佐竹義重 毛虫の兜をかぶった常陸の猛将

佐竹義重

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佐竹義重(さたけ-よししげ)は、常陸の戦国大名・佐竹義昭の子として1547年に生まれました。
母は岩城重隆の娘です。幼名は徳寿丸と言いました。
父・佐竹義昭は、常陸・小田城主である小田成治の娘が産んだ子であり、小田家や春日山城上杉謙信と結び、太田城を拠点に常陸統一へと大きく前進していました。
しかし、1562年、父は32歳の若さで突然隠居して、常陸・府中城に移り、僅か16歳の佐竹義重が家督を継いで佐竹氏18代当主になりました。
ただし、実験は父が引き続き握っていたようです。


1564年には北条氏康や結城晴朝と結んだ小田氏治の攻撃を撃退し、佐竹氏は逆に小田城を陥落させ、小田氏治は土浦城に逃れています。
ただし、1565年、父・佐竹義昭は突然急死(享年35)し、佐竹義重が取り仕切ることになり、関東へ勢力を伸ばしている北条家に対抗するため、上杉謙信との関係を強化しています。

1566年には、小田氏治を改めて攻撃すると小田領の大半を得ています。
また、1567年には小峰義親(白河義親)を攻めて従属させ、1569年には、手這坂の戦いにて大勝し、小田氏治が復活していた小田城を再度奪取しました。
ただし、越相同盟が成立すると、上杉謙信へは不満を持ち、密かに武田信玄に接近しています。
1573年にも、小田氏治から再び勝利しました。

佐竹義重は、智勇に優れ勇猛さも兼ね備えた武将で「鬼義重」「坂東太郎」の異名で恐れられました。
北条家との合戦では、7人の敵を一瞬に斬り捨てたと言う逸話もあります。
甲冑の「兜」には毛虫の前立て(まえだて)を用いたことでも有名です。
なんでも、毛虫は一見弱そうに見えますが、常に前進し、決して後ろに退くことはない、強さを持っていたからだとされています。

1578年、上杉謙信が死去すると関東では小田原城北条氏政が大きく勢力を伸ばし始めたため、関東から東北方面への展開に変化します。
そのため、伊達政宗と対立することになりました。
白河小峰城には次男・佐竹義広を養子に出して掌握し、のちの蘆名義広となって活躍することになります。

1580年頃には、宇都宮城主・宇都宮国綱を臣下に加えました。
1583年頃からは、豊臣秀吉に使者を派遣するなどして、誼を通じています。

1585年、人取橋の戦いでは、兵力は有利でしたが、国元で不穏な動きが出たため徹底し、伊達政宗に敗北しました。
1586年、二本松城を伊達政宗が落とすと、伊達氏と佐竹氏・蘆名氏との間で和議が結ばれました。
しかし、1587年、白河小峰城に養子として出していた次男・佐竹義広を、会津黒川城(会津若松城)の蘆名盛隆の娘と結婚させ蘆名義広として蘆名家を相続させたことで、再び伊達家と険悪になります。
1589年、蘆名義広は、摺上原の戦で伊達政宗に大敗し、黒川城(会津若松城)を奪わると常陸の国元に逃れました。
その結果、白河結城氏や石川氏などが伊達氏に寝返ります。
そのため、北からは伊達政宗、南からは北条氏直に挟まれることになり、佐竹義重は自ら隠居すると家督を嫡男・佐竹義宣に譲りました。
佐竹義宣はまだ43歳ながらも、正室である伊達晴宗の娘が産んだ子が佐竹義宣であったことから、伊達政宗に配慮した形であり、かなりの危機感を持っていたことが伺えます。
ただし、隠居したあとも実験は、佐竹義重が握っていたようです。

家臣としては、下記のようにそうそうたる武将がいます。
佐竹義久、佐竹義斯、佐竹義憲、岡本禅哲、岡本顕逸、和田昭為、小田野義忠、車斯忠、小貫頼久、梅津政景、真壁氏幹、梶原政景、船尾昭直、小野崎従通、江戸忠通など。

1590年、豊臣秀吉の小田原攻めが始まると、佐竹義重と佐竹義宣は、宇都宮国綱ら10000の兵と共に小田原に参じ、石田三成を総大将にした忍城攻めなどに参加しました。
その後、奥州仕置にも同意したことから、佐竹家は常陸54万石を安堵されました。
そして、豊臣秀吉の許可を得て、江戸重通を攻撃すると水戸城も奪い本拠としており、1591年には鹿島氏・大掾氏一族などを太田城に招いて謀殺するなどし、常陸国を統一しました。
佐竹義重は太田城にて隠居生活を送ったようです。


1600年、関ケ原の戦いでは、かねてより懇意としていた石田三成への協力を主張し、佐竹義宣と意見がぶつかった結果、どちらにつくとも言えない行動になりました。
そのため、1602年、石高を減らされる減封での国替えとなり、秋田の久保田城20万石へと移動しました。
久保田藩にて佐竹義重は、地元の反勢力を抑えるため、出羽・六郷城を隠居地として仙北を見張りました。
なお、俗説として佐竹義重が常陸国中の美女を集めて秋田に赴いたため、秋田美人の礎を築いたとも言われています。

しかし、1612年、佐竹義重は狩りの途中に落馬して亡くなっています。享年66。

ちなみに、2009年から秋田県知事を務める佐竹敬久氏は、佐竹北家の末裔で21代目にあたります。

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小田氏治 弱小?異色?負けても何度も復活した戦国大名
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岩城宣隆(多賀谷宣家) 佐竹家の一族として真田幸村の娘を迎える?
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