加藤光泰の生涯【経験豊富で貴重だった豊臣秀吉の家臣】

加藤光泰(かとう-みつやす)は美濃・斎藤道三の家臣・加藤景泰(70貫文)の長男として、1537年に美濃国多芸郡今泉村橋詰庄にて生まれた。
そもそも加藤家と言うのは、藤原氏流であり、源頼義の家臣・藤原景道が「加賀介」になったことから「加藤」と称するようになったのが始まりだ。
ちなみに、佐藤と言うのは藤原家・補佐などから「佐藤」。

斎藤龍興に仕えると勇将として知られるが、織田信長によって稲葉山城が陥落し、斎藤龍興が逃亡すると浪人になり、近江に逃れたと言う。
しかし、織田信長は、美濃衆との戦いで加藤光泰の活躍ぶりを知っており、木下秀吉(のちの豊臣秀吉)の仲介で織田家に迎えられて、豊臣秀吉の家臣に加わった。


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1571年、浅井長政が横山砦(横山城)を攻撃した際には、左足を負傷するも撃退する戦功をあげ、豊臣秀吉から近江の坂田郡磯野村に700貫と与力10名を与えられた。
生え抜きの家臣が少ない羽柴秀吉(豊臣秀吉)にとっては実戦経験豊富な貴重な家臣であったに違いない。

1578年、播磨の三木城攻めのあと、播磨に5000石を与えられ、備中高松城の水攻めなどにも参陣。
1582年、明智光秀との山崎の戦いでは、池田恒興らと共に円明寺川を渡って津田信春を奇襲することに成功し、敵の混乱に乗じて明智光秀の本隊を襲撃し、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の勝利に大きく貢献した。

この功により丹波・周山城1万5000石に増封される。
そして、近江貝津城に転封するとその後2万石に加増されて近江高島城(大溝城)、そして尾張・犬山城主へと移封された。

犬山城

正室は一柳可遊の娘で、1580年に嫡男・加藤作十郎(加藤貞泰)が誕生している。
なお、娘が竹中半兵衛の嫡子・竹中重門の正室になっている。

1583年、柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでは軍奉行を務め、1584年、織田信雄徳川家康との小牧・長久手の戦いでは犬山城を守備したあと、佐々成政の追討戦にて軍功をあげた。
1585年には美濃・大垣城主として40000石に加増となっている。
そして、羽柴家(豊臣家)の蔵入地2万石の管理も行ったが、これを自身の給人地にしてしまったため、豊臣秀吉の勘気を被り1585年9月に領地を召上げられて、豊臣秀長に預けられると大和郡山城にて蟄居となった。


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1587年、赦免されて復帰すると佐和山城として20000石となり、従五位下・遠江守に叙任し、遠州太守とも称している。

1590年、小田原攻め(小田原征伐)では駿府城の在番となり、その後、徳川家康や一柳直末らと山中城を攻略し軍功を挙げると、羽柴秀勝の美濃・岐阜城への国替えに伴い、甲斐24万石を与えられると言う大抜擢を受けた。

この時、関東に移封された徳川家康と接する甲斐は、豊臣家に取っても重要拠点であり、加藤光泰は府中に入ると、国中・河内支配には嫡男・加藤作十郎(加藤貞泰)と実弟・加藤光政を充てて、郡内地方には養子・加藤光吉を配置し、1592年までに寺社領の安堵や寄進、諸役免除などを集中的に行った他、太閤検地も行った。

甲府城

そして、甲府に甲府城の築城を開始している。

文禄の役では願い出陣を希望して朝鮮に渡り活躍するも石田三成とは対立したと言う。
1593年9月に帰国する予定となると、石田三成に誘われて西平浦の宮部長房陣で供応を受けた後に発病し、1593年8月29日にそのまま病死した。享年57。
一説には毒殺とも言われている。

遺骸は甲府にへ送られて、山梨郡板垣村の甲斐善光寺に葬られている。
法号は剛園宗勝曹渓院。

その後、嫡男・加藤作十郎(14歳)が家督を継いだが、幼年を理由に1594年1月に甲斐24万石は召上げられて、美濃国黒野4万石に国替となっているが、石田三成の陰謀ともされている。
甲斐は一時、国主不在期間を経て、浅野長政浅野幸長の親子が入った。

加藤作十郎(加藤貞泰)は、関ヶ原の戦いの際、最初は石田三成について稲葉貞通らと犬山城を守備した。
しかし、竹中重門らと共に徳川家康に寝返って井伊直政の指揮下に入り、大垣城にて西軍と対峙したあと、関ヶ原では島津義弘と戦い、その後稲葉貞通と共に長束正家が守る水口岡山城攻めで功を挙げたため、徳川家康より所領を安堵された。
1614年からの大阪の陣でも活躍し、1617年に伊予大洲藩主・6万石となり、大洲城に入った。


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加藤光泰の墓

加藤光泰の墓は、甲斐・善光寺にある。
下記の墓標が加藤光泰の墓とされるものだ。

加藤光泰の墓

善光寺の金堂の東側に周りこんで、北側に進むと案内板もあるのでわかりやすい。

武田信玄の家臣で砥石城の戦いで討死した横田高松の墓も近くにあるので、合わせて訪れたい。

大垣城の歴史と大垣城の戦い~大垣城訪問記
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