高虎は韮山城攻めで先鋒に加わったとされる。

韮山城

1591年1月22日に、豊臣秀長が享年52死去すると、家督は甥で養子の豊臣秀保が継いだ為、以後は郡山城主・豊臣秀保の後見役を藤堂高虎と桑山重晴が務めた。
1592年の文禄の役で、豊臣秀保は15000を率いて名護屋城に参陣したが、渡航はせず、代わりに藤堂高虎、桑山元晴・桑山一晴堀内氏善、杉若氏宗・杉若無心らが渡海し水軍として戦っている。李舜臣率いる亀甲船を主とした敵船団には苦戦したが、唐浦沖で朝鮮船団に対して大きな戦果をあげている。
1593年、朝鮮戦線で晋州城へ日本軍の一部将として総攻撃をかけた。このとき15歳になる養子・藤堂高吉も大暴れをして、その勇猛ぶりから小藤堂と讃えられた。
そして、11月、主君・豊臣秀保らと共に大和郡山城に帰国。

大和郡山城

1595年4月16日、主君・豊臣秀保が死去。享年17。豊臣秀保は従姉妹の豊臣秀長の娘・おきくを正室としていたが、子女は無く、以前、豊臣秀長の養子だった仙丸もすでに藤堂高虎の養子となって藤堂高吉と名乗っていたために、大和豊臣家は断絶した。
これにより、藤堂高虎(39歳)は豊臣秀保の菩提を弔うために出家して、高野山にて隠棲した。
しかし、その将才を惜しんだ豊臣秀吉が生駒親正を使いに出して説得させて召還し還俗し、伏見城にて豊臣秀吉に謁見。
この時、50000石を加増されて伊予国板島(現在の宇和島市)の板島丸串城主として70000石の独立大名となり、藤堂高虎は板島を「宇和島」と改名した。

宇和島城

1597年からの慶長の役にも水軍を率いて参戦。豊臣秀吉より海戦総督に任じられ、司令艦・日本丸と桐花徽号の茜紅幕を与えられた。漆川梁海戦では朝鮮水軍の武将・元均率いる水軍を殲滅するという武功を挙げ、南原城の戦いと鳴梁海戦にも参加し、帰国後に大洲城10000石を加増されて合計80000石となった。
この時期に板島丸串城の大規模な改修を行い、完成後に宇和島城に改称している。

宇和島城の天守

また、朝鮮の官僚・姜沆を捕虜にして日本へ移送したのもこの時期である。


徳川家康への忠義

1598年8月に、豊臣秀吉が死去するが、その前から豊臣家の家臣団が武断派・文治派(石田三成ら)に分裂すると、藤堂高虎は武断派の諸将である福島正則(尾張清洲城主)、加藤清正(肥後熊本城主)、池田輝政(三河吉田城主)、細川忠興(丹後宮津城主)、浅野幸長(甲斐甲府城主)、加藤嘉明(伊予松山城主)、黒田長政(豊前中津城主)、蜂須賀家政(阿波徳島城主)に先んじて徳川家康側に接近した。

徳川家康は豊臣秀吉の遺言で伏見城に滞在していたが、病気の前田利家を徳川家康が見舞うために大坂に出向いた際に、藤堂高虎は淀川まで出迎えて、船で着いた徳川家康を女駕籠に乗せて大阪の自邸に案内した。
これは、反家康派の石田三成らが徳川家康を襲撃するとの噂があった為で、徳川家康は信頼する藤堂高虎に万事を任せる事になった。
藤堂邸は厳重に警護され、それを知った石田三成らは襲撃を諦めたとも言う。
前田利家の見舞い後、大急ぎで伏見に戻った徳川家康を、藤堂高虎は同行して伏見まで見送っている。

1599年、隠居していた父・藤堂虎高(白雲)が伊予・宇和島城で死去。享年84。

そして、1600年、異母弟の藤堂正高を徳川家康に人質として自ら差し出して会津征伐に従軍し、その後、合渡川の戦いに参戦し、脇坂安治小川祐忠朽木元綱赤座直保ら東軍諸将への寝返り調略を行った。
9月15日の関ヶ原本戦では西軍の大谷吉継と血みどろの死闘となった。
下記写真は、関ヶ原ウォーランドの藤堂高虎。

藤堂高虎(関ヶ原ウォーランド)

また、留守中の伊予国における毛利輝元の策動による一揆も鎮圧している(毛利輝元の四国出兵)した他、増田長盛の居城・大和郡山城の接収を徳川家康により命じられている。大和郡山城は、かつての羽柴秀長の居城であり、勝手を良く知る城だった。
この時、旧浅井家の家臣で増田長盛の家臣になっていた、武勇名高い、渡辺了(渡辺勘兵衛)と再会して、2万石の高禄で召し抱えている。

戦後、これらの軍功により徳川家康から加増され、宇和島領を含む今治20万3000石となり、今張の地をを今治(いまばる)と改名した。(下記写真は今治城)

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藤堂高虎の身長は約190cmの大男だったと言われ、身体は弾傷や槍傷で隙間なく、右手の薬指と小指はちぎれ、左手の中指も短く爪は無く、左足の親指も爪が無かったと言う。

1601年閏11月11日、側室・松寿夫人(長連久の娘・まつ)との間に大助(後の藤堂高次)が誕生。
1602年には、今治城の築城を開始した。

藤堂高虎は徳川家の重臣として仕えて、江戸城改築などでも活躍した為、1608年には伊賀上野藩主・筒井定次の改易と伊勢国津藩主・富田信高の宇和島藩への転封で、今治周辺の越智郡20000石を飛び地として、伊賀一国100540石、伊勢安濃郡・一志郡で100400石に加増移封されて、津藩主として津城に入った。
徳川家康は、大坂城を攻撃した際に、万が一敗れたときには、伊賀上野城に撤退することを考えており、藤堂高虎は外様大名でありながら譜代大名格として重用されたのである。
伊賀に入ると、上野城と津城の城下町建設と地方の農地開発、寺社復興に取り組み、藩政を確立させ伊賀上野城では日本一の高石垣や5重の天守を築いた。

伊賀・上野城

その後、本城と定めていた伊勢・津城の大改修も行い居城としている。

伊勢・津城

また、幕府の命令で、娘の嫁ぎ先であった会津藩と高松藩、熊本藩の後見を務め、家臣を派遣して藩政を執り行っている。
藤堂高虎は文学や能楽、茶の湯を嗜む文化人でもあり、8度も主君を変えた苦労人のため人情に厚く、家臣にも寛大だったと伝わる。また、主君が死ぬとその後を慕って殉死する者が絶えない世の中だった為、藤堂高虎は殉死を厳禁にしたと言う。

1614年からの大坂冬の陣と翌年の大坂夏の陣でも5000を率いて徳川勢として参戦した。
下記写真の黒い兜は、藤堂高虎の兜。

藤堂高虎の兜

この頃には、藤堂高虎のように実戦経験豊富な武将は貴重な存在で、自らは河内方面の先鋒を志願し、八尾にて豊臣勢の長宗我部盛親と戦った(八尾の戦い)。
この戦いでは長宗我部勢や増田盛次・木村重成の猛攻にあって、一族の藤堂良勝や藤堂高刑をはじめ、600人余りの死傷者を出したが、徳川家康は「国に大事があるときは、高虎を一番手とせよ」と称賛し、その功績により32万石に加増され、従四位下に昇任した。
しかし、7回にも及ぶ撤退命令を無視して追撃するなど独断専行を行った家臣・渡辺了とは衝突して決別している。戦いには勝ったものの損害が大きく、渡辺了は奉公構により仕官先はなかった。

藤堂高虎はこの戦いの戦没者供養のため、南禅寺三門を造営し、釈迦三尊像及び十六羅漢像を造営・安置している。
また、常光寺の居間の縁側で八尾の戦いの首実検を行ったため、縁側の板は後に廊下の天井に張り替えられ、血天井として現存している。

徳川家康死去の際には枕元にいるることを許され、以後は2代将軍・徳川秀忠に仕えた。
1620年に徳川秀忠の5女・和子が入内する際には、自ら志願して露払い役を務め、宮中の和子入内反対派の公家たちの前で「和子姫が入内できなかった場合は責任をとり御所で切腹する」と言い放ち、強引な手段で押し切ったと言う(およつ御寮人事件)。
1627年には自分の敷地内に上野東照宮を建立し、徳川家康を弔ったが、1623年頃から眼疾で視力が次第に衰え、1630年には完全に失明していた。

藤堂高虎の像

1630年10月5日に死去。享年75。後は長男・藤堂高次が継いだが。藤堂高虎は人の上に立つ人間には五徳が絶対不可欠であり、これを心に戒めて藤堂高次に文武両道に励むように求めたと伝わる。
養子の藤堂高吉は、藤堂高次の家臣として仕え、後に伊賀名張に転封して分家を興している(名張藤堂家)。

藤堂高虎と正室・お久(久芳院)の間に、子は生まれなかった。お久は、1616年に津城で亡くなった。
その後、側室・まつ (長連久の娘)を継室に昇格?させたようだ。
下記は、津城跡にある藤堂高虎の騎馬像。

藤堂高虎の騎馬像

側室・まつ(松寿院)は、林甫城主・長連久の娘で、林甫城が落城した際に中野村に逃れていたところ、藤堂高虎に見初められたようだ。
この2人の間に生まれたのが、津藩の2代当主・藤堂高次で、まつの実兄・長連房は藤堂高虎の家臣として大阪夏の陣に参戦している。


藤堂家の主な家臣

赤井直義、浅井井頼、浅井吉政、池田秀氏、磯野行尚、磯野行信、織田昌澄、小浜直隆、蒲生郷舎、蒲生郷成、桑名吉成、佐伯惟定、新宮行朝、菅達長、藤堂家信、藤堂高刑、藤堂高吉、藤堂雅久、藤堂良勝、藤堂良政、西嶋八兵衛、服部平左衛門、真野頼包、渡邉金六、渡邉内膳、渡辺了

藤堂高虎の墓

藤堂高虎の墓、津城の城下にある菩提寺・寒松院にもありますが、ここでは伊賀・上野城の城下にある上行寺の藤堂高虎の墓をご紹介致します。

上行寺(じょうぎょうじ)は、1588年に5000石にて初めて城持ち大名になった藤堂高虎が、当時の領地・紀州粉河に創建した寺院ですが、藤堂家の伊賀菩提寺として、伊予への移転を経て、伊賀にも移されました。

上行寺

藤堂家の菩提寺にですので、当然のように藤堂高虎の供養塔があります。

藤堂高虎の墓

1630年10月5日、藤堂高虎は江戸の藩邸で死去しました。享年75。
下記は、2代目・藤堂高次の墓です。

藤堂高次の墓

上行寺には歴代当主や藤堂高虎の父・藤堂虎高の墓もあります。

藤堂家菩提寺

すべて写真は撮影しませんでしたが、藤堂家墓所の配置は下記のとおりです。

藤堂家墓所

上行寺の場所ですが、下記が境内駐車場入口となります。
墓所はその駐車場のすぐ脇です。

もちろん、伊賀・上野城とのセットでご訪問なさって頂ければと存じます。


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