カテゴリー:佐竹氏
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蘆名義広の解説 当主不在の蘆名家の当主となった佐竹義重の次男
天正14年(1586年)、蘆名氏当主であった蘆名亀王丸(あしな-かめおうまる)が夭折すると蘆名家は当主不在の状態となってしまいました。 しかし、そんな混乱の最中他家の介入により、新たな蘆名家当主が選ばれます。 そこで… -
梶原政景(梶原景国)の解説
大田資正の子である梶原政景(かじわら-まさかげ)も父・大田資正同様、もしくはそれ以上と評価が高い戦国時代の武将である。 父・太田資正と共に、梶原景国(梶原政景)は佐竹の庇護を受ける事になったが、父と独自に小田氏治… -
岩槻城主・太田資正と太田氏資と岩槻城訪問記~岩槻城の戦い
太田資正(おおたすけまさ)、太田三楽、太田三楽斉、太田三楽斎、太田三楽斉道譽 1522年~1591年 岩槻城の太田氏 太田資正は名将・太田道灌の曾孫にあたり、弱小勢力ながらも知勇兼備の将として名を馳せ、戦… -
佐竹義宣 なんとか戦国時代を乗り切った律義者の世渡り
佐竹義宣(さたけ-よしのぶ)は、戦国時代後期の常陸の戦国大名で、1570年に佐竹義重の嫡男として常陸・太田城にて生まれました。 母は伊達晴宗の娘になります。 この頃、佐竹家は小田原城主・北条氏直、米沢城主・伊達政宗と… -
岩城宣隆(多賀谷宣家) 佐竹家の一族として真田幸村の娘を迎える?
岩城宣隆(いわき-のぶたか)は、1584年に常陸・太田城主である佐竹義重の4男として生まれました。 母は正室・伊達晴宗の娘(宝寿院)です。 1590年、豊臣秀吉の小田原攻めのあとの仕置にて、佐竹氏にも従っていた下… -
佐竹義重 毛虫の兜をかぶった常陸の猛将
佐竹義重(さたけ-よししげ)は、常陸の戦国大名・佐竹義昭の子として1547年に生まれました。 母は岩城重隆の娘です。幼名は徳寿丸と言いました。 父・佐竹義昭は、常陸・小田城主である小田成治の娘が産んだ子であり、小田家… -
太田資武・太田景資となぞの太田資忠?
太田資正の3男・太田資武は15歳で初陣し、手這坂の戦い、府中城攻めなどにて戦功を挙げた。 父・太田資正の死後に家督を継ぎ、安房守を名乗っている。 小田氏治が元の居城・小田城を奪回攻撃した際に、梶原景国(梶原政景)と小… -
多気山城と多気氏の関係は?
質問回答編とは? 当方関連サイトにお寄せ頂きましたご質問などに対して、相模原の歴史研究会所属会員が回答するものです。古い歴史にはわからないことが多いですので、もちろん歴史認識の違いや間違えなどがあるかも知れませんの…