佐竹秀義の解説【鎌倉殿の13人】滅亡寸前の佐竹氏を救った佐竹3代当主・金砂城の戦い

佐竹秀義

佐竹秀義(さたけ-ひでよし)は平安時代末期の武将で1151年、佐竹隆義の次男として生まれました。
母は戸村能通の娘です。

佐竹氏は、今の茨城県北部を中心に勢力を伸ばし、戦国大名となると関ヶ原の戦いのあとに秋田へと転封されました。
戦国好きな方からは北関東を代表する戦国大名としてとらえられているのではないでしょうか。
親族武将が豊富なことから、信長の野望ゲームの9作目では重宝しました。
そんな佐竹氏は、河内源氏の新羅三郎義光から始まり、常陸源氏と称されていましたが、治承・寿永の乱、いわゆる源平合戦で源頼朝に味方せず、滅亡の危機にさらされます。
そんな佐竹氏を再興させたのが3代目に数えられる佐竹秀義です。


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源頼朝の奥州合戦に協力し、一度没収された本領を回復することはかないませんでしたが、滅亡寸前だった佐竹氏を救った救世主と言えます。
ところが、お家のために仕えた源頼朝はあまり良い上司ではなかったようで・・・

佐竹氏の誕生

佐竹秀義の前に、常陸源氏こと佐竹氏の起こりを簡単に解説します。
源頼朝の先祖で河内源氏の2代目棟梁である源頼義には長男の八幡太郎義家のほか、新羅三郎義光という男子がいました。
この義光が後三年合戦(1083年~1087年)を契機に東国に下向し、在地勢力の常陸平氏と結びながら勢力を拡大させていったのが、佐竹氏の始まりでした。
義光は常陸に勢力を築くにあたって、同族で、彼にとっては甥にあたる源義国(源義光の兄、源義家の子)と激しく争っています。
この争いは義光と協力関係にある常陸平氏と、義国に協力する秀郷流藤原氏(藤原秀郷から始まる上野・下野の勢力)の争いが発端でした。
いずれにしろ、義光と義国の争いは「坂東乱逆」と言われるほどの激しい抗争となってしまったのです。
こういった同じ源氏内の関係も、後の源頼朝による佐竹氏の冷遇につながっていたかもしれません。

さて、佐竹氏を名乗ったことが確認できるのは源義光の孫、佐竹昌義からです。
このころには久慈郡佐竹郷(茨城県常陸太田市)を本拠にしていたのではないかと推測されています。
後の佐竹氏の本城となる常陸・太田城(常陸太田市)も佐竹昌義の代に資料に現れます。
 

金砂城の戦い

常陸国北部、通称奥七郡を中心に勢力を築いてきた佐竹氏は、治承4年(1180年)11月、源頼朝による攻撃を受けました。
在京する父・隆義(昌義の子)に代わって、金砂山城(常陸太田市)に籠ったのが本稿の主人公、佐竹秀義です。
しかし彼は味方の裏切りによって頼朝軍に破れて逃げ延びました。
この戦いを金砂合戦(金砂城の戦い)といいます。

さかのぼること一か月前、10月、源頼朝は駿河国富士川(静岡県)で平家の追討軍と対陣しました。
平家側が頼朝軍と戦わずに撤退し、大規模な戦闘が行われないまま富士川の戦いは終結したのは有名な話。
このとき頼朝陣営では今後の方針について議論が行われました。
頼朝は平氏追討のため京に上洛することを主張するも、関東では未だ頼朝勢に従わない勢力も多いことから、諸将から「先に関東を制圧する」という意見が出て、頼朝もこれに同意したとされます。
この軍議の内容は『吾妻鏡』に記されているのですが、その割に、頼朝はどうもノリノリで佐竹征伐を行ったようです。
当時、軍勢が出発する日付というのは、その後の吉兆を左右するほど重要でしたが、それを無視して鎌倉を出立。
常陸国府(茨城県石岡市)では軍内の実力者、上総広常を頼って降伏してきた佐竹義政(佐竹秀義の兄)を問答無用で殺してしまいます。


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こうなると頼朝は最初から、同じ源氏でも、自分になかなか従わない常陸源氏の佐竹氏を処分しようとしていたと考えられます。
富士川の戦いの前に頼朝軍に合流した甲斐源氏は、完全に頼朝の下についたとは言い切れず、木曾義仲や新田義重、志田義広、新宮行家といった他の源氏勢力も頼朝の傘下には加わっていません。
最近の研究では、頼朝が現在の反平氏勢力の中で頭一つ抜き出た存在になるために、義光流(甲斐源氏も同じです)である常陸源氏の佐竹氏を征伐したのではと考えられているようです。

源頼朝への帰順

金砂山城を脱出して奥州へ逃げたとされる佐竹秀義。
彼の記録は約10年後の奥州合戦(1189年)まで途絶えます。
実は、源頼朝の佐竹征伐も、金砂合戦のことしか記されておらず、佐竹氏の本領・奥七郡が頼朝軍によって蹂躙されたわけでもなかったようです。
頼朝は金砂合戦の後に佐竹氏の奥七郡を没収し、配下の諸将に分配します。
これは奥州藤原氏といった、東北の敵対勢力に対する関東の防衛線といった意味もあったようです。
一方で、佐竹秀義は花園城(茨城県北茨城市)で抵抗運動を行っていたようで、常陸国に「佐竹の一党が三千余騎いる」という風聞も流れていました。

しかし、結局のところ佐竹秀義は源頼朝に帰順することを選び、本隊を率いる頼朝が宇都宮に到着するとその軍勢に加わりました。
佐竹秀義はこの時、源氏の旗印である白旗を持参しました。
頼朝は同じ源氏である自分の旗と区別が付くように、旗の上に扇を付けるよう命じたとされています。
これが佐竹氏の家紋「五本骨扇に月丸」の由来です。

ところで、佐竹征伐のときに降伏を願い出たのに殺された、佐竹義政には男子がいました。
彼は佐竹秀義とは行動を別にし、奥州合戦が終わるまで反頼朝の立場を崩さなかったとされています。


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源頼朝の傘下に加わった佐竹秀義ですが、降伏したからと言って領地が帰ってくるわけではありません。
むしろ、反頼朝だったころは、領地を没収されていても実力で頼朝勢諸将の在地支配に抵抗できました。が、帰順した今となっては大人しく本領である奥七郡を明け渡すのみでした。
一応は、奥州合戦の功績も加味されたのか、奥七郡の一部(佐竹・太田・額田・酒出郷など)の領有は許されたようですが、それでも往時の勢力にはかないません。
後になりますが、承久の乱で鎌倉幕府軍として功績をあげたことから、美濃に新領を与えられています。
しかし、奥七郡が完全に佐竹氏の手に戻ってくるのは鎌倉幕府が崩壊した後になります。

では、頼朝の御家人としての佐竹秀義はどんな役目を与えられたのでしょうか。
御家人となった佐竹秀義は、鎌倉の名越と呼ばれる地域に屋敷を構えました。
現在の鎌倉市大町で、屋敷跡に大宝寺という寺院が立っています。
御家人としての仕事は、祭礼などに参列する供奉随兵役。
源頼朝の二度の上洛や、善光寺詣でにも従ったようですが、政権中枢に関わるような仕事は与えられなかったようです(源頼朝死後には、小侍所という名誉な職にも選ばれています)。
それどころか、郷土史家によると、源頼朝は幕府成立後にたびたび巻き狩りを行っており、これは自分にとってかわる可能性のある勢力への、軍事演習による脅しだったとされています。
巻き狩りが行われたのは那須、信濃、富士の野原で、それぞれ佐竹氏、信濃源氏、甲斐源氏を意識しているのではないかと指摘されています。
この巻き狩りの後に頼朝によって誅殺されたのが甲斐源氏の安田義定で、御家人として頼朝に仕える佐竹秀義の心中は察するに余りあります。

(寄稿) 阿部俊介

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