蜂須賀家政と蜂須賀至鎮とは~徳島にて阿波踊りを始めさせた戦国武将


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蜂須賀家政(はちすか-いえまさ)は、蜂須賀正勝の子として1558年に尾張・宮後城にて生まれた。
母は松(大匠院、まつ)。

1565年頃、蜂須賀家成が8歳の頃、父・蜂須賀正勝(蜂須賀小六)が木下藤吉郎豊臣秀吉)の与力になる。

このように父・蜂須賀正勝と共に羽柴秀吉に仕え、1570年、13歳のとき、姉川の戦いにて初陣を果たした。
その後、毛利への中国攻めでは黄母衣衆としてもその名が見られる。

1582年、明智光秀本能寺の変織田信長が横死すると、中国大返しを経て山崎の戦いにも参加。

1583年、27歳のときには賤ヶ岳の戦いに参加し、1584年、父・蜂須賀正勝が播磨・龍野城主となると、同じく播磨・佐用郡に3000石を与えられた。

その後も、1585年の紀州征伐での根来衆攻めなどで大きな手柄を立て、羽柴秀吉の天下取りに尽力。
雑賀攻めのあとの四国攻めでは、阿波・木津城攻め、一宮城攻めなどにて戦功を挙げている。

正室は生駒家長の娘・ヒメ(慈光院)で、1586年に長男・蜂須賀至鎮が誕生している。

四国攻めあと、羽柴秀吉は父・蜂須賀正勝に阿波一国を与えようとしたが、既に60歳で大阪城にて羽柴秀吉(豊臣秀吉)の側近として仕えることを希望。

阿波17万3千石は蜂須賀家政(29歳)に与えられ、阿波の内の1万石は赤松則房、龍野城は福島正則に与えられた。
そして、蜂須賀家政は蜂須賀氏の郎党家臣をつれて阿波に入国し、羽柴秀吉の指示により渭山城を破却し、渭津(いのつ)を徳島と改名し、新たに徳島城を築城開始している。

阿波では一揆も起こったが、一説では城が竣工した際に「城の完成祝いとして、好きに踊れ」という触れを出し、2日間に渡り踊り騒いだのが「阿波踊り」の発祥ともされている。

1586年、父・蜂須賀正勝が大阪にて死去するも、翌年には九州攻めにも参陣し、日向・高城攻めにて武功を挙げた。

1590年、小田原攻めでは伊豆・韮山城の戦いにて福島正則と共に先鋒を務めて攻略に貢献している。

朝鮮攻めにおいては、文禄の役・慶長の役の2回、渡航している。
特に1597年の南原城の戦い、蔚山城の戦いでは、浅野幸長を助け出すという功績を残した。
しかし、蜂須賀家政らが追撃を行わず、黒田長政ら諸大名と戦線縮小案を上申したことが、豊臣秀吉の逆鱗に触れる。
この時、蜂須賀家政(41歳)は日本に呼び戻され、領国での蟄居と蔵入地没収となっている。

1598年、豊臣秀吉が死去し、1599年に前田利家も亡くなると、福島正則・加藤清正・浅野幸長らと石田三成の襲撃計画に参加(七将襲撃事件)。
また、1600年に、子の蜂須賀至鎮(15歳)に、徳川家康の養女・敬台院(9歳)(小笠原秀政の娘、氏姫、万姫・お虎)を正室に迎えるなど、積極的に徳川家に関与した。

1600年、徳川家康が会津征伐へと出陣した際には、徳川家から養女を迎えていた子の蜂須賀至鎮に、益田宮内ら騎馬18騎を付けて、徳川家康の元に参じさせた。
蜂須賀家政にとっては初陣となる。

しかし、石田三成が挙兵すると、豊臣秀頼公の為にと西軍に味方するように促される。
蜂須賀家政は、苦肉の策として病気を理由に大阪屋敷に留まり、阿波を豊臣家に返上。
阿波返上による徳島城の受け取りには、豊臣秀頼の上使・小川越前守と毛利輝元の家臣・小早川豊前守が阿波に赴いた。
また、蜂須賀勢は大谷吉継の指揮下に入って加賀を赴く様にとの命が伝えらると、軍勢を毛利輝元に預ける形をとった為、阿波の蜂須賀勢2000は北国口防衛につきべつ阿波を発った。

蜂須賀家政は家臣の中村右近大夫らと大坂屋敷を出て、和泉国枚野の豪商・渡辺立庵道通の屋敷にて剃髪して蓬庵と号し、そのまま高野山の光明院に入った。

なお、徳川家から養女を迎えていた子の蜂須賀家政は、そのまま東軍に与し、関ヶ原の戦いでも益田宮内ら騎馬18騎と少なかったが、徳川勢の先鋒を務めている。
阿波からの長谷川伊豆守、稲田太郎左衛門ら2000は、摂津から京に向かう途中で、西軍敗走の知らせを受けたため、その後、蜂須賀至鎮に合流し阿波に戻っている。

このように、蜂須賀家は東軍に協力したとされ、戦後に所領を安堵された。
そして、家督は蜂須賀至鎮に譲られ、蜂須賀家政は隠居したのである。

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1614年、大坂冬の陣では、豊臣秀頼からの誘いに、隠居している蜂須賀家政は最初、豊臣勢に加担しようと考えたと言う。
しかし、蜂須賀至鎮の説得を受けて「自分は無二の関東方」と称して拒絶し、駿府城の徳川家康を訪ねては、その豊臣家からの密書を提出した。
大阪府冬の陣・大阪夏の陣の両方で、嫡男・蜂須賀至鎮が戦功を挙げたため、戦後、蜂須賀家は淡路を丸ごと与えられ、25万7000石となっている。

蜂須賀至鎮は家臣を大切にしたとされ、外出時の供の家来を待たせることを嫌い、時間があるから「町で遊んでこい」と自分の財布から金を与えていたと言う。
そのため、近隣の藩主も人心掌握術に感心し、真似をするようになったされている。
また、内政面でも、塩田開発や非常時の食料確保に努め、吉野川の治水工事も自ら指揮を執ったと言う。
しかし、名君として慕われた蜂須賀至鎮は、1620年2月26日に、35歳の若さで死去した。
元々、病弱であったとも言われている。

その後、隠居していた蜂須賀家政、幼くして家督継いだ嫡孫・蜂須賀忠英の後見を務めるよう江戸幕府から命じらた。
そして、蜂須賀忠英が成人する1629年まで、藩の政務を取り仕切り、藩政の基礎を築いている。

戦国以来の長老として、第3代将軍・徳川家光の御伽衆として江戸城に出仕することもあったとい蜂須賀家政も、1638年12月30日に81にて亡くなった。

蜂須賀小六(蜂須賀正勝)~豊臣秀吉の腹心
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