北条氏照(大石源三・北条氏輝・北条陸奥守氏照)~北条の戦略家である有能な武将

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北条氏照とは

北条氏照 (大石源三、北条氏輝、北条陸奥守氏照)
戦国時代 1540年(1541年?、1542年?)~1590年8月10日

父・北条氏康の3男として、兄の北条氏政(北條氏政)の誕生から2年後に生まれたとされ、1540年誕生が有力説。幼名を北条藤菊丸と称した。
3男ではあったが、長男・新九郎が亡くなり次男・北条氏政が嫡男として北条当主となる為、北条家跡継ぎではないが、実質次男として、兄・北条氏政をよく支援した。
激しい気性の持ち主であるが勇猛果敢で、合戦時には自ら先陣を務め、生涯36勝と数々の戦いで武勲を挙げた歴戦の勇士。
また人の心を見る力にも長けていたとされ外交手腕も高かったとして知られる。学問詩歌を修め多摩の名僧卜山舜悦に参禅して禅機を会得し、父・北条氏康に劣らぬ文武両道に秀でた人物であった。また、笛の名主でもあったとされ、趣味なのか?中国の陶磁器などを多く所有していたようだ。


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1546年の河越夜戦で北条氏康が勝利すると、武蔵守護代の系譜を継ぐ関東管領上杉憲政の重臣で横山城(滝山城)主・大石定久(大石綱周、大石道俊)が北条に下った。
この時、北条側の意向で北条藤菊丸(北条源三、のちの北条氏照)(6歳?)が大石定久の娘・比左(比佐、阿豊、豊とも?)結婚し、大石家に養子に入る事となり、大石源三と改姓した。また、横山城を滝山城と城名を変更している。

翌年1547年には、滝山城下も北条氏康の直轄支配地となったようで、大石定久は滝山城と武蔵守護代の座を大石源三に譲り、武蔵・戸倉城に隠居し北条氏に臣従したと言う。
しかし、1548年には、大石定久は自刃したとも言う。なお、大石氏が北条に下った年代については諸説有。


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なお、最近の研究では、この当時、まだ滝山城は存在していなかったとも考えられているが、理由は下記の通りである。
1561年春に上杉謙信小田原城を攻める際、滝山城下を通過したのだが合戦が起きていない。また、1561年7月に北条氏康が三田氏を攻めた際、滝山城よりも遠い由井城(浄福寺城か?)に本営を置いていることなど、機能的に優れている滝山城を使用しないのはおかしく、当時、滝山城は存在していなかったとも考えられている。
小田原城から由井の北条氏照への棟別銭免除の指示を示した朱印状が出された1563年4月より。北条氏照が滝山城への年貢納入を命じた発給文書が出された1567年9月までの4年余りのあいだに、上杉謙信の南下に対抗するために滝山城が築城されたとも考えられる。

1555年に北条氏康(北条氏康)と共に、古河公方足利義氏の元服式に、下総の葛西城に出向いたことが文献で初見。後に、足利義氏の後見役となっているが、最初から予定されていたのであろう。
1557年5月2日には、相模国・座間の鈴鹿明神社を再興している。
1559年、大石源三は側近の横地景信らと共に滝山城に入り、「油井源三(由井源三)」とも名乗っている。由井氏は武蔵七党の西党から出た由井別当以来の名家である。
油井源三自身は現在の相模原市辺りに油井領を有し、のちに北条氏照唯一の実子である娘・貞心(貞心尼)が堀の内で暮らした。
大石又は油井氏を名乗り、地元掌握を第一としたのであろう。しかし、いつ頃から北条姓に復帰したのかよくわかっていなく、また、大石氏の姓名を貫いたと言う説もあるが、以下本文内では一般的に知られる北条氏照として記載する。
養父・大石定久が没する(没年不明)と北条氏照は大石定仲ら大石家や滝山衆を家臣に組み入れた。なお、年代不明だが、北条氏政の子・北条源蔵を養子に迎えている。
いずれにせよ、北条氏照を支える役割を持った滝山衆と呼ばれた家臣団は、大石氏の家臣であった、横山党の流れの由木氏(柚木氏)、布施氏、横地氏、近藤氏、進藤氏、狩野氏、中島氏、長野氏、藤曲氏、設楽氏、大竹氏が中心になったと考えられる。
1562年、一度北条傘下に加わったものの上杉謙信に降った、青梅の辛垣城主・三田綱秀を攻略するのに北条氏照は滝山城から梅ヶ谷峠を通り多摩川を挟んで袖木町で三田軍と対陣。
軍畑で激しい激戦となり、耐え切れない三田勢は辛垣城に退却した為、北条氏照は塚田又八を寝返らせて城に火を放たせて辛垣城を落とし、三田氏を滅ぼす武功を立てた。


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そして、支配下とした奥多摩の日原に住む原島右京亮に「ハイタカ」を持参するように命じるなど、鷹狩も好んだようだ。同族の三田綱勝は北条氏照に仕えて、のち下総・小山城主になっている。
1564年の第二次国府台合戦では北条氏照も参戦。上杉謙信と連合する安房・上総の里見義尭・里見義弘と下総国府台で対陣し、北条勢が勝利した。
1565年には下総関宿に出陣し、翌年1566年には上野・新田を守備。1567年には古河公方宿老の簗田氏、野田氏に起請文を送り、1568年には野田氏の栗橋城を接収。
栗橋城には宿老・布施景尊を配置。反北条姿勢の簗田氏に対抗した。
1568年には武田が同盟を破棄して今川を攻めた為、北条は今川に協力し武田と対立することになった。北条氏康は、北条氏照と北条氏邦を上野・由良成繁を通じて、越後・上杉謙信に向かわせ、翌年1569年に越後・上杉氏との同盟が成立した。
しかし、武田信玄小田原攻めを敢行し、この時進軍経路になった滝山城も危機に陥いることになる。

1569年8月24日武田信玄は甲府を出発。韮崎から佐久を経て、千曲川沿いに20000の兵で碓氷峠を越えて、安中を通過し、北条氏邦の鉢形城を9月10日包囲した。
鉢形城を牽制しつつそのまま南下し1559年頃より北条氏照が城主の滝山城(八王子市)を攻める為、多摩川を挟んで拝島に本陣を置いた。
当時、滝山城は平野の関東では珍しい難攻不落の平山城である。
9月26日別働隊として小仏峠から武田家臣・岩殿城主の小山田信茂隊1000が進入。小仏峠は当時、道幅が大変狭く軍勢を通すのは不可能と考えられていた。
北条氏照は、小河内もしくは檜原からの侵攻を予想した防御を考えていた為、武田軍最強と言われた小山田隊が小仏から侵攻したのに驚き、すぐさま家臣の横地監物、中山勘解由、布施出羽守ら精鋭部隊2000の兵にて、高尾近くの十々里(とどり、現在の八王子市廿里)にて迎え撃つ作戦を取るが、北条勢の動きを察知した小山田信茂は、廿里に先着し、逆に北条勢を迎え撃った。廿里の戦いである。

廿里の戦い
※廿里の戦いがあった廿里町

小山田隊は兵力的には不利ながらも「鳥雲の陣」で北条勢を撃退する。北条側の戦死は251と言われている。その後、9月27日に武田信玄本隊・武田勝頼らが滝山城を猛攻撃する。
老将・中山勘解由、狩野一庵、師岡山城守らが抵抗するが滝山城は3の丸まで落ち落城寸前になった。
北条氏照は2の丸で戦闘指揮を取ったと伝わる。
しかし、武田信玄の本来の目的が小田原城攻めだった武田軍は、1日で攻撃を止め9月28日早朝、滝山城に悟られないよう20000の軍勢は突然城下から姿を消した。北条氏照28歳前後の時である。
その後、武田信玄は北条家本拠の小田原城まで攻め押して、小田原城を数日間包囲するが撤退を開始。甲府へ戻る際に合戦となった三増峠の戦いでは北条氏照も参戦した。三増峠の戦いは別章にて詳しく記載している為、ここでは割愛する。

1571年、父・北条氏康が「上杉との同盟を見限り、再び武田と同盟を結ぶように」という遺言を残して他界。兄・北条氏政はすぐに実行する。すると、上杉謙信は再び北条攻めを開始。北条氏照も上野などににて上杉勢と対陣し、関宿城厩橋城などを攻める一方、利根川の海運整備などを行った。
また、常陸・小田城梶原政景を攻め、佐竹氏とも対陣している。
なお、この頃、北条氏照は深沢山(のちの八王子城)の東麓に牛頭山寺(現在の宗関寺)も再興している。

1576年2月から北条氏照(北條氏照)は、下野国の小山領も管轄し、小山城に大石輝基、榎本城に近藤綱秀を城代として置いた。

1578年に上杉謙信が没し、上杉家の家督争い「御館の乱」が勃発。北条氏政は妹の嫁ぎ先・武田勝頼と共に北条一族の出身である上杉景虎を支援した。
しかし、武田勝頼は大量の金品を送られ敵対した上杉景勝と和睦してしまう。これをうけ、北条氏政は武田との同盟を破棄。そして1578年9月、北条氏照と北条氏邦が上杉景虎の援助に越後へ向かった。しかし、途中の抵抗と雪の為間に合わず、翌1579年3月24日に鮫尾城で上杉景虎は自害し、上杉景勝が上杉家の家督を継ぐことになった。
 
これにより、再び武田と関係が悪くなった為、9年前の1569年に武田勢に攻められ落城寸前までなった滝山城では、今後武田を防げないと北条氏照は新たな城を築城開始する。これが東京随一の山城・八王子城となる。
「滝は落ちるから滝山城は縁起が悪い」として滝山城を放棄することになったと言う伝承もあるが、八王子城にも実際には滝がある為、八王子城が禁制地となった江戸時代に作られた空想であろう。
また、北条氏照は1579年と1580年に安土城に間宮綱信(間宮若狭守綱信)を使者として送り、鷹や大量の贈り物を持参させ、織田信長と接近を図っている。この際の家臣が安土城の構えを見て、八王子城の築城にも最新の技術を導入したと言われている。
実は生きている「鷹」を遠路はるばる輸送するのは、当時としては大変な事。鷹のエサとなる新鮮な肉が必要なので、鷹の餌を捕る「餌指(えさし)」を同行させるのだ。

1580年、北条氏政が隠居し家督は北条氏直が継いだ。(隠居は形式上であり、北条氏政が実質権利者であった。)
1582年、織田信長・徳川家康が武田攻めをする際、北条氏も同盟していた織田氏と共に甲斐に侵入するが、織田から進軍予定などが全く北条には届かず思うように攻めることができず、甲斐は織田・徳川勢が獲得した。1582年3月に武田勝頼が討死し武田が滅亡すると、武田勝頼に嫁いでいた妹の縁や、織田・徳川に反感もあったことから、東に逃れてきた武田信玄の娘・松姫一行などを八王子にて援助したと考えられる。
しかし、1582年6月に本能寺の変が勃発し織田信長が亡くなると情勢も大きく変わった。すぐさま、北条氏直は徳川が支配していた武田の旧領・上野に進軍。この時北条氏照も、もちろん参戦し滝川一益などを破っている。
まもなく徳川家康とも対陣することとなり、北条氏政は小田原を守り、北条氏直が総大将として出陣部隊50000の総指揮。そして北条氏照、北条氏邦、北条氏忠が各方面軍を指揮した。
北条氏直は「甲斐は祖父(武田信玄)の旧領」として80日間も徳川勢と戦をしたが1582年10月に上田城真田昌幸が豊臣秀吉の誘いにより徳川家康に内応すると、1582年10月27日徳川家康と和睦し上野は北条、甲斐・信濃は徳川が領有した。そして、同じ1582年には徳川家康の次女・督姫が北条氏直の正室になる。


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北条家が獲得した関東の領地の半分以上は、北条氏照の戦功によるもの。北条氏照が治める領地は八王子だけでなく、栗橋、小山、古河などの北関東にも及び、北条氏照は外交面でも、1583年には伊達政宗との接近に尽力した。
なお、甲斐には新たな徳川勢が入り、国境防衛の急務から八王子城も防衛能力を上げるべく、大改修を開始した。一般的には1586年頃に、北条氏照は滝山城から八王子城に移ったとされている。
この頃、北条氏直は下野・常陸方面に侵攻して佐竹義重や結城晴朝、太田資正らを圧迫していたが、織田信長が本能寺で倒れたあと、中央では豊臣秀吉が権力を得、一方的に1587年「関東惣無事令」を発令し関東での合戦が禁止された。
この為、以後北条氏は豊臣秀吉との決戦を意識して北条家では軍備増強を図る。
北条氏照は1588年、山伏に軍役を定めた他、鉄砲作りなどの為に、釣鐘の抽出を求め、日野付近を地盤としていた「三沢衆」を北条氏照直属部隊として八王子城に入れるなどした。
 
北条家は巨大な勢力となった豊臣秀吉に対抗する意見がわかれる。
兄で前当主の北条氏政や北条氏照・北条氏邦らは主戦派として徹底抗戦を唱えた。北条氏規ら穏健派の意見を現当主の北条氏直は支持し、徳川家康の仲介にて北条氏規を上洛させて豊臣秀吉との交渉を開始するが、豊臣秀吉は人質を要求。実質、豊臣秀吉に北条は屈せよとの命令であった。
しかし、こうでもない、ああでもないと話し合いで結論が出ない有名な「小田原評定」により時間だけが過ぎ、1589年には猪俣邦憲が真田昌幸の領地で鈴木重則が城主を務めた名胡桃城を奪取し、鈴木重則が自刃する事件が起きる。これが豊臣秀吉の関東惣無事令に反するとして、1590年、豊臣秀吉20万とも言われる大軍が小田原攻めを開始した。
北条勢は上杉や武田の小田原攻めを防いだ時と同じく、小田原城を中心に各城で篭城策を取り、小田原城には約60000で篭城。
 
小田原攻めに際して、北条氏照は小田原城に入り篭城軍を指揮した。
八王子城は家臣の横地監物・中山家範・近藤綱秀らを城代にし、北国から迫る豊臣軍に抵抗させたが落城する。大量虐殺された悲劇の八王子城落城をご覧頂きたい。


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北条家にとって、小田原城の次に大切な城「八王子城」が、攻撃を受けて僅か1日、しかも4~5時間で落城したことは、豊臣秀吉に降伏する大きな要因となった。

切腹を命じられた北条氏政、北条氏照(北條氏照)は7月11日(7月10日とも?)に医者・田村安栖の宿所にて切腹。北条氏照は兄・北条氏政とともに沐浴し辞世の句を「天地の清き中より生まれきて もとのすみかにかえるべらなり」と読んだあと、弟・北条氏規の介錯をうけて割腹したと言う。北条氏照、享年51。
北条氏照は悔しさの余り自分の腹を十字に掻き切ると、腸(はらわた)を掴んで投げつけとも言われている。
7月19日には川越城にて大道寺政繁が切腹。松田憲秀も北条氏を裏切ったと切腹を命じられた。
北条氏政・北条氏照兄弟の介錯をした北条氏規は両者の自刃後、その任の辛さから追い腹を切ろうとしたが、豊臣の検視役に止められ果たせなかった。その北条氏規と当主・北条氏直は徳川家康との縁で豊臣秀吉に許され高野山に追放されている。

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