梶原政景(梶原景国)とは


スポンサーリンク
スポンサーリンク

大田資正の子である梶原政景(梶原景国)も父・大田資正同様、もしくはそれ以上と評価が高い武将である。
 
父・太田資正と共に、梶原景国(梶原政景)は佐竹の庇護を受ける事になったが、父と独自に小田氏治とも戦をしていることから、太田三楽斉と梶原景国は純粋な佐竹家臣ではなく、佐竹と協力関係を持った勢力と言った方が正しいのか?
元、小田氏家臣でこの時は佐竹に組していた真壁城主・真壁氏幹の娘を梶原景国(梶原政景)は迎え、太田三楽斉と梶原景国は近隣の真壁氏とも姻戚関係となった。

 スポンサーリンク


1569年、小田氏治に勝利し小田城に梶原景国が入ると、それまで梶原景国の居城だった柿岡城には親族真壁房幹が入った。
1577年に北条氏政が小田城を攻めた際には、北条氏直は初陣だったとされる。しかし、小田城主・梶原景国(梶原政景)らが撃退している。1578年には木田余城の小田氏治を攻めて敗退させている。
1584年には下野・太田和で北条氏政と戦ったとき、親戚の真壁久幹が北条勢にいた事と、北条についた方が岩槻城を復活できると言う思惑もあり、梶原景国(梶原政景)は参陣しなかった。その為、佐竹義重に小田城を攻められ、梶原景国は北条氏政に助けを求めたが北条氏政は出陣せず、父・太田三楽斉が佐竹義重に詫びて佐竹勢に帰参している。
1590年のはじめ、小田氏治が最後となる小田城奪還を目指し、梶原景国(梶原政景)は敗れるが、小田城そのものは奪われなかった。
1590年春と夏には小田原の豊臣秀吉に父と共に拝謁し、1592年の朝鮮出兵では名護屋城へ佐竹義宣とともに赴いた。
1596年に佐竹義宣は梶原景国(梶原政景)を陸奥・窪田城主とした。関ケ原のあとも佐竹氏の秋田転封に従ったが、その後、結城秀康に仕え、大坂城攻めでは弟・太田資武とともに従軍した。

筑波・小田城と小田氏治の頑張り~8回も奪還を試みた小田城は防御は弱かった?

 

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします

Twitter でフォローしよう!

スポンサーリンク


関連記事

コメント欄に「一句」どうぞ

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

 スポンサーリンク

気になる戦国女性

  1. 吉岡妙林尼(よしおか-みょうりんに)の生い立ちは良くわかっていませんが、父は林左京亮、又は丹生正敏(…
  2. 瀬名(せな)とも言う築山殿(つきやまどの)は、今川家一族の駿河持船城主・関口親永(関口刑部少輔)(ま…
  3. 寿桂尼(じゅけいに)は、藤原北家である勧修寺流の中御門家(公家)・権大納言中御門宣胤の娘で、兄に中御…
  4.  片倉喜多(かたくら-きた)は、1538年に伊達家臣・鬼庭良直の娘(長女)として生まれた。 母は…
  5. 島津亀寿(しまづ-かめじゅ)と言う薩摩のお姫様がいます。亀寿姫と呼びますが、法名から薩摩では持明…

人気の戦国武将

  1. 源頼朝は、源氏の頭領である、源義朝の3男として、1147年4月8日に尾張の熱田神宮西側にあった神宮大…
  2. 淀殿(茶々)が産んだ、子供である豊臣秀頼の父親は誰なのでしょう?状況的には豊臣秀吉が父親であ…
  3. 田峯城
    菅沼定忠(すがぬま-さだただ)は、田峯菅沼氏である菅沼定継の子となるが生年や母は不詳となる。…
  4. ▼本能寺の変(1582年・天正10年)が起ったとき、織田勢で京から最も遠い任地にいたのが滝川一益だ。…
  5. ▼徳川家康は天文11年(1542年)に、三河国(現在の愛知県東部)岡崎城で小大名・松平広忠の嫡男とし…
 スポンサーリンク
当サイトでは
Android app on Google Play
↑ アプリ版もあります

戦国グッズ通販

実際に鉄板も使用した本物志向「高級」甲冑型の携帯ストラップ
甲冑型ストラップ

戦国浪漫グッズ
戦国武将グッズ

自作甲冑キット新発売
甲冑自作キット
戦国浪漫「戦国グッズ」通販

メールでお知らせ

新規記事追加をメールで受信

ページ上部へ戻る