黒田官兵衛とは
黒田官兵衛(黒田孝高、黒田如水)は天文15年11月29日(1546年12月22日)の朝8時頃に、黒田満隆(のちの黒田職隆、小寺職隆)の嫡男として播磨国の姫路で生まれた。
父・黒田満隆は23歳で、母は、16歳だっとされる岩(お岩)。乳母ではなく、母・お岩によって直接、育てられたとされる。
母は明石城主・明石宗和の娘で、この明石宗和は隠月斉(いんげつさい)と号し、関白・近衛稙家(たねいえ)に歌道を授けたと言われるほどの文化人であったため、母のお岩も歌道に精通しており、叔父の黒田休夢も羽柴秀吉の茶会に呼ばれるほどの茶人と言う環境で育った黒田官兵衛は、戦いの場にあっても、連歌、茶の湯をたしなむ教養ある文化人としても評価される。
もともと黒田氏は鎌倉時代の末、近江国伊香郡の黒田村出身とされるが、正確には分かっていない。室町時代、黒田氏嫡流は宗家の京極氏から自立して幕府奉公衆になり、評定衆をもつとめる名門であった。
その後、将軍の怒りに触れ、近江を追われた黒田氏は、一族を頼って備前国に流れたと考えられ、黒田家伝の「玲珠膏(れいしゅこう)」という目薬を製造・販売し、生計を立てたという。
黒田官兵衛の祖父・黒田重隆の代に備前国邑久郡福岡村に在住したが、その後、赤松氏の権威が低下している播磨国に移り、姫路・広峯神社の神官が全国を渡り歩く際、ご利益あるお札だけでなく目薬をセットとして販売してもらう事で財を成し、得た財を低金利で貸付け、たちまち土豪として成長し実力を付けた。
はじめ竜野城主の大名・赤松政秀に仕えたが、ほどなく西播最大の大名である御着城主・小寺政職に主を替えた。小寺政職から黒田氏は重用され、黒田重隆は家老筆頭として姫路城の城代にまでなっている。この時はまだ居館程度の規模であった姫路城は、黒田重隆によって修築されたようだ。
※ただし、天守がある現在の姫路城にと大改修したのは、池田輝政であるので、念のため記載しておく。
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黒田官兵衛の父・黒田満隆は思慮深く、武勇の人であったとされ、しばしば小競り合いを続けていた近隣の地侍も、いつしか黒田氏を主君とあおぎ、臣従するようになったと言う。
1545年に、父・黒田満隆は小寺政職の養女(明石城主・明石宗和の娘)を娶って、黒田満隆から小寺職隆に改名し、小寺一門として家老に列せられるほど、厚遇を受けた。
この小寺政職の養女・いわ が、黒田官兵衛の母にあたる。
1559年、黒田官兵衛が14歳の時、早くも母親を亡くし、その後、悲しみにくれて文学に没頭したと伝わるが、こんなエピソードもある。
黒田官兵衛は、幼少から浄土宗の僧侶・円満から学問を学んでいたが、母が亡くなるとふさぎ込んだとされる。
その際、僧侶・円満は、黒田官兵衛に「軍師・張良」の話を聞かせた。
「劉邦は、戦が上手だったわけではない。でも、いつも勝利できたのには、有能な参謀である張良がいたからだと。」
「張良は、劉邦の欠点を補い、間違いを指摘したが、また、劉邦も張良の意見をよく聞いた。戦場の勇気だけでは戦には勝てない。張良の役割は劉邦より大きい」と聞かせたのだ。
また、円満は「張良は無力で、無私ですがすがしい人物であった。よく深い者は、必ず身を滅ぼす」とも付け加えた。
これを聞いてその後、黒田官兵衛は武芸・学問に、さらに打ち込んだと言う。
1562年、黒田官兵衛は16歳で小寺政職の近習になり、父・黒田職隆と共に土豪を征伐し、初陣を飾る。
1564年、父・黒田職隆の娘(志織)が、浦上清宗に嫁いだ際、その婚礼当日の宴席中に、赤松政秀の奇襲し、浦上親子ともども黒田職隆の娘も殺害されると言う事件が起こった。
こりにより、黒田職隆は赤松政秀と対立することとなる。
※大河ドラマ「軍師 官兵衛」では、黒田職隆の娘は養女とした「おたつ」になっている。
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姫路城主に
1567年頃に、黒田官兵衛が家督と家老職を継ぎ、小寺政職の姪にあたる櫛橋伊定(櫛橋左京進)の娘の光姫(てる姫)を正室に迎え、姫路城代となった。
1568年12月3日、黒田官兵衛の嫡男として松寿丸(黒田長政)が誕生。
1569年5月、赤松政秀が姫路城を攻撃。足利義昭を抱える織田信長に属した池田勝正、別所安治、宇喜多直家らの支援を受け、姫路城に3000の兵で挑んできた。
当時の姫路城は現在のような大城郭では無く、防御能力も低かったうえ、兵の主力は小寺政職の置塩城に派遣していたため、籠城兵も僅かと言う危機的な状況であったが、黒田官兵衛は、籠城しつつも、城外の赤松勢に奇襲攻撃を仕掛けるなど、たった300の兵で2度にわたり撃退することに成功した。
あきらめなかった赤松政秀は1ヵ月後に再び3000で来襲。
この際も兵力的に不利な黒田官兵衛は、精鋭150を指揮して城外に本陣を構え対抗したが、母里小兵衛や井出友氏(井手友氏、黒田職隆の弟)ら重臣が次々と戦死。
窮地に立たされたが、英賀城主・三木通秋の救援が間に合い、黒田勢は大損害を受けつつも数時間で体制を整え、赤松政秀勢に最後の強襲を掛けた。
この時、赤松政秀勢は「黒田勢はもう壊滅状態で抵抗する力は無い」と慢心があったようで、逆襲されるとは考えておらず、たちまち大混乱に陥り敗走した。
黒田勢では幼馴染の母里武兵衛が戦死するなど死者・負傷者の数が300人中287人に及び、ほぼ壊滅状態であったが赤松政秀を辛くも撃退し、勝利を収めたのがこの「青山・土器山の戦い」であった。
その後、赤松政秀は1569年11月に浦上宗景に攻められ降伏している。
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織田家の家臣へ
1573年、この頃の小寺氏など播磨の大名たちは、近江の浅井長政を討ち、将軍・足利義昭を追放し畿内で勢力を拡大する織田信長と、山陰・山陽に勢力を張る毛利輝元と、2つの大勢力に再び挟まれる立場となった。
織田信長勢が、1575年に長篠の戦いで武田勝頼を破ったのを聞き、兼ねてから織田信長を評価していた黒田官兵衛は、天下の情勢は固まりつつあると見て、主君・小寺政職に織田氏への臣従を勧めた。
そして、1575年7月、羽柴秀吉の取次により、岐阜城で織田信長に拝謁。さらに小寺政職にも、赤松広秀、別所長治らと揃って、京で織田信長に謁見させた。
1575年9月には、毛利氏と結んだ宇喜多直家との戦いに敗れた浦上宗景が、小寺氏を頼って落ち延びて来ている。
1576年2月、織田信長によって都を追われた将軍・足利義昭は、毛利輝元を頼る。
毛利輝元は小早川隆景の水軍主力・乃美宗勝5000で海路から姫路攻めを敢行し英賀に上陸。
多勢に無勢の状況の中、黒田官兵衛は近くの山に農民を潜ませ大量の軍旗を持たせ援軍に見せかけ、黒田勢たった500の兵で奇襲攻撃し、毛利勢を退却させることに成功した。
しかし、毛利家は紀伊の雑賀衆と連携し、1576年7月に第一次木津川口の戦いで織田氏に対し最初の戦闘をしかけた。
乃美宗勝の毛利水軍700隻に対し、織田勢は九鬼嘉隆を総大将とした九鬼水軍300隻が迎え撃ったが、織田勢の水軍は大敗。毛利水軍は大勝して、織田信長に包囲されている本願寺顕如に兵糧・弾薬を届けた。
毛利家と織田家が初めて対決したこの第一次木津川口の戦いで、毛利家が勝利したことから、織田信長に一度は臣従した播磨の大名は、やはり毛利家強しと感じるのであった。
黒田官兵衛は、1577年、長男の松寿丸(後の黒田長政)を人質として織田信長の元へ送り、松寿丸(後の黒田長政)は羽柴秀吉に預けられ、その居城・近江国長浜城にて過ごすことになった。
1577年10月、織田信長は信貴山城の戦いで松永久秀を討伐した後に、羽柴秀吉を中心にした部隊を播磨に進駐させた。黒田官兵衛は黒田一族を父の隠居城である国府山城に移すと、姫路城を羽柴秀吉にそっくり提供し、自らはニの丸に移り、羽柴秀吉を全面的に支援した。これにより豊臣秀吉からは、飾東郡・国府山城10000石を安堵されている。
羽柴秀吉も、黒田官兵衛の智力・武勇を高く評価しており、以後、黒田官兵衛は、竹中半兵衛らがいた羽柴秀吉の参謀に加わり、織田勢として活躍するようになる。
この黒田官兵衛も力量も加わってか、羽柴秀吉はたった1ヶ月で播磨国の諸将から人質を取り、織田家に臣従させることに成功している。
その後、羽柴秀吉勢は二手に分かれて、本隊の羽柴秀吉は上月城を攻略。羽柴秀長隊は3000を率いて但馬国に進軍。この際、黒田官兵衛は蜂須賀正勝(蜂須賀小六)らと共に羽柴秀長に従い、11月に真弓峠から但馬国に侵攻。まずは岩州城を攻城し、竹田城攻略にも加わった。これにより、羽柴勢は生野銀山も手に入れている。
羽柴秀吉も、上月城や福原城などを攻略し、上月城の守備に尼子勝久を入れ、一旦は播磨のほぼ全域が織田氏の勢力下に入った。
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しかし、加古川城で行われた加古川評定で生じた不和をきっかけに、織田氏と別所氏の関係が悪化。(諸説有)
1578年、東播磨の大勢力である三木城主・別所長治が、ほとんどの周辺豪族を味方に付けて、織田に反旗を翻し約7500で三木城に籠城。
三木城では多くの食料を必要とし、毛利氏や英賀城・三木氏などによって兵糧の海上輸送だけでなく、別所氏側でも海沿いにある高砂城や魚住城などで兵糧を陸揚げし、主な支城と連携して加古川や山間の道を通って三木城に兵糧を運び込んでいた。
兵力が充分では無く、三木城を攻める事ができなかった羽柴秀吉は、三木城の支城攻略の方針を採る。1578年4月、支城の1つである野口城を落城させるが、毛利輝元が別所長治に呼応し、30000の大軍をもって尼子勝久の上月城を包囲する。
羽柴秀吉は東播磨での展開を一次中断し、織田信忠を大将とした軍勢で上月城の救援に向かった。
しかし、膠着状態が続き、織田信長の命で織田勢は三木城攻略を優先し、7月には毛利氏が上月城を落城させた。
勢いのある毛利勢であったが、上月城から先に進軍することはなく、織田軍は上月城救援のために派遣した軍勢で6月~10月にかけて別所氏の主だった支城を攻略し、三木城も包囲。このため、別所氏は補給が困難になった。
海から宇喜多直家軍7000と雑賀衆の兵が、別府(べふ)の阿閉城に攻め込んできた際には、黒田官兵衛が救援し1000の兵で防いでいる。
有岡城幽閉
ところが1578年10月、羽柴秀吉軍に属していた荒木村重は、突然戦線を離脱し居城であった有岡城(伊丹城)に帰城。織田信長より厚遇され摂津37万石を任されていた荒木村重だったが、織田信長に反旗を翻し有岡城に立て篭ったのだ。
荒木村重の謀反に驚いた織田信長は、明智光秀や高山右近などを使者として荒木村重に送るが、色々な思惑が絡み、最終的に説得は失敗。
11月、織田信長は50000の兵を派遣し、滝川一益、明智光秀、蜂屋頼隆、氏家直昌、安藤守就らが摂津国に侵入した。
その頃、羽柴秀吉は、黒田官兵衛を荒木村重の説得に向かわせたが、黒田官兵衛は荒木村重に捕らえられ有岡城の西北にある日も射さぬ狭い牢獄に有岡城が陥落するまで投獄されてしまった。小寺政職が荒木村重に呼応しようとした為に、説得に向かったと考えられている。
一方、なかなか帰ってこない黒田官兵衛を、織田信長は荒木村重に寝返ったと判断し、人質である嫡男の松寿丸を処刑するよう羽柴秀吉に命じていたが、同じく、羽柴秀吉の軍師になっていた竹中重治(竹中半兵衛)が、羽柴秀吉に偽の首を進呈させ、秘密のうちに松寿丸の命を助けていた。
黒田家では黒田官兵衛が戻らない有岡城周辺に潜伏し、安否を調査。姫路城の黒田家・家臣である、栗山善助(栗山利安)、母里太兵衛(母里友信)、井上九郎右衛門(井上九郎次郎)らが商人に変装して、有岡城に潜入すると、やがて投獄されている場所を特定した。
そして、牢の番人・加藤重徳の協力も得る事にも成功すると、加藤重徳の計らいで、以後は自由に牢獄に尋ねる事ができるまでになったと言う。
しかし、黒田官兵衛は、横になって寝る事もできないほどの狭い牢獄に、約10カ月間も閉じ込められていた為、やせ衰えて衰弱しており、日光不足・栄養失調から皮膚病もわずらり、膝は曲がったまま足腰が立たない状態となってしまっていた。
唯一、心の安らぎとなったりは、牢獄から見える藤蔓であったとされ、新芽を吹き出し、たまに花の蜜を目当てに小鳥が飛んでくる光景を生涯忘れられず、後に大名まで出世した際、黒田家の家紋を「藤巴」に選んだほどである。
有岡城陥落の際、黒田官兵衛は戸板に乗せられて栗山善助らに救出されたが、頭髪は砂利禿げになり、足は曲がったまま立てなくなって、以降、杖を突きびっこを引いて歩くことになる。
救出直後は、そのまま有馬の湯治場で体力回復のため養生したと言う。有馬湯山の池坊に投宿し、池坊の宿主・池の坊左橘右衛門から手厚い 看護を受けたとの記録がある。
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有岡城が陥落し地下牢にて散々な姿になりながらも、忠義を守り通した黒田官兵衛の姿を見た羽柴秀吉は、涙を流したと言われる。
また、黒田官兵衛は嫡男・松寿丸を助けてくれた竹中重治(竹中半兵衛)に非常に感謝し、竹中家の家紋を貰い受けている。また、竹中重治(竹中半兵衛)の子・竹中重門が元服した際には黒田官兵衛が烏帽子親を務めた。
牢獄の看守であった荒木村重の家臣・加藤重徳(伊丹加藤又左衛門)は、監視をしているうちに黒田官兵衛の才覚に惚れ込み、せめて生命だけは途絶えないようにと、自らへの処分も恐れずに黒田家家臣にも協力して世話をしたとされる。黒田官兵衛は後に黒田家に招き、その子で2男・加藤氏親は黒田家に400石で仕え、黒田三左衛門と名乗り、黒田長政の長男・黒田忠之の子守役を勤めた。これが黒田官兵衛の養子となった黒田一成である。
竹中重治(竹中半兵衛)は1579年4月の播磨三木城の包囲中に病に倒れ、陣中にて6月13日に死去。(享年36歳)
豊臣秀吉の軍師に
1580年、羽柴秀吉は難攻の末にようやく陥とした別所長治の三木城に拠点を移し、姫路城を黒田官兵衛に返還しようとしたが、黒田官兵衛は「姫路城は播州統治の適地である」と進言したと言う。
なお、荒木村重謀反の際、同調した小寺政職は、織田信長の嫡男・織田信忠によって討伐されて御着城は落城。小寺政職は毛利氏のもとへ落ち延びた。
話が反れるが、黒田官兵衛の父・黒田職隆は天性、慈悲に富み、また義理を知る人物であったとされる。
小寺政職が織田信長の怒りを恐れて御着城を退去し、毛利家を頼ると諸国を流浪し客死したが、その子・小寺氏職が零落の身である事を知って嘆き、黒田職隆は羽柴秀吉に免罪を乞うて小寺氏職を呼び寄せると、ねんごろに養育し、かつての恩義に報いたと言う。このような黒田職隆を羽柴秀吉も深く信頼して厚遇し、姫路在城中の出陣に際しては、姫路城の留守役を黒田官兵衛の父・黒田職隆に任せていたという。
これに先立つ1579年、黒田官兵衛は織田信長の命により、織田信長に反抗した小寺の苗字を改めさせられ、元の黒田を名乗ることとなっていた。(諸説有)
黒田官兵衛は織田信長から播磨国・山崎に10000石を与えられ、織田家臣として羽柴秀吉の与力となる。
1580年4月、黒田官兵衛が山崎城(鹿沢城)の築城を開始。播磨の山崎にはこの時、まだ城は無かったと考えられ、宇野氏時代の篠の丸城を廃して、山麓の鹿沢に山崎城を築いたと考えられる。
そして、9月に揖東郡以福井庄内6200石、岩見庄2700石、伊勢村上下1100石、都合1000万石との知行宛行状が残っており、宍粟郡1万石を領した。
1581年3月には、宍粟郡で加増され、合計20000石となった。
1581年、羽柴秀吉は因幡国・鳥取城を兵糧攻めして落城させた。若狭国などの商人が、事前に周辺の米を買い占めた上で、鳥取城を完全に包囲し、兵糧の補給を絶ったため、鳥取城内は飢餓で凄惨極まりない状況に追い込まれ、約3ヶ月で降伏した訳だが、鳥取城中の備蓄米が少ないことを見抜き、この一連の作戦を羽柴秀吉に献策したのは黒田官兵衛だったと言われている。
1582年には、毛利氏の部将・清水宗治が守る備中高松城攻略に参加。有名な水攻めであるが、当初、羽柴秀吉は巨大な堤防を築くも、上手く水をせき止められなかった。これに対し、黒田官兵衛は船に土嚢を積んで、底に穴を開けて沈めるように献策し成功させたと言われている。
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その備中高松城の水攻めの最中、京都で明智光秀が謀反を起こし、織田信長が亡くなる「本能寺の変」が起こる。変を知った黒田官兵衛は、羽柴秀吉に対して、すぐさま毛利輝元と和睦し、明智光秀を討つように進言。
毛利家の交渉役・安国寺恵瓊を呼び、和睦すると、黒田官兵衛は撤退する小早川隆景から小早川軍の旗を20本ほど借りたと言う。
羽柴秀吉は中国大返しの際、その小早川家の旗を、摂津あたりで立てはじめると、羽柴秀吉の陣営につくか、明智光秀につくか迷っている武将たちは「毛利も秀吉についたのか」と思い、明智に味方する者はいなかったと言う。
このように羽柴秀吉は中国大返しを成功させ、山崎の戦いでは天王山を抑えて、その裾野から射撃を仕掛ける中川清秀を追い落とそうとする明智勢と戦った。
豊臣政権樹立へ
清洲会議での三法師擁立を考案したのも黒田官兵衛だと言われ、このように、黒田官兵衛は羽柴秀吉の天下に大きく貢献していく。
1583年、羽柴秀吉と柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでは、佐久間盛政の猛攻に遭って中川清秀の部隊が壊滅し、続いて黒田官兵衛がその攻撃を受けることとなったが、奮戦し守り抜いた。嫡男・黒田長政も戦功を上げ、羽柴秀吉より河内国に450石を与えられている。
この頃は、高山右近らの勧めによって黒田官兵衛はキリスト教の洗礼を受けた。そして、大阪城の普請にも当たっていたが、1584年、小牧・長久手の戦いの時期には、備中にて外交に手腕を発揮し、毛利氏と宇喜多氏の国境線を確定させ、実質的に羽柴秀吉の配下に加えている。
この頃、黒田官兵衛は羽柴秀吉の直轄地である播磨宍粟郡(宍粟市山崎)を中心に合計40000石となった。
大阪城留守居役を務めていた嫡男の黒田長政らは、岸和田の戦いで根来盛重、鈴木重意、長宗我部元親らの兵を破り、黒田長政は2000石を与えられた。
1585年5月4日、羽柴秀吉は黒田官兵衛に四国攻めの先鋒として淡路に出るよう命じ、羽柴秀吉による四国攻めが始まった。黒田官兵衛は宇喜多秀家勢の軍監として加わり、讃岐国から攻め込んだ諸城を陥落させる。植田城に対してはこれを囮であると見抜いて阿波国へ迂回するなど、敵将・長宗我部元親の策略を打ち破ったと言われる。阿波国の岩倉城が攻略されたところで長宗我部軍は撤退、8月に降伏し、長宗我部氏は土佐一国安堵となった。
なお、7月に羽柴秀吉が「関白」に就任すると、1586年には黒田官兵衛は従五位下・勘解由次官に叙任。
この頃、大友宗麟は豊臣秀吉に対して、何度も島津攻めの九州出馬を促しており、1586年10月初め、毛利輝元は軍監・黒田官兵衛、叔父の吉川元春・小早川隆景をともなって九州に上陸し、緒城を攻略開始。
黒田官兵衛も、翌年予定の豊臣秀吉本隊の出馬に先だって、豊前および筑前地方の島津方武将に対し、寝返りの調略をおこなった。
なお、この頃、元は姫路出身であったが、仙石秀久の家臣になっていた後藤基次(後藤又兵衛)が、黒田家重臣・栗山利安の元に100石で仕えるようになった。
1587年元旦、豊臣秀吉は年賀祝儀の席で九州侵攻を諸大名に伝え、黒田官兵衛は蜂須賀家政と共に、日向表陣立の1番隊に組み込まれた。豊臣秀吉の出陣当時の黒田孝高あて朱印状には「やせ城どもの事は風に木の葉の散るごとくなすべく候」と記されている。
「根白坂の戦い」と称される激しい戦闘にて黒田官兵衛の貢献もあり島津氏は大敗し、5月に島津義久は降伏した。
九州平定後の1587年6月の論功行賞で、黒田官兵衛は豊前国のうち6郡(5.5郡)(京都・仲津・築城・上毛・下毛・宇佐半郡)の約12万5000石(太閤検地後17万石)を与えられ、中津城の築城を開始。
しかし、佐々成政50万石、小早川隆景70万石に比べても、勲功一番とみなされる黒田官兵衛の論功行賞は、あまりににも少ないように感じる。
ほぼ肥後国一国を賜った佐々成政は、早速に太閤検地を行おうとしたが、反発する国人が一斉蜂起し、自力で鎮めることができなかった(肥後国人一揆)。
黒田官兵衛は佐々成政の援軍として鎮圧に向かったが、その隙をついて豊前でも城井鎮房・野中鎮兼ら国人勢力が肥後国人に呼応。
黒田長政らが鎮圧に当たるも一旦失敗したが、黒田官兵衛によって鎮圧され、城井鎮房の本領安堵と城井鎮房の13歳になる娘・鶴姫を黒田長政に嫁がせる事を条件に和議・婚姻を結んだ。
しかし、豊臣秀吉は国人衆を許さなかった為、1588年4月、黒田官兵衛が、黒田長政に授けた謀略により、中津城へ入った城井鎮房を暗殺。鶴姫も侍女とも殺害されたと言う。(出家させたと言う文献も有)。城井鎮房の父・城井長房も城井谷で殺害され、嫡男の城井朝房ら一族もろとも殺害された。
城井鎮房の死後、中津城には城井鎮房の亡霊が出没し、黒田長政はその亡霊に恐れおののいたとされ、黒田官兵衛は戦国の世とはいえ、勇将であった城井鎮房との講和条件を守らず、謀略で殺害したことを悔い、中津城内に城井神社を創建し、その霊を祀っている。後に黒田氏の居城となった福岡城にも創建されている。
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黒田如水
1587年7月に豊臣秀吉がバテレン追放令を出した際、キリシタンだった高山右近らは反抗した結果、改易されたが、黒田官兵衛は率先して令に従い、篤く遇していた宣教師やキリスト教を信仰する諸大名に大きな衝撃を与えたことが、ルイス・フロイスの書簡から伺える。
しかし、天下を取った豊臣秀吉は、有能な黒田官兵衛がこれ以上、力をつける事を警戒し、黒田官兵衛の功績が大きい割には加増が少なかった。そのような、思惑を感じ取れない黒田官兵衛でもなく、1589年、黒田官兵衛は早々に家督を嫡男・黒田長政に譲り「如水軒」と号して隠居した。(※これ以降の文中では黒田如水と記述させて頂く)
家督を継いだ黒田長政は従五位下、甲斐守に叙任。
家督を譲った後も実質隠居は許されず、黒田如水は豊臣秀吉の側近として仕え、1590年の小田原征伐(小田原攻め)では小田原城に使者として赴き、北条氏政・北条氏直父子を説得し、無血開城させる功績を立てた。
この時、黒田官兵衛の人柄に惚れた北条氏直は、北条家に伝わる名刀「日光一文字」、歴史書の「吾妻鏡」、法螺貝の北条白貝を贈り、現在「吾妻鏡」は国立公文書館、北条白貝は福岡市美術館にて保存されている。
1592年、豊臣秀吉・朝鮮出兵の文禄の役では、総大将・宇喜多秀家の軍監として黒田如水も参加。しかし、小西行長など諸将の暴走で思ったような采配を執れず病を理由に帰国。
1593年には日本軍が明軍の参戦と補給の行き詰まりにより和平を模索する間、再び朝鮮に渡り和式城郭の縄張りや、第二次晋州城攻防戦において後藤基次(後藤又兵衛)らが用いた亀甲車の設計などに携わる。しかし、石田三成などとの間に確執が生じて東莱城より再帰国。のちに豊臣秀吉の怒りを買い、蟄居を命じられた為、1593年8月に「如水円清」と号して出家した。
如水という名前の意味は、今までの功績など全てが水の泡の様に消え去ったという意味で、如水 = すなわち水の如し。
さすがに死を覚悟したようで、黒田長政に遺言状を送ったが、出家したこともあり、なんとか不問とされている。
隠居が許されたものの、2000石の隠居料と、大阪城下に屋敷を与えられ、引き続き豊臣秀吉に仕えた。
1597年、慶長の役では総大将・小早川秀秋の軍監として黒田如水も釜山に滞陣。第一次蔚山城の戦いにおいて、加藤清正の救援に向かった黒田長政が留守にした梁山城が8000の敵に襲われた際、黒田如水は1500で救援に駆けつけ退けた。両城にて日本軍は大勝を収め、また今回の戦いを踏まえて、その後は戦線縮小を図った。しかし、これらを福原長堯などの軍目付たちが酷評して豊臣秀吉に報告したことで、小早川秀秋、黒田長政、蜂須賀家政など、多くの武将が叱責や処罰を受ける事となった。
1598年8月、豊臣秀吉が死去。黒田如水は1598年12月に上洛し伏見屋敷に居住。
1599年3月に前田利家が死去すると、黒田長政は、福島正則や加藤清正ら武断派と共に石田三成を襲撃し、黒田家は石田家勢力と、より一層敵対することとなった。
黒田長政は、蜂須賀正勝の娘であった正室をわざわざ離縁させ、1600年6月6日、保科正直の娘で徳川家康の養女となった栄姫を継室として迎え、より一層徳川色を強めた。
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関ヶ原の戦い
1600年9月15日の関ヶ原の戦いでは、当然、徳川家康勢に味方。黒田長政は豊臣恩顧の大名の多くを徳川家康勢に引き込み、黒田家の有力家臣・後藤基次(後藤又兵衛)ら黒田軍主力を率いて徳川家康に同行し、関ヶ原本戦で武功を挙げた。黒田長政は調略においても、西軍の小早川秀秋や吉川広家など石田諸将の寝返りを交渉する役目も務めており、それらの功により戦後、徳川家康から「一番の功労者」として、外様大名ながらも破格の厚遇を受け、筑前名島(福岡)に52万3000石を与えられた。
後藤基次(後藤又兵衛)は、関ヶ原の戦いで剛槍使いだった石田三成家臣・大橋掃部を一騎討ちで破るなどの武功を黒田如水に評価され、戦後、大隈城(益富城)16000石と、大名クラスの重臣となった。
関ヶ原の際、中津城に帰国していた黒田如水も、徳川家康方(東軍)として九州にて行動開始した。
石田三成の挙兵の知らせを用意させていた早舟から受け取った黒田如水だったが、有力家臣は中津城にいても、黒田家の兵は黒田長政がほとんど率いており、国許に兵力は残されていなかった。
その為、中津城の金蔵を開いて、浪人や領内の百姓などに支度金を与え、第1次募集だけで3600人を集め、西軍に味方した九州の諸城を攻める計画を立てた。
その後、臨時兵士募集は九州だけでなく、中国、四国からも聞き及んで集まり、その人数は9000人となる「即席軍」を作り上げたのだ。普段は質素でお金を貯めていた黒田如水だったが、このような好機にはすべての財を注ぎ込んだと言う。
この時、他の九州諸侯も、ほとんどの軍勢が関ヶ原に出払っていたので、周辺国を占領するのに、九州に残っていた武将に取っては、またとない好機だったのだ。
9月9日、石田三成の後押しで、再興を目指し大友義統が、毛利輝元の支援を受けて九州・豊後に上陸し、東軍の細川忠興の飛び地(本拠地は丹後国宮津)である杵築城を包囲攻撃した。
杵築城代の松井康之と有吉立行の救援要請に応じてる形で、同日の9月9日、黒田如水ら9000は出陣。1万人と公称して兵力を率いたようだ。
9月9日 中津城 大友義統に攻められていた杵築城救援に出陣し、先遣隊2000人を杵築城へ直行させる。
9月9日 宇佐高森城 弟・黒田利高の居城で兵を徴集。
9月10日 高田城 竹中重利の居城を開城させ兵を徴集。
9月11日 富来城 包囲開始。城主・垣見一直は関ヶ原本戦に出陣中で不在。
9月12日 安岐城 包囲開始。城主・熊谷直盛は関ヶ原本戦に出陣中で不在。
9月13日 先遣隊と杵築城勢が石垣原(現在の別府市)で大友義統軍と衝突した(石垣原の戦い)。母里太兵衛が緒戦で大友軍の吉弘統幸に破れるなど、苦戦を強いられたが井上之房らの活躍もあって、黒田軍は大友軍に勝利。
9月14日 実相寺 石垣原の戦いの首実検。大友義統が降伏。
9月16日 実相寺 安岐城へ向かって進軍開始。
9月17日 安岐城 包囲再開
9月19日 安岐城 安岐城城。安岐城に宛ての飛脚を捕らえ、関ヶ原の西軍敗戦と垣見一直と熊谷直盛が討死した事を知る。
9月23日 富来城 包囲再開 (10月2日開城)
10月3日 中川秀成と太田一吉勢による佐賀関の戦い(現大分市佐賀関)。
10月4日 太田一吉の臼杵城(現臼杵市)が黒田官兵衛へ降伏。
10月5日 香春岳城 開城
10月6日 小倉城 領主・毛利勝信が降伏
10月14日 久留米城 黒田官兵衛5000、鍋島勢32000の大軍で、小早川秀包の居城・久留米城への攻撃を開始。また、黒田官兵衛は別働隊として栗山善助(栗山利安)5000を柳川城攻略に派遣し、柳川城を包囲。
10月16日 海津城 筑後川を渡河して接近し、海津城は降伏。
10月20日 水田 筑後国水田にて布陣。北西約6km先で、鍋島家 対 立花宗茂の江上・八院合戦(柳川合戦)が行われ立花勢敗北。その後、黒田、加藤、鍋島連合で、立花宗茂居城の柳川城への攻撃開始。
10月25日 柳川城 立花宗茂と慶長の役で共に苦労した黒田官兵衛と加藤清正は、立花宗茂を説得し降伏させ、立花宗茂は東軍に加わった。そして、総勢40000の大軍で、島津征伐に向けて進軍開始。
11月12日 水俣 徳川家康から停戦命令を受けて進軍停止。撤退した。
上記のように、あっという間に島津氏を除いた九州一円を制覇してしまった黒田如水(黒田官兵衛)であったが、当初の黒田家だけの移動距離は1日30km平均と非常に素早い進軍であり、豊臣秀吉の中国大返しの速度と変わらない事に注目願いたい。
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9月19日、富来城の攻略中に哨戒船が、東上中の城主である垣見一直からの密書を運んでいた飛脚船を捕え、関ヶ原での西軍敗報を知る。
長期戦の予想に反して、関が原の戦いにて、たった1日で勝負が決してしまったのである。皮肉なことに息子・黒田長政の調略により・・・。
その後、黒田如水は藤堂高虎を通じて徳川家康に領地切り取り次第を申し入れ、西軍に属した太田一吉の臼杵城(佐賀関の戦い)、毛利勝信の小倉城などの諸城を落としていった。
国東半島沖の豊後水道付近では、関ヶ原より引き上げてきた島津義弘の軍船と戦い(島津義弘が同行していた立花宗茂と別れた後のことである)、焼き沈めている。
10月には、上記で触れたように加藤清正とともに柳川城を攻め、立花宗茂を降伏させている。そして11月に入ると、加藤、立花、鍋島勢を加えた40000の軍勢で九州最後の敵勢力である島津討伐に向かったが、11月12日に肥後の水俣まで進軍したとき、徳川家康と島津義久との和議成立による停戦命令を受け、撤退した。
徳川家康は、黒田如水が九州全域を平定し、力を付けることを警戒し、また、島津義弘の反抗により天下が騒然となることも嫌ったと考えられる。
徳川家康は黒田長政には筑前に大封を与えたものの、黒田如水には何の恩賞の沙汰もなかった。
しかし、ここで、攻め取った九州を我がものとせず、あっさり諦める潔さも、黒田如水の思慮深さなのではないか?と、小生は考える。九州の諸州諸城を一つ残らず徳川家康に差し出し、しかも身一つで上洛し、徳川家康に関が原での戦勝を賀している。
京では、九州一円を切り取った英雄として評判となり、公家、大名、僧侶が先を争って黒田如水の旅寓を訪問したと言う。
関ヶ原の戦いの翌年、1601年、黒田如水にも、黒田長政とは別に上方での加増や、官位昇進が提示されたが辞退。その後、野望を抱く事も無く、また中央の政治に関与することなく隠居生活を送った。晩年は再建に努めた太宰府天満宮内に草庵を構えている。
1604年4月19日、京都伏見藩邸にて死去。59歳。
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黒田節
黒田節の話があります。黒田官兵衛の家来のひとりに母里太兵衛(もりたへい)がいます。
九州黒田藩でのこと、母里太兵衛は主人、黒田長政(黒田官兵衛の子)から、福島正則宅へ使者として出向きました。
母里太兵衛と福島正則はともに酒豪として知られていたそうです。
二人が席をともにすれば必ず酒が話題に上るだろうと案じた黒田長政は、母里太兵衛に使い先での飲酒を固く禁じていました。
福島正則は母里太兵衛に酒を勧めますが、主人からは酒を飲まぬよう命ぜられていた為、主命であると断りつづけます。
福島正則は大杯を飲み干した暁には望みのものをとらせようとけしかけますが、母里太兵衛はかたくなに飲みません。
ついに福島正則は、「黒田家は腰抜けの侍ばかり、弱虫者じゃのう。」とののしります。
母里太兵衛は自分のことならまだしも、主家をここまで言われてはと、ついに約束を破って朱塗りの大杯三杯を飲み干します。そして、福島正則から名槍「日本号」をもらいました。
そのときの歌が「酒はの~め、の~め飲むならば~」で有名な黒田節です。
この時、福島正則は昼間から酒宴を開いていて、だいぶ酔っぱらっていたようで、この槍が豊臣秀吉からの賜り物だと言う事を忘れ、つい気前よく母里太兵衛にやってしまったようです。
後で我に返って大変後悔し、返してくれるように頼みましたが、母里太兵衛はこれを拒み、この槍を常に陣中に持ってきていたといわれています。
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母里太兵衛(母里友信)は、黒田家が小寺氏の家臣だった頃からの黒田家臣で、槍術に優れた剛力の勇将として知られ、栗山利安と共に黒田軍の先手両翼の大将を務めていました。
黒田官兵衛の豊前入国後は6000石を与えられ、黒田家が筑前名島(福岡)筑前52万石になった際には、筑前鷹取城主として、1万8000石を拝領した。生涯に挙げた首級は実に76と家中で一番であったと言います。
名刀・日本号は、慶長の役で窮地に陥った母里友信を救った後藤基次(後藤又兵衛)の手に渡り、後藤基次(後藤又兵衛)が出奔する際に母里家に返されて長らく大正時代まで家宝となっていました。その後、黒田家に戻る等、所有者が転々とした後、現在は福岡市に寄贈され福岡市博物館に現物が展示されています。
後藤基次(後藤又兵衛)のその後
黒田如水の死後、1606年、後藤基次(後藤又兵衛)は一族揃って、黒田長政の元を離れた。
当初は隣国の細川忠興を頼ったが、元から関係がこじれていた両家が一触即発の状況となり、徳川家康などの仲裁により細川家を退去する。
後藤基次(後藤又兵衛)の智勇を惜しんで、福島正則・前田利長・池田輝政・結城秀康などから、仕官の話も出たが、一旦故郷である播磨に戻り、領主となっていた池田輝政を介して岡山の池田忠継に仕えた。
しかし、黒田長政が後藤基次(後藤又兵衛)への「奉公構」という措置を取って干渉していたため、1611年からは京都で浪人生活を送ることになる。
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1614年、大坂の役が勃発すると、先駆けて大坂城に入城し、豊臣勢として徳川家康に対抗した。豪傑さに魅せられたのか、豊臣秀頼や木村重成などの豊臣家の人々からも信頼を得る。
徳川家康は、後藤基次(後藤又兵衛)や真田幸村らを特に警戒したと言う。
1615年、大坂夏の陣の道明寺の戦いにおいて戦死。
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コメント
コメント ( 3 )
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張良は三国志ではなく、項羽と劉邦の時代の人です。
こんさま、ご指摘ありがとうございます。原文がおかしいようですので、ちょっと修正を加えてみたいと存じます。ありがとうございました。
黒田官兵衛は、実は類いまれなる忠臣だったのではないかと考えています。本能寺の変直後に秀吉をたきつけたり、関ヶ原での九州大返しなど、野心家の一面が大きく取りざたされますが、秀吉に明智光秀を討つよう進言したのは、ただ主君・秀吉の功績を確固たるものにするため、関ヶ原では結果的に猛将・立花宗茂を味方につけています。劉邦と張良のたとえ話が出ていましたが、もし、劉邦たる役割の秀吉が小牧長久手以降、官兵衛のあまりの才気を恐れ遠ざけてしましましたが、もし、彼をそのまま信じ続け、五大老の一席(実績は十分)に列していれば、と豊臣の天下は続いていた気がします。