松平忠直の解説 真田幸村を討ち取るも大分に謹慎となったその理由は?

松平忠直とは

松平忠直(まつだいら-ただなお)は結城秀康(徳川家康の次男)の長男として、1595年6月10日、摂津・東成郡の生魂にて生まれた。
母は側室の中川一元の娘(清涼院、岡山)。

1600年、石田三成が挙兵した関ヶ原の戦いのあと、結城家は越前67万石に転封。

1603年、父の江戸参勤に同行して、将軍・徳川秀忠と対面。
徳川秀忠は松平忠直の事を気に入り、自らの脇に座らせたと言う。
1604年に、父・結城秀康は松平姓に戻ったとされる。
1605年9月10日、従四位下に叙位。侍従に任官し、三河守を兼任。

1607年閏4月27日、父・結城秀康(享年34)が病死した為、13歳の松平忠直が家督を継いで越前75万石を相続し、越前藩主となった。

1611年、将軍・徳川秀忠の娘・勝姫(天崇院)を正室に迎えた。
元服した際に、徳川秀忠より偏諱を授かり忠直と称している。


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1612年の冬、まだ18歳の松平忠直は充分に家臣を統制できず「越前騒動」が勃発。
筆頭家老・本多富正と、それに反する家老・今村守次や清水方正らが対立し、内戦にまで拡大すると、元・北条氏照の家臣であった由木景盛(西庵)らが切腹するなど、多数の死者が出た。
徳川家康と徳川秀忠の両御所による介入となると、重臣・今村守次(今村掃部)と清水方正(清水丹後)は若い松平忠直に責任があるかのように言い訳をしたため配流となり、本多富正(本多伊豆守)は厳しく叱責されたが、老中・本多正信の後押しもあり、越前藩の国政を補佐することを命じられている。

1613年6月、家中騒動で再び徳川幕府に直訴があり、本多富正1人では、親藩でも最大規模の越前藩運営には支障があるとされ、本多富正の叔父である本多重次の子・本多成重が追加の付家老となって、今村守次の居城であった丸岡城に入り、本多富正と共に松平忠直を補佐させている。

1614年、大坂冬の陣では、真田幸村(真田信繁)の策略にはまり、真田丸を相手に敗北。徳川家康から叱責を受けた。

1615年、大阪夏の陣では豊臣勢の3750首をあげた他、家臣・西尾宗次(西尾仁左衛門)が真田信繁(真田幸村)を討ち取ると言う大手柄もあり、大坂城に一番乗りするなどの大活躍を遂げた。
しかし、戦後の論功行賞が二条城で受け取った「初花の茶入れ」(初花肩衝)だけだった事に不満を募らせ「命を賭して戦った家臣に申し訳ない」と、次第に江戸幕府に不信感を抱くようになる。

もっとも、この初花肩衝は、足利義政や織田信長も所有していた中国伝来の価値ある品であったが、初花を投げつけたと伝わっていますが、現在、徳川記念財団には無傷の初花がある。

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1621年、27歳になった松平忠直は病を理由に江戸への参勤交代を拒否。

また1622年には家臣の未亡人を見初めたものの断られ、その一家を惨殺し、未亡人と更に正妻・勝姫の殺害も企てた。
実際に勝姫に対して斬りかかり、とっさに身代わりとなった女中2人が命を落としている。
このように、小山田多聞などと言った家臣を討つなどの乱行が目立つようになり、1623年、29歳の時に将軍・徳川秀忠から隠居を命じらた。
生母の説得もあって隠居に応じると、出家して一伯と名乗り、竹中重義の豊後府内藩へ移されて謹慎した。

なお、最初は海沿い萩原に配流となり5000石を与えられた。
しかし、1626年には内陸部の掟山に近い津守館に移されている。
これは逃亡しやすい海から離れた場所に住まわせたと考えられているが、府内藩士だけでなく、幕府から派遣された府内目付(監視役)も眼を光らせていたと言う。


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竹中重義が密貿易に手を出した罪で切腹を命じられたあとは、新たに府内藩主となった日根野吉明が引き続き預かっている。

厳重な監視下ではあったが、庄屋や村人らと交流することもあり、寺社への寄進も記録が残っている。

そのまま大分で不遇の晩年を過ごした松平忠直は、1650年9月10日に津守館にて病死した。享年56。
大分・浄土寺にて10月10日に葬儀。
愛人・お蘭と共に墓が並んでいる。
また、津守館から近い掟山には、松平忠直が譲り受けたとされる、真田栗毛と言う真田幸村愛用の馬の墓もある。

なお、越前藩主時代に松平忠直は、痩せた土地でもよく育つ蕎麦の栽培を推奨し、それが名物「越前そば」になったとされている。

松平忠直公廟のある浄土寺(大分)

大分の浄土寺には「一伯公廟」(松平忠直公廟)がある。
松平忠直が豊後への配流されていた際に、妾(愛人)のお蘭の方が亡くなり葬ったのがこの浄土寺で、住職と親しくなると浄土寺を菩提寺とした。
境内には松平忠直の墓石と、お蘭の方の墓石(妙昌墓)があり、その銘から松平忠直の墓は逆修墓(生前に作られた墓)であることが分かっている。

一伯公廟じたいは江戸後期に建てられた入母屋造妻入桟瓦葺で、松平忠直とお蘭の方の墓碑を安置する霊廟となっている。

一伯公廟(松平忠直の墓)

その中には、愛人・お蘭(妙昌墓)と共に墓が並んでいると言うが扉は閉じられたままで伺い知る事はできなかった。

松平忠直公廟のある浄土寺への行き方(アクセス)だが、下記の地図ポイント地点が参拝者用駐車場となる。

ただし、浄土寺は幼稚園も経営しており、朝や夕方は送り迎えのクルマで駐車場も一杯になる。
小倉街道(国道10号)沿いにある浄土寺へは、JR西大分駅からだと歩いて約8分、650mくらいの距離で便利である。

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