北条氏規とは 北条氏康の5男 許されて豊臣家臣へ



北条氏規(ほうじょう-うじのり)は、1545年に北条氏康の5男として生まれた。幼名は北条助五郎。
母は正室・今川氏親の娘(瑞渓院)。
兄に北条氏政(北條氏政)、八王子城主・北条氏照(北條氏照)、鉢形城主・北条氏邦(北條氏邦)がいる。

北条氏規は幼少期に今川義元の人質となり駿府にて過ごし、一時、今川義元の養嗣子ともなったが、今川氏真の次と言う事で次男扱いであったとされている。
また、徳川家康も同時期に駿府で人質となっており、住居が隣同士だったともされ、この頃から親交があったとする説もある。


その後、小田原城に戻った北条氏規の所領は、相模の三浦郡三崎宝蔵山付近であり、三崎城主として三浦水軍の管理も担当していたようである。

北条氏規の正室は朝比奈泰以の娘であったが、のち北条綱成の娘・高源院を迎え、1577年に嫡男・北条氏盛(ほうじょう-うじもり)が誕生している。

北条家においての北条氏規の活動は外交交渉が多く、越後の上杉謙信や甲斐の武田勝頼織田信長が没したあとの徳川家康、奥羽・伊達政宗や蘆名盛氏との外交・同盟で使者を務めている。

特に、徳川家康と北条氏規の間で交わされた書状などがは、神奈川県歴史博物館などに多数現存しており、豊臣秀吉北条氏直・北条氏政に上洛を求めた際に、徳川家康は北条氏規を北条家の窓口として接していた。

1569年、武田信玄が伊豆へ侵攻した際には、韮山城主として武田勢を撃退。
この頃から、外交役だけではなく、城主としての活動を見られるようになった。

北条氏直(北條氏直)の名代として、板部岡江雪斎と度々上洛しては豊臣秀吉との交渉も担当し、豊臣秀吉の北条討伐が現実味を帯びてくると、北条氏規(北條氏規)は大局を読み、豊臣秀吉への臣従を主張したが、北条氏政らは応じなかった。

1590年、豊臣秀吉の小田原攻めの際には、韮山城主として3640名余りで籠城。


豊臣勢は織田信雄17000を中心に、右翼に蒲生氏郷4000と、稲葉貞通1200。
左翼は細川忠興2700、森忠政2100、中川秀政2000、山崎片家と岡本良勝など2200。
中央に蜂須賀家政2500、生駒親正2200、筒井定次1500、福島正則1800、戸田勝隆1700人と言う総勢44000もの大軍にて、1590年3月29日から韮山城を包囲し激しい攻防戦である韮山城の戦いとなった。

しかし、3月30日に松田康長と間宮康俊などが守る山中城を徳川家康などが落とし、4月1日に井伊直政足柄城も落とす。
小田原城へと迫る豊臣秀吉は、韮山城には最低限の包囲軍を残して、織田信雄ら主力を転進させたため、韮山城は約3ヶ月も籠城戦を演じ、徳川家康の説得に応じて6月24日に開城した。

降伏した北条氏規は豊臣秀吉の元に出仕し、北条氏房と共に徳川家康と織田信雄を通じて豊臣家の黒田官兵衛らと交渉。
小田原城の兄・北条氏政と北条氏直に、降伏を勧める役割を果たした。

1590年7月9日、小田原城が開城したあと、北条氏規は高野山にて蟄居となった北条氏直に従い高野山へ赴いた。
1591年、北条氏規は豊臣秀吉に許されて河内の丹南郡2000石となる。
のち、1594年、河内の河内郡6980石となり狭山城主となった。

1600年2月8日、北条氏規は病死。享年56。
墓所は大坂の専念寺。


家督は嫡男・北条氏盛が継ぎ、下野4000石と合わせて1万1000石となり、関ヶ原の戦いでは東軍・西尾吉次の軍勢に属し所領安堵され、狭山藩主として子孫は明治維新まで続いた。

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  • コメント (2)

    • 次元
    • 2017年 6月 29日

    韮崎城?

    • 高田哲也
    • 2017年 6月 29日

    感謝御礼。


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