長束正家 豊臣家で財政を担当した算術に優れた武将

長束正家とは

長束正家(なつか-まさいえ)は、戦国時代の1562年に近江国栗太郡長束村にて誕生したとされる。
父の名は水口盛里(水口安芸守)とされるが、本姓は大蔵氏とも。
近江水口岡山城が落城し長束村に住んだ為、地名を取って長束氏を称したとも。
要するに、出自は良くわからない為、母の名も不明だ。

2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」では俳優の長友郁真さんが長束正家を演じられる。


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長束正家は最初、織田信長の重臣・丹羽長秀に仕えたようで、丹羽家の家臣時代から頭角を現し、1万石を知行していたとされる。

1585年、丹羽長秀の死後、家督を相続した丹羽長重が、佐々成政の越中征伐に従軍した際、佐々成政に内応した家臣がいるとの嫌疑を掛けられ、羽柴秀吉によって123万石のうち越前国・加賀国を召し上げられ、若狭1国15万石となり大減封処分となった。
この時、丹羽長重の重臣・長束正家(24歳)や溝口秀勝村上頼勝らは召し上げられ、長束正家は豊臣秀吉の奉公衆となり、のち豊臣秀吉直参の家臣となり、大蔵少輔に叙せられ、石田三成大谷吉継らと共に重用された。

長束正家は算術に優れた武将で、豊臣家の財政を一手に担い、蔵入地管理や太閤検地で多くの実績を残している。


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1586年、本多忠勝の妹・栄子を正室に迎え、1589年には長男・長束半右衛門助信が誕生している。長束助信には山中三十郎が家老として付けられた。

1586年の九州征伐では蔵米の徴収や配分を担当。
1590年の小田原征伐(小田原攻め)では兵糧奉行として兵糧輸送で活躍した他、石垣山一夜城の普請も行った。
20万石もの兵糧を滞りなく輸送したほか、小田原周辺において米3万石を買占め小田原城を兵糧攻めにしている。

小田原攻めの直前である1590年正月13日には、人質として上洛した徳川秀忠の出迎え役を担当。
また、里見義康が豊臣秀吉に臣従する際には、申し次役を務めている。

石田三成が大将として攻撃・水攻めした、成田長親忍城攻めでは、副大将として従軍し、家臣の家所帯刀・臼杵平四郎・一宮善兵衛・有坂宮内・増田新次郎らが武功を立てている。

その後、弟の長束正隆が、豊臣秀吉の直参の家臣に取り立てられている。

文禄・慶長の役(朝鮮攻め)では、肥前の名護屋城にて在陣し兵糧奉行も務めた。


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1594年2月には豊臣秀次と相談の上、中川秀成の豊後入封に際し隣接する蔵入地代官・太田一吉に協力を求め、戦乱によって荒廃した農村の再建や逃亡した農民の還住策を指示している。また、伏見城の造営にも参画。

1595年、先祖代々の地である近江水口岡山城主となり、50000石を拝領。 浅野長政、石田三成、増田長盛前田玄以らと共に五奉行に名を連ね、主に豊臣家の財政を担当した。

1597年、12万石に加増され、従四位下侍従に昇任。
領内ではのちに家松山大徳寺となる浄慶寺を保護するなどの功績も見られる。

1598年3月、蒲生秀行が減封された際には、松田秀宣らの蒲生家の浪人を召抱えた。

豊臣秀吉が没したあとは、石田三成に味方し、打倒・徳川家康の謀議に参加したが、徳川家康の伏見城入城を阻止できなかった。
前田玄以と共に徳川家康に会津征伐の中止を嘆願したが聞き入れられず、息子・長束助信と家臣が水口城にて会津征伐へ向かう徳川家康を暗殺しようとしているとの噂が立ち、甲賀衆・篠山景春の通報によって、徳川家康は城下を素通りした。

1600年、石田三成らとともに毛利輝元を擁立して挙兵。
開戦当初には山崎家盛の抵抗を受け、池田輝政の妻子を大坂城に人質として抑留することに失敗している。

初め陣代・家所帯刀、武者奉行・伴五兵衛らに兵を付けて伏見城攻めに送り、家臣の甲賀衆・鵜飼藤助の働きによって伏見城内の甲賀衆を寝返らせることに成功。
伏見城を守る、徳川家家臣・鳥居元忠らは自害して果てた。

8月下旬には伊勢・安濃津城を攻略(安濃津城の戦い)。
しかし、伊勢での戦いでは少数の敵船団を、徳川家康の本隊と誤認し、退却する失態も犯している。
この後、弟・長束直吉に水口岡山城の守備を任せて、大垣城へと向かい、石田三成らと合流した。


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関ヶ原の戦いでは、毛利秀元吉川広家とともに南宮山(岐阜県不破郡)に1500で布陣。
合戦前には浅野幸長隊と南宮神社付近で交戦。
池田輝政隊とも銃撃戦を展開したが、吉川広家の妨害のため、毛利秀元や長宗我部盛親ら同様に本戦に参加できず、西軍が壊滅すると長束正家は撤退した
このとき島津義弘隊の撤退を助けるため道案内に家臣を遣わしたとも言われている。

戦場離脱後は水口岡山城を目前に甲賀の山岡景友(山岡道阿弥)らに捕捉され、弟・長束玄春が捕らえられて処刑された。
長束正家は、松田秀宣の活躍で水口城に入場するも、寄せ手の亀井茲矩池田長吉に本領の安堵を約束されて降伏。
しかし、開城すると、重臣・嶺三郎兵衛、家所帯刀、伏兎彦之丞ら6名と共に、池田勢に拘束され、捕えられた長束正家は弟・長束直吉と共に家臣・奥村左馬助の介錯で切腹した。享年39。
重臣6名も同日、近江日野・櫻井谷で切腹。

長束正家の首は京都三条橋で晒され、財産は池田長吉(池田輝政の弟)に奪われたという。
地元・古城山の阿迦之宮に霊が祀られている。

嫡男の長束助信は、正室である細川藤孝の外孫・徳雲院の頼りで、京都の吉田兼治の屋敷で難を避け、その後、細川藤孝の居城・田辺城で匿われ、のち、細川忠興に召し出されて500石で仕え、田中半左衛門と改名した。

徳川家の重臣・本多忠勝の妹であった正室・栄子は、落城時、身重であった為、水口北脇の家臣・山本浅右衛門の家に匿われ、ここで男子を出産したが、産後の肥立ちが悪くまもなく亡くなった。
その後、遺児は仏道に入り、長じて1625年、長束正家が保護していた水口大徳寺の三世・還誉上人となっている。


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コメント

  • コメント ( 4 )

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  1. 長束正家の子孫(分家ですが)

    詳しく書いて頂き、ありがとうございます。
    実は、長束姓ですが、母の旧姓でございまして、京都市上京区の、映画の「五番町夕霧楼」で有名な「五番町」に、本家と、分家(母は分家ですが・・・)の両方のお墓があります。
    ちなみに、老人ホームが併設された病院の敷地内で、現・住職の職が内科医の院長と言う、すごい取り合わせ。
    お経は噛みまくります(苦笑)

  2. ご覧頂きました事、深く御礼申し上げます。
    また、貴重な情報も賜り、誠にありがとうございます。
    更なるご繁栄、お祈り申し上げます。

  3. 通りすがり

    詳しくまとめられていて大変参考になりました。
    正家の子孫は、細川の家臣になったものと、(五奉行の頼りで)広島の浅野家家臣になった者もいると聞いております。
    また、吉田の頼りで、高松藩松平頼重が香川の白鳥神社を復興させるにあたり京都の平野神社から猪熊千倉(吉田兼古)を宮司として呼び寄せたときに一緒に禰宜として白鳥神社に赴いたと聞いております。現在も宮司は猪熊家の方ですが、長束家の方は神職をやめられたようです。(神社前に長束宅があり長束家としては存続はしているようです。)

  4. 通りすがりさま、ご覧頂きまして、誠にありがとうございます。
    また、大変貴重な情報の賜り、御礼申し上げます。皆様の参考になると存じます。