前田利家【詳細版】槍の又左と武勇を称された戦国大名

前田利家とは

前田利家(前田犬千代)は、戦国時代の1538年に尾張国海東郡の荒子村(現・名古屋市中川区荒子4丁目)にて誕生した。生年に関しては1537年、1539年説もある。
父は土豪・荒子前田家の当主である前田利春(前田利昌)で、その四男として生まれた。幼名は前田犬千代。
母は長齢院(ちょうれいいん、竹野某の娘)。
兄に前田利久、前田利玄、前田安勝、弟に佐脇良之、前田秀継がいる。
伊勢湾に面する荒子の前田家領地は2000貫であった。

2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」では俳優の宅麻伸さんが前田利家を演じられる。


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1550年、のちに前田利家の正室となる「まつ」の父・篠原一計が死去した為、まつの母が尾張守護斯波氏の家臣・高畠直吉と再婚。
その為、まつは前田利家(まえだ-としいえ)の父・前田利昌に養育されることになり、荒子城に入った。
下記は荒子駅前の前田利家の銅像。

前田利家の銅像

1551年、前田利家(まえだ-としいえ)は3歳年上の織田信長に小姓として50貫で仕えた。
若い頃の前田利家は、短気で喧嘩早く、派手な格好をした「かぶき者」であったとされる。(弟の佐脇藤八良之も同じく織田信長に小姓として仕えている。)


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1552年、尾張下四郡を支配する織田大和守家(清洲織田氏)の清洲城主・織田信友と、織田信長とが戦った萱津の戦いで初陣。首級を挙げる戦功を挙げた。「肝に毛のはえた奴だ」と織田信長も称賛している。
その後、元服して前田又左衞門利家と名乗っている。(前田又四郎、前田孫四郎とも?)
若い頃の前田利家は武具は三間半(6.3m)もの長槍を駆使し、槍の又左衞門、槍の又左などの異名をもって呼ばれてた。
しかし、血気盛んな年頃であった為に、苦難の日々を送ったのも、この頃であった。

なお、織田信長とは衆道(同性愛)の関係にあったことが加賀藩の資料「亜相公御夜話」にて「鶴の汁の話(織田信長に若い頃は愛人であったことを武功の宴会で披露され皆に羨ましがられた時の逸話)」として残されている。前田利家は容姿端麗だったようだ。

1556年、織田信長と織田信勝が織田家の家督を争った稲生の戦いでは、宮井勘兵衛なる小姓頭に右目下を矢で射抜かれながらも、相手を討ち取るという功績を上げる。
100貫が加増され、少年・村井長頼を召し抱えた。

1558年、尾張上四郡を支配者である岩倉城主・織田信安(岩倉織田氏)の息子・織田信賢との争いである浮野の戦いにも従軍し功積を挙げた。
この年、前田利家(22歳)は、まつ(12歳)と結婚。容姿は美しく、快活で社交的、おまけに読み書き、そろばん、和歌、武芸などをたしなむ才色兼備の女性だった。

また、永禄初年頃に新設された、織田信長の直属部隊である赤と黒の母衣衆の赤母衣衆筆頭に前田利家は抜擢され、多くの与力を添えられた。


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1559年、まつとの間に長女・幸姫が誕生したこの歳、前田利家は織田信長の異母弟で雑用を務める同朋衆の拾阿弥を、織田信長の目の前で斬殺し、織田家から追放された。
当初、処刑されるとみられたが、柴田勝家森可成らが織田信長に助命嘆願した為、出仕停止処分に減罰され、前田利家は諸国を放浪する浪人暮らしとなったのである。
浪人中は、松倉城主・坪内利定の庇護を受けたとされるが、良く分かっていない。

1560年、出仕停止は解除されていなかったが、無断で桶狭間の戦いに参加。朝の合戦で首1つ、本戦で2つの計3つの首を挙げる功績を挙げたが、織田信長は帰参を許さなかった。
1561年、斉藤義龍との森部の戦いにも無断参戦。斎藤家重臣・日比野下野守の家来で「頸取足立」の異名を持つ猛将・足立六兵衛なる豪傑を討ち取る功績を挙げた他にも首級1つを挙げている。
2つの首級を持参して織田信長に拝謁すると、今度は帰参が認められ300貫(一説に450貫文)の加増を受けて、ようやく織田家に復帰し、織田信長の領土拡大に貢献して行った。

1562年1月、長男・前田利長(初代加賀藩主)が誕生。
1563年、次女・蕭姫(中川光重の正室)が誕生。

浪人中の1560年に父・前田利春(前田利昌)が死去した為、前田家の家督は長兄・前田利久が継いでいたが、1569年、織田信長は、前田利家に兄に代わって前田家の家督を継ぐように命じた。
理由は前田利久に実子がなく、病弱のため「武者道少御無沙汰」の状態にあったから、器量に欠ける前田利久より武勇に優れた前田利家を荒子城主に据えた方が良いからとされている。
前田家の重臣・奥村永福も荒子城の明け渡しを拒絶したが、主命で退去を命じられている。
前田利久の継室の甥?で、養子に入っていた前田慶次(前田慶次郎、前田利益)も、前田利久らと共に荒子を去った。
前田利家は荒子衆を家臣に抱え、知行合計2450貫となった。

安土城城下に住んでいた頃は、屋敷の塀を隔てた隣に豊臣秀吉夫妻が住んでおり、ねねとまつは毎日のようにどちらかの屋敷で話し込んでいたという。

1570年4月、浅井氏・朝倉氏との金ヶ崎の戦いでは、退却する織田信長の警護を担当し、三段崎勘右衛門(みたざき-かんえもん)を討ち取ったと言われています

金ヶ崎の戦い

同年6月の姉川の戦いでは浅井助七郎なる者を討ち取る功績を挙げ「日本無双の槍」と称えられた。
同年1570年9月には石山本願寺との間に起こった春日井堤の戦いでは、春日井堤を退却する味方の中で、ただひとり踏みとどまって敵を倒す功績を挙げている。


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1573年、三女・摩阿姫(豊臣秀吉の側室、後に万里小路充房の正室)が誕生。
この頃から、佐々成政・野々村正成・福富秀勝塙直政らと共に鉄砲奉行としての参戦が見受けられる。
1573年9月の一乗谷城の戦い、1574年7月の長島一向一揆、1575年5月、武田勝頼との長篠の戦いでは追撃戦で、敵将・弓削左衛門と太刀打ちして深傷を負ったが、家臣の村井長頼に救出され、弓削の首級を挙げた。

1573年11月24日、母・長齢院が荒子城にて死去。
1574年、四女・豪姫が誕生。豪姫は幼少の頃に、子がいなかった豊臣秀吉夫婦の養女となり、豊臣家で養育され、のち宇喜多秀家の正室となっている。

1574年からは柴田勝家の与力となり、越前にて一向一揆の鎮圧に従事。
翌年に越前一向一揆を平定すると、佐々成政・不破光治とともに府中10万石を与えられ「府中三人衆」と呼ばれた。
越前国平定後は、柴田勝家の与力として佐々成政らと共に上杉景勝と戦うなど北陸地方の戦闘に従事したが、織田信長の命により荒木村重の摂津・有岡城攻め(有岡城の戦い)や、黒田官兵衛らの播磨・三木城攻め(三木合戦)にも参加している。


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1581年、能登の所領を得ると、前田利家は最初、羽咋・飯山城(鳥毛山砦)に入ります。
しかし、水の便が悪く、能登・菅原城に移りました、
そのあと、前田利家(44歳)は織田信長より能登一国23万石を与えられて、七尾城主となったのです。

七尾城

翌年1582年、難攻不落の七尾城を廃城とし、小丸山城を築城開始した。
下記は、小丸山城跡にある前田利家松子之像。

前田利家松子之像

1582年6月、明智光秀により本能寺の変で織田信長が横死した際には、前田利家は柴田勝家に従って上杉景勝の越中・魚津城を攻略中であり、山崎の戦いに加わることができなかった。
6月27日に織田家の後継人事などを話し合う清洲会議では、羽柴秀吉(豊臣秀吉)と柴田勝家が対立すると、前田利家は柴田勝家の与力と言う事もあり、そのまま柴田勝家に味方したが旧交ある豊臣秀吉との関係にも苦しんだとされる。

1582年11月、柴田勝家の命を受けて金森長近・不破勝光とともに山城・宝積寺城(現京都府大山崎町)にいた豊臣秀吉と一時的な和議の交渉を行っている。


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1583年4月、賤ヶ岳の戦いで前田利家は5000を率いて柴田勢として布陣したが、佐久間盛政が敗走した為、かねてからの豊臣秀吉の誘いを受ける判断をし、前田利家は合戦中に突然撤退。その為、柴田勢は総崩れとなり羽柴勢(豊臣勢)の勝利となった。
佐久間盛政が敗れていなければ、そのまま豊臣秀吉勢の砦を攻めていたと考えられる。
前田利家は越前・府中城(現福井県武生市)に籠城したが、敗北して北ノ庄城へ逃れる途中の柴田勝家が立ち寄ったとされる。
柴田勝家はこれまでの労をねぎらい、前田利家に湯漬けを所望したという逸話が残っている。また、柴田勝家は人質の三女・麻阿(まあ)を前田利家に無事に帰している。
その後、府中城に使者として遣わされた堀秀政の勧告に従って前田利家は豊臣秀吉に降伏し、北ノ庄城攻めの先鋒となった。柴田勝家はお市の方と自刃。茶々(淀殿)・お初・お豪の浅井三姉妹は豊臣秀吉を頼った。
戦後は本領安堵だけでなく、佐久間盛政の旧領・加賀国のうち二郡を豊臣秀吉から加増され、本拠地を能登の小丸山城から加賀の尾山城(のちの金沢城)に移した。

金沢城

この時、兄・前田利久と前田慶次郎(前田利益)を迎えて、前田利久に2000石、前田慶次郎に5000石を与えている。

1584年、豊臣秀吉と徳川家康織田信雄の連合軍が小牧・長久手の戦いとなった際、北陸でも徳川家に味方した佐々成政が加賀・能登国に侵攻。
これを豊臣勢として前田利家は2500の手勢で、15000の佐々成政の背後を突いて能登・末森城に入り佐々成政を撃退した(能登・末森城の戦い)。
4月9日に長久手の戦いで豊臣秀吉が敗れたあとも、北陸では戦線が膠着状態となったが、前田利家は丹羽長秀と共に北陸を守り抜いた。
その後、前田利家は、加賀と越中の国境にある荒山砦・勝山砦を攻略し、越中へも攻め込んだ。
9月19日に、豊臣秀吉より一連の戦勝を賀されている。
佐々成政との戦いは翌年までもつれ込み、その間に前田利家は豊臣に臣従した上杉景勝に協力を仰ぎ、越中国境まで進出させたり、佐々成政の配下に加わっていた越中国衆・菊池武勝を調略するなどして越中を攻撃した。


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1585年、摩阿姫が豊臣秀吉の側室となり「加賀殿」と呼ばれるようになった。
1585年3月、豊臣秀吉が雑賀衆を鎮圧。6月には弟・羽柴秀長を大将として黒田官兵衛らを四国へ派遣して長宗我部元親を攻め、四国を平定。
1585年8月、関白に就任した豊臣秀吉は織田信雄、織田信包丹羽長重細川忠興、金森長近、蜂屋頼隆、宮部継潤池田輝政稲葉典通森忠政蒲生氏郷木村重茲中村一氏堀尾吉晴山内一豊加藤光泰九鬼嘉隆、上杉景勝ら10万の大軍で佐々成政が籠城する富山城を包囲。
前田利家は10000を率いて先導した。佐々成政に協力した、飛騨の姉小路頼綱も、金森長近率いる別働隊によって征伐され、佐々成政は織田信雄の仲介で降伏。領土没収も命は助命され大阪城下で豊臣秀吉のお伽衆になった。
論功行賞では前田利家の嫡子・前田利長は越中4郡のうち砺波・射水・婦負の3郡を加増された。
また、越前の丹羽長秀が没すると丹羽家は国替えとなり、前田利家に加賀・越前・能登の3カ国「加賀百万石」として北陸の覇者となり君臨した。

下記は、金沢城に隣接する尾山神社の境内にある、前田利家の騎馬像。

前田利家の騎馬像

晩年は豊臣家になくてはならない重要な存在に

1585年、前田利家は羽柴性(名字)を賜り、筑前守・左近衛権少将に任官。
1586年以降、前田利家とまつは上洛して、豊臣秀吉の側近として大阪城下で仕えた。
1586年の九州征伐の際には、前田利長が九州へ従軍したが、前田利家は8000を率いて畿内まで進出し後方警戒をした。
1588年には豊臣姓(本姓)をも下賜されている。


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1590年1月21日には参議に任じられ、豊臣秀吉が主催した北野大茶会や後陽成天皇聚楽第行幸にも陪席。晩年の徳川秀吉に意見できる、数少ない人物であった。
一行に臣従しない北条氏直を攻める為の小田原攻めでは、北国勢の総指揮として上杉景勝・真田昌幸らと共に碓氷峠を越えて関東に入り松井田城を攻略。
続いて鉢形城八王子城などを攻略した。
伊達政宗が小田原に出向いた際には、前田利家らが尋問している。
小田原落城後には、奥羽へ軍を進めた。豊臣秀吉は8月に帰陣の途についたが、前田利家らは残って奥羽の鎮圧に努めている。

1591年8月、朝鮮出兵に向けて九州・名護屋城の築城が開始され、1592年3月16日に前田利家は諸将に先んじて8000を率いて京を出陣し名護屋に向かった。この時、嫡子・前田利長は京に残っている。
当初、豊臣秀吉は自ら渡海するつもりであったが、前田利家と徳川家康が説得して思い止まらせている。
豊臣秀吉が母・大政所の危篤により約3カ月間、大阪城に戻っていた際には、名護屋にて前田利家と徳川家康が諸将を指揮した。

1593年1月には、前田利家にも渡海の命が出たが、間もなく明との講和の動きが進み、結局は朝鮮に渡る事は無かった。
5月15日、明使が名護屋に到着すると、徳川家康・前田利家の邸宅がその宿舎とされている。
8月、豊臣秀頼が誕生すると、豊臣秀吉は大坂城に戻ったが、前田利家も続いて退陣し、11月に金沢城に帰城した。
このとき、まつの侍女である千代の方との間に生まれた子供が猿千代、のちの第3代・加賀藩主の前田利常である。
猿千代については、豊臣秀吉の隠し子という説もある。

前田利家の次男・前田利政が元服すると、前田利政が能登21万石、長男・前田利長が越中3郡32万石、前田利家は北加賀2郡23万5000石で、合計76万5000石を前田利家が統括した。

1594年1月5日、前田利家は、上杉景勝・毛利輝元と同日に従三位に叙位され、4月7日には2人よりも先に権中納言に任ぜられ、官位で上杉景勝・毛利輝元より上位となった。


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1598年になると、豊臣秀吉と共に前田利家も高齢で衰えを見せ始めた。
3月15日、醍醐の花見に正室・まつと列席(摩阿姫も出席)すると、4月20日に嫡子・前田利長に家督を譲って隠居。湯治のため草津温泉に赴いた。
この時、隠居料として加賀石川郡・河北郡、越中氷見郡、能登鹿島郡にて計15000石を与えられている。しかし、実質的には隠居は許されず、草津温泉より戻ると前田利家は、五大老・五奉行の制度を定めた大老の1人に任じられた。
そして1598年8月18日、豊臣秀吉は、前田利家らに嫡子・豊臣秀頼の将来を繰り返し頼んで没した。

1599年、諸大名は伏見城に出頭して、豊臣秀頼に年賀の礼を行った。前田利家も病中ながらも傳役として無理をおして出席し、豊臣秀頼を抱いて着席した。
そして、豊臣秀吉の遺言通り、徳川家康が伏見城に入り、前田利家が豊臣秀頼の補佐として大坂城に入った。

しかし、程なくして徳川家康が無断で、伊達政宗・蜂須賀家政福島正則黒田長政らと婚姻政策を進めた為、前田利家は反発し、諸大名が徳川家康・前田利家の両屋敷に集結する騒ぎとなった。
前田利家には、上杉景勝・毛利輝元・宇喜多秀家の三大老や五奉行の石田三成、また武断派の細川忠興・浅野幸長加藤清正加藤嘉明らが味方したが、1599年2月2日に前田利家を含む四大老・五奉行の9人が、徳川家康と誓紙を交換。
さらに前田利家が徳川家康のもとを訪問して和解した。
この直後、前田利家の病状は悪化し、徳川家康が病気見舞いに訪れている。
この時、前田利家は抜き身の太刀を布団の下に忍ばせていたというエピソードが残されているが、生涯38の戦に参戦した前田利家も、妻・まつに遺書を代筆させ、1599年閏3月3日に大坂の自邸で病死。享年62。
死因は「腹痛」で苦しんでいたとあるため、胃ガンなどの可能性が高い。
遺言に従い金沢の野田山に葬られた。朝廷から従一位が追贈されている。


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前田利家の死後、徳川家康は加賀への侵攻を計画。
前田利長は軍備増強を図り、豊臣家に救援を求めたが拒否されたこともあり、母・芳春院(まつ)が徳川家の人質となって江戸城に入る事で戦闘を回避した。

譜代の家臣は奥村永福、篠原一孝、木村三蔵。荒子衆としては村井長頼、高畠定吉。与力衆は岡島一吉、長連龍富田重政など。

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