滝川一益~織田四天王の名将も本能寺の変のあとは・・


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一益は「かずます」、または「いちます」とも読む。幼名は久作。
1525年生まれの滝川一益(滝川左近将監)の父は、2説あり、滝川一勝もしくは滝川資清と言われている。この2人は同一人物と言う可能性もある。
滝川資清については近江・甲賀にある大原村の土豪であったとされるが、家紋の巴紋も、甲賀伴氏の流れを感じさせるように、先祖は大伴系らしいが詳細は不明。滝川資清は元々高安氏を称していたが、滝川資清(高安範勝)の嫡子・高安範勝(櫟野範勝)に居城を譲って、滝川資清は滝城に入り滝川氏となったとされる。滝城主・滝川資清の跡を継いだのが、2男とされる滝川一益である。
甲賀出身とと言う事もあり、滝川一益は忍者の頭目であったという説もあるが、明確な根拠はない。
なお、この父・滝川資清(高安範勝)の兄弟に、池田恒興がいるとされる。
滝川一益(たきがわ-かずまさ)が織田家家臣になるまでは、良くわかっていないが、幼いころから気も強く、かなりの悪童であったらしい。
若いころ泉州堺に出て、新兵器である鉄砲の射撃と製造技術を学んだともある。

1555年、滝川一益(31歳)は、一族高安某を殺害?するなど、一族争いによって滝城を追われ、甲賀を出奔したとされる。
1558年?、たまたま従兄弟の池田恒興が尾張・織田信長に仕えていたことから、池田恒興の仲介があり、織田信長に仕えるようになったようだ。
織田信長は、滝川一益が鉄砲に熟練していると聞いて、射撃の腕前を検分したところ、百発百中に近い腕前であった為、鉄砲の腕前を見込まれて織田信長が家臣に加えたと言われる。
作り話ではあるが、鉄砲の腕前は、柱に穴を開け、その穴を通して柱の向こうにいる相手を撃ったと言う伝説もあるくらいだ。

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1560年、桶狭間の合戦では先駆けを務めた。
また、滝川一益は「北伊勢の桑名は美濃との境であり、患となる可能性がある為、桑名長島の地を得、北畠氏や関氏に対し備えるべき」と織田信長に進言。
まずは尾張荷ノ上の土豪で長島城主・服部友貞の資金によって蟹江城を築城した。
やがて服部友貞を追放してし、滝川一益が蟹江城主となり北伊勢五郡の支配した。
1563年には松平元康(のちの徳川家康)と織田信長の同盟交渉役を担った(清洲同盟)。松平元康の家臣・富永忠安と、松平元康は義兄弟であった事から、吉良家重臣・富永忠安と滝川一益の旧縁により、交渉役に抜擢された可能性がある。

滝川一益は織田家の中でも、明智光秀同様に新参者で、軍事的には遊軍といった立場であり、加賀攻め、丹波攻め、播磨攻めなど、多方面の侵攻作戦に「遊撃軍」として出陣することになるが、その一方で伊勢方面を任された。

1567年2月、滝川一益は4000にて北伊勢に侵攻し上木氏・木股氏・持福氏を調略。この時、滝川一益の配下に明智光秀がいて、僧侶・勝恵と共に説得に回ったともされる。
織田信長が稲葉山城を攻撃し、美濃の斎藤龍興(20歳)が伊勢長嶋に逃亡すると、8月、織田信長は30000にて進軍。滝川一益は池田恒興らと先鋒として活躍し、楠木十郎も従え、楠木城を攻略したが、高岡城・山路弾正(木造具盛の家老)には敗れている。
滝川一益は伊勢方面の防衛軍として、織田信長より伊勢・蟹江城を任された。

1568年2月にも、織田信長は40000にて北伊勢に侵攻。
先陣の滝川一益の戦略と尽力もあり、「北伊勢四十八家」の朝明郡の中野城、西村城、羽津城、茂福城、大矢知城、伊坂城、市場城、疋田城、広永城、小向城、下野山城など北伊勢の豪族をつぎつぎに攻略。そして北勢四十八家の棟梁と見られていた千草城も攻略し、後藤采女正の采女城も落城させた。
1568年9月に、織田信長は近江・観音寺城主の六角義賢を攻めたが、六角義賢は家臣の離反が相次ぎ、戦わずに降伏。こうして、織田信長は9月27日に足利義昭を征夷大将軍に擁立して、念願の京都に入ったのだ。

1569年、織田信長の北畠家攻略も大詰めを迎えた。北畠家は伊勢では名門中の名門で、もとは朝廷の側近である。

まず、神戸城主・木造具盛(神戸具盛)に織田信長は3男・織田信孝を養子として神戸具盛の娘・鈴与と結婚させ、木造具盛(神戸具盛)は織田家家臣となり、峰城主・峰筑前守、国府城主・国府佐渡守、稲生城主・稲生斯解由、鹿伏兎城主・鹿伏兎左京亮も織田家に降った。
また、滝川雄利の兄・木造具康(日置城主)も調略することに成功し、滝川一益は、更に北畠具教に並ぶ勢力である長野城主・長野具藤(北畠具藤)への調略を進めた。

長野城主・長野具藤(北畠具藤)が、滝川一益の画策による讒言で、剛勇で知られる家老・細野藤敦(安濃城主)を攻めると、細野藤敦はやむなく長野具藤(北畠具藤)を追放して織田信長に降伏。
織田信長は、弟・織田信包を先代当主・長野藤定の娘と結婚させて、織田信包が伊勢・上野城に入った。
また、木造具康の父であり、北畠具教の弟でもある木造城主・木造具政を1569年5月に調略。織田信長の来襲に備えて、木造具政も1000にて籠城準備をしていたが、滝川一益は木造一族である木造雄利と柘植保重に、戸木城主・木造具政を説得させることに成功。滝川一益は娘婿に木造雄利を迎えて、滝川雄利と名乗らせている。

これを聞いた霧山城主・北畠具教は、防衛支度中の大河内城にいたが激怒。人質に取っていた木造具正の家老・柘植三郎佐衛門の娘を処刑すると、兵を出して5月12日より弟・木造具政が籠る木造城を包囲した。
織田信長は、滝川一益を木造城の援軍に向かわせたが、北畠具教を撃退するまでには至らず、木造城は8月になっても包囲されたままであった。
この頃、武田信玄は信長包囲網に加わり美濃方面などへの進出を狙っており、織田信長は武田信玄の動きを封じるため、遠江で今川氏真と敵対していた徳川家康に、今川氏真と和睦させ、徳川家康を武田信玄からの攻撃に備えさせた。

武田信玄の脅威が薄れると織田信長は柴田勝家、氏家ト全、木下秀吉らと共に、1569年8月20日に総勢70000の大軍で岐阜城を発ち伊勢へ向い、8月23日に木造城に到着。
この時、北畠具教は大軍来襲と聞いて、大河内城に退却しており、木下秀吉が支城の阿坂城を攻略。木下秀吉(のちの豊臣秀吉)はこの際、生涯にただ1度の負傷をしている。
織田信長は北畠具教8000が籠城する大河内城を8月28日より包囲して、桂瀬山を本陣に構え、大河内城の周囲に鹿垣を2重3重に作り取り囲んだ。
9月8日、織田信長は丹羽長秀・池田恒興・稲葉良通に夜襲を命じるも、雨が降り出して鉄砲が使用不能になったため攻撃中止。滝川一益に多芸城を焼き討ちさせ、以後は、兵糧攻めを行った。
北畠具教は約1ヶ月間籠城したが、10月3日に織田信長と和睦。
北畠具教は降伏条件として、織田信長の2男・茶筅丸(織田信雄)を、北畠具教の子・北畠具房の養嗣子として迎え入れた。北畠具房にはまだ子がなかったため、北畠具教の娘・雪姫が織田信雄(茶筅丸)と結婚し、養子に迎えいれた。大河内城を明け渡しの際には、滝川一益が受け取りの任に当たり、北畠具教は霧山城に近い三瀬館に退去している。
伊勢平定後、織田信長は、伊勢神宮へ参拝し、そのまま上洛している。
なお、この1569年、細野藤敦は上野城の織田信包と武力対立したが、滝川一益の子・滝川八麿を細野藤敦の養子に入れて再和解している。
滝川一益は、織田信長より安濃津城・渋見城・木造城の三城を守備するようを命じらている。

1570年9月の石山本願寺の戦い(石山合戦)の開始で、長島一向一揆も蜂起すると、1570年11月、織田信長の弟・織田信興は一揆の攻撃に6日間耐えたが小木江城で討ち取られ、滝川一益も桑名城で籠城した。
この頃、織田信長は近江で朝倉氏・浅井氏と対陣しており救援に行けなかったが12月に朝倉・浅井と和睦。その後、近江で織田勢が優勢となった為、1571年5月12日、織田信長は50000の軍勢にて、長島一向一揆(本願寺勢力)を鎮圧する為、伊勢・長島に進軍したが、軍を退けようとした際に、路が狭い所で弓・鉄砲を撃ちかけられ、殿の柴田勝家が負傷した他、氏家卜全が討死するなどし、伊勢侵攻の難しさを実感。

1572年、滝川一益は、佐久間信盛らと共に三方ヶ原の戦いで、徳川家康の浜松城篭城を支援。

浜松城

この頃から、滝川一益は畿内の政務をも担当し、外交能力・行政能力にも長けていたようで、その行動範囲は広い。

1573年4月、足利義昭側近へあてた起請文には、林秀貞・佐久間信盛・柴田勝家と共に名を連ねている。そして、一乗谷城の戦いにも参戦し、8月に浅井長政朝倉義景が自害して浅井氏は滅亡。9月に織田信長は2度目の長島攻めを通達。織田信長、佐久間信盛、柴田勝家、滝川一益、丹羽長秀、羽柴秀吉、蜂屋頼隆、富田長繁、林通政などが参加した。
滝川一益は、柴田勝家らと坂井城を攻略し、10月6日に降伏させたあと、近藤城を金堀衆を使って攻めて、立ち退かせた。
その後、滝川一益を矢田城に入れると、織田勢は10月25日撤退したが、またもや撤退時に襲撃を受け、林通政が討死するなどした。

1574年6月23日、織田信長は美濃から尾張・津島に移り3度目の長島攻めを開始。海賊衆として九鬼嘉隆なども動員され、滝川一益も水軍に加わった。
織田軍約80000と言う大軍で、参加武将は下記の通り。
市江口は、織田信忠、長野信包、織田秀成、織田長利、織田信成、織田信次、斎藤利治、簗田広正、森長可、坂井越中守、池田恒興、長谷川与次、山田勝盛、梶原景久、和田定利、中嶋豊後守、関成政、佐藤秀方、市橋伝左衛門、塚本小大膳。
賀鳥口は、柴田勝家、佐久間信盛、稲葉良通、稲葉貞通、蜂屋頼隆。
早尾口は、織田信長、羽柴秀長、浅井政貞、丹羽長秀、氏家直通、安藤守就、飯沼長継、不破光治、不破勝光、丸毛長照、丸毛兼利、佐々成政、市橋長利、前田利家、中条家忠、河尻秀隆、織田信広、飯尾尚清。
水軍は、九鬼嘉隆、滝川一益、伊藤実信、水野守隆、島田秀満、林秀貞、北畠具豊、佐治信方。
伊勢・長島城の両脇の大河は、滝川一益らの水軍で包囲し、兵糧攻めした。
しかし、兵糧攻めに耐え切れなくなった一揆衆の一部は、捨て身の突撃を何度も繰り返し、小瀬清長、織田信次、織田信直、織田信広、織田信成、織田信昌、織田秀成、佐々松千代丸(佐々成政の長男)、佐治信方、平手久秀、山田勝盛、和田定利らが討死した為、織田信長は長島城を火攻めし、城内では約20000が焼死したと言う。
こうして、伊勢・長島は完全に織田支配下となり、長島城には滝川一益(50歳)が入り、長島城及び、北伊勢8郡のうちの5郡を拝領した。
北畠具教の子・北畠具房を助けて、遺臣を多く召し抱え、北畠一族を庇護している。

1575年、武田勝頼との決戦・長篠の戦いに滝川一益も参陣して、鉄砲隊の総指揮を執った。また越前一向一揆も攻略。
1576年には天王寺合戦、1577年らは紀州征伐にも参加。
1578年、毛利水軍・村上水軍との戦いである第2次木津川口の戦いでは、九鬼嘉隆率いる鉄甲船6隻と共に、滝川一益は大船1隻で6月26日に出港し、7月18日には大阪湾に到達。
毛利水軍600隻が11月6日、木津川付近に姿を現すと、九鬼嘉隆・滝川一益らは迎え撃った。
これにより、石山本願寺への兵糧や武器の搬入は無くなり、織田勢は本願寺に対する勝利に大きく近づいた。

1579年、本願寺と毛利家に通じて荒木村重が織田家から謀反した際の有岡城の戦いでは、滝川一益も有岡城包囲に加わり、その一方で、荒木村重が逃亡した事実を巧みに使い、上﨟塚砦の守将・中西新八郎、副将・宮脇平四郎の調略に成功。有岡城が降伏した後には、投獄されていた黒田官兵衛が救出された。
そして、1580年4月、石山本願寺の本願寺顕如は織田信長に降伏。

1580年3月、小田原城北条氏政は、織田信長への使者として笠原康明を派遣。その際、滝川一益は京・本能寺で使者を出迎える役を担うなど、伝奏役は滝川一益と補佐の武井夕庵が務めた。
1581年9月、伊賀の地に詳しいの滝川一益は伊賀攻めにも参陣し、甲賀口より侵攻。50000の織田勢は僅か5日間で伊賀を平定している。阿拝郡、伊賀郡、名張郡が滝川雄利に与えられた。

1582年3月、織田信長は甲斐・武田勝頼の討伐軍を出し、先行した織田信忠の軍監に滝川一益が就任。高遠城攻撃などに大きく貢献した。
滝川一益隊は、武田勝頼を追い詰めて、天目山で討ち取るという功績を挙げている。
この論功行賞で、滝川一益は上野一国と小県郡・佐久郡を与えられ、織田信長より名馬「海老鹿毛」と短刀を下賜され、滝川一益が関東統治の取次役となった。
諏訪で北条氏政の使者が戦勝祝いに駆けつけた際にも、滝川一益が申次を行っており、すでに滝川一益は、柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興・羽柴秀吉らと並ぶ織田家重臣であった。

滝川一益は上野・箕輪城に入ったが手狭な為、厩橋城(前橋城)を居城として改修開始。

前橋城

新領地統治にあたり、国人衆に対して本領は安堵することを申し渡した為、下記の通り近隣の諸将が人質を伴い出仕した。

真田昌幸(岩櫃城主、旧沼田城主)、藤田信吉(沼須城主)、内藤昌月(箕輪城主)、和田信業(和田城主)、倉賀野秀景(倉賀野城主)、小幡信貞(小幡城主)、安中久繁(安中城主)、高山定重(高山城主)、木部貞朝(木部城主)、白倉宗任(白倉城主)、北条高広(旧厩橋城主)、長尾憲景(白井城主)、由良国繁(金山城主)、那波顕宗(那波城主)、宇都宮国綱(宇都宮城主)、長尾顕長(足利城主)、皆川広照(長沼城主)、成田氏長(忍城主)、上田朝直(松山城主)、深谷氏憲(深谷城主)、太田資正(旧岩付城主)、梶原政景(太田資正の次男)

天徳寺宝衍と倉賀野秀景は滝川一益の側近となり、関東の北条氏政、佐竹義重・里見義頼だけでなく、奥州の伊達輝宗・蘆名盛隆とも連絡を取った。
また、北条氏政に下野・祇園城を元城主・小山秀綱に返還させるなど、滝川一益はかなりの権限を持っていたようだ。
但し、千葉邦胤、武田豊信は出仕を拒否。古河公方・足利義氏らには、滝川一益からの連絡した形跡がない。
1582年3月、新しい領国経営に乗り出した滝川一益は、諸領主を厩橋城に集めて能興行を開催。嫡男・滝川一忠、次男・滝川一時を伴い、滝川一益自ら玉蔓を舞っている。
織田信長は一流の武将として認めた家臣に茶の湯を許していたが、滝川一益はかなり早い時期に許されていたようで、上野に入るまでには茶道に対する造詣も相当深まり、名物茶器を揃えて「茶人武将」として知られるほどであったと言い、織田信長より褒美を聞かれると、上野や信濃の所領よりも、織田信長秘蔵の名器「珠光小茄子(じゅこうこなすび)」の茶入れが欲しいと答えたと、茶の師匠・三国一太郎五郎が残している書状に垣間見える。

しかし、織田信長が明智光秀に討たれる「本能寺の変」が1582年6月に勃発。
これを知った北条家は、小田原城主・北条氏直八王子城主・北条氏照鉢形城主・北条氏邦ら56000にて上野に侵攻。
北条家は甲斐・武田勝頼攻めに、徳川家康の同盟軍として参陣していたが、新領地など何も得られていなかっ為、これをチャンスと軍を出したのだ。
沼須城主・藤田信吉5000が裏切って、滝川益重4000が守る沼田城を攻めたが、滝川一益が援軍20000を出すと、藤田信吉は上杉景勝を頼って越後に逃亡した。

上野を治めてまだ3ヶ月しかたっていない滝川一益は、まだ各諸侯の統制も十分に取れておらず「弔い合戦のため」と称して、そのまま金窪城を攻略して金窪原で北条勢を迎え撃った。(神流川の戦い)
6月18日の第一次神流川の戦いでは、真田昌幸らの活躍もあり、北条勢の先遣部隊を撃退したが、19日の第二次神流川の戦いでは、滝川一益本隊以外の各諸侯は戦闘にほとんど参加せず、滝川一益約2800だけが、北条勢と戦った結果、総崩れとなり、滝川一益の家臣・笹岡平右衛門が身代わりとなって討死し、滝川勢は厩橋城に敗走した。
本多正重長崎基家(長崎元家)を徳川家康にもとに派遣し、援軍を要請したが徳川勢も見捨てるかたちとなる。

天正壬午の乱詳細はこちら
 
滝川一益は、伊勢・長島城に撤退することを決めると、上野国衆を箕輪城に集めて別れの酒宴を開いたという。
その後、滝川一益は用心のため上野国衆の人質を伴って進み、上野国衆は津田秀政の守る松井田城まで送迎。滝川一益は碓氷峠で人質の一部を解放し。6月21日に信濃・小諸城に到着すると、残りの人質も全員解放した。
信濃に入った滝川一益は、安全に信濃を通過するために人質を得ようとして、徳川家康の家臣となっていた佐久郡の有力国人・依田信蕃に使者を送った。
依田信蕃は、佐久郡・小県郡の国衆の人質と、息子・依田康国を同行させたが、木曽の木曾義昌が滝川一益や道家正栄らの通行を拒否。
そこで、滝川一益は佐久郡・小県郡の人質を木曾義昌に引き渡すことで了承を得て、木曽福島城で人質を引き渡し、ようやく美濃に入ることができた。
しかし、この頃である6月27日には、明智光秀を討った羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が、清洲会議で滝川一益が不在の中、織田家の主導権を握る第1歩を示していた。
清洲城に立ち寄った滝川一益は、三法師(織田秀信)に拝顔し、伊勢・長島城に到着。

清洲会議のあと、三法師を擁立した羽柴秀吉と、織田信孝を後援した柴田勝家の対立で、滝川一益は柴田勝家に味方。
大徳寺での織田信長の法要の際「滝川殿の席はありませぬ」と羽柴秀吉より門前払いされ、羽柴秀吉との対立は決定的となった。
1583年1月、亀山城主の関盛信・席一政父子が羽柴秀吉に寝返り、関氏が京の羽柴秀吉に拝謁の為不在の隙に滝川一益は亀山城、峯城、関城、国府城、鹿伏兎城を調略して、亀山城に滝川益氏、峯城に滝川益重、関城に滝川忠征を置き、自身は長島城で羽柴秀吉の攻撃に備えた。
羽柴秀吉は数万の大軍を率いて攻撃開始。2月20日には国府城を陥落させ、2月中旬には滝川一益の本拠・長島城を攻撃したが、滝川勢は強靭に抵抗した。
滝川益氏・佐治新介が守る亀山城が3月3日、滝川益重の峯城が4月12日に落城すると、佐治新介ら残兵は長島城に合流。
この合戦で、亀山城、峯城の守将・滝川益氏、滝川益重は武勇を評され、滝川益重は後に豊臣秀吉に仕えている。

越前・北ノ庄城の柴田勝家は味方してくれた滝川一益に援軍を送ろうとしていたが、豪雪に阻まれ、ようやく雪解けした3月12日、柴田勝家・前田利家・佐久間盛政ら30000が近江・柳ヶ瀬に到着。
これに対して、羽柴秀吉は滝川一益が籠城する長島城包囲に織田信雄と蒲生氏郷ら10000を残して、3月19日、羽柴秀吉・羽柴秀長・丹羽長秀・森長可ら50000で木ノ本に布陣。
前田利家、不破勝光、金森長近の戦線離脱により、劣勢となった柴田勝家は総崩れとなり、北ノ庄城に退却。4月23日、包囲された北ノ庄城にて、柴田勝家はお市の方と共に自害した。
ついで、4月29日には、織田信孝も切腹し、滝川一益はその後も約1ヶ月籠城を続けたが、もはやこれまでと開城・降伏した。
滝川一益の所領は全て没収された。羽柴秀吉に秘蔵の茶掛けの絵である「朝山の絵」を進上して命は助けられ、京都妙心寺で剃髪して出家。その後、丹羽長秀を頼って越前・大野にて蟄居した。
 
1584年4月、織田信雄が徳川家康の支援を受けて、羽柴秀吉と対立した小牧・長久手の戦いのあと、羽柴秀吉は滝川一益に味方するよう出仕を求め、滝川一益に3000石、滝川一時に12000石を約束。滝川一益は旧臣を集めて、手勢700にて佐久間正勝との戦いで戦功を挙げ、織田信雄方の九鬼嘉隆と尾張前田家の前田長定(蟹江城)、前田長俊(下市場城)、前田長種(前田城)を調略した。
これに対し、織田信雄・徳川家康は大軍を持って蟹江城を急襲。陸路を絶たれた滝川一益は海路より蟹江城に入って1000程度で籠城。九鬼嘉隆も下市場城にて籠城し、徳川家康は6月16日に大野城に入った。
6月18日、下市場城が落城して前田長俊が討ち取られた。
6月19日、舟入の戦いにおいて九鬼嘉隆が敗北。織田信雄・徳川家康は海上封鎖した。
6月21日、羽柴秀吉が美濃から近江・佐和山城に移動。
6月22日、蟹江城が攻撃され、南方から酒井忠次、北方から大須賀康高、西方から織田信雄、東方から服部正成が蟹江城を攻めた。
6月23日、前田長種の守る前田城が落城。
6月24日、羽柴秀吉は、滝川一益の蟹江城攻略の報を受けて、近江・土山に移動。
6月25日、羽柴秀吉は伊勢・椋本に移って、信濃の木曾義昌に尾州西側からの総攻撃予定(7月15日)だと伝えた。
6月29日、滝川勢と織田信雄・徳川勢との和平交渉が開始。
7月3日、滝川一益が降伏の起請文を書いて和睦が成立すると織田信雄・徳川勢は蟹江城を占拠。
羽柴秀吉は、伊勢に羽柴秀長、丹羽長重堀秀政ら62000の兵を集めて総攻撃を予定していたが、間に合わず中止とした。
降伏の条件であった退去中の前田長定(前田定利)を、滝川一益は殺害して伊勢に逃れたが、この行動は諸将の非難を浴び、滝川一益の武将人生は終わり、越前・大野にて再び隠居生活をした。

羽柴秀吉はこの降伏に怒り、滝川一益の嫡男・滝川一忠に敗戦の責任を取らせて、羽柴秀吉は滝川一忠を追放し羽柴秀長に身柄を預けた。以後、滝川一忠は浪人として生涯を全うしている。
滝川家の家督を相続した次男の滝川一時は、約束通り12000石となり、滝川一益は隠居料として3000石となり、羽柴秀吉の家臣となった。
織田信雄の家老・滝川雄利は11月に滝川一益を通じて羽柴秀吉に接近し、和平の道を模索した。

その後、豊臣秀吉の小田原攻めの前には、外交で関与しながら余生を過ごしたが「進むも滝川、退くも滝川」と戦上手を称された滝川一益も、越前・大野で1586年9月9日に死去。享年62。

 
追放された滝川一忠は、のち真田昌幸の世話を受けたようで、その際に、滝川一忠の子・滝川一積が、関ヶ原の戦い宇多頼次と離縁していた真田昌幸の5女・於菊(菊姫)を1601年頃に正室に迎えた。
その後、滝川一積は織田長益の推挙によって中村一忠の家臣となり、大阪の陣では徳川勢として活躍。
討死にした真田幸村(真田信繁)の娘・あくりを養女に迎えて、伊予松山藩家老・蒲生郷喜に嫁がせるなどした。

家督を継いだ滝川一時は、1592年、徳川家康が家臣にしたいと豊臣秀吉に申し出て、徳川家からも2000石を与えられ、合計14000石の所領を得た。
1600年の関ヶ原の戦いでは、徳川家康の本隊に加わり、石田三成らと戦った。
この年から徳川秀忠に仕えたが1603年に35歳で死去。
徳川秀忠は「勇者の子孫ことに扶助あるべきを、不幸にして世を早くせし」と惜しんだと言う。

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  2. 大蔵卿局・大蔵局(おおくらのつぼね)は浅井長政の家臣だっとされる大野定長の妻で、茶々の乳母であったと…
  3.  片倉喜多(かたくら-きた)は、1538年に伊達家臣・鬼庭良直の娘(長女)として生まれた。 母は…

人気の戦国武将

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    武田信広(たけだ-のぶひろ)は、若狭の守護大名・武田信賢の子として、1431年2月1日、若狭小浜・青…
  2. 岩村城
    岩村城(いわむらじょう)は、標高721m、比高153mの山城です。本丸の標高は717mと、江…
  3. 甲斐宗運(かい-そううん)は阿蘇神社大宮司・阿蘇惟豊の筆頭家老である甲斐親宣の子として生まれた。…
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