斎藤龍興 (斎藤竜興)~美濃・斎藤家を継ぐもその運命は?

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斎藤龍興

斎藤龍興 (斎藤竜興)(さいとう-たつおき)は、戦国時代の1548年生まれで、幼名は喜太郎。
父は美濃の稲葉山城主・斎藤義龍(斎藤道三の子)で、母は浅井亮政の娘・近江局(近江の方)と言うのが有力(浅井長政の姉とも叔母とも?)で、だが、従来は庶子の子とする説が主流だった。
斎藤道三を殺害した父・斎藤義龍が、1561年5月11日に急死(享年35)すると、14歳の斎藤龍興があとを継いだ。
1560年に今川義元桶狭間の戦いで破った織田信長は、2日後の5月13日には美濃へ出陣し、5月14日には森部の戦いとなった。
重臣・長井利房(長井衛安、長井甲斐守)、日比野清実(日比野下野守)、神戸将監らが討死し、墨俣が織田勢に奪われたが、5月23日には反撃し、竹中半兵衛の十面埋伏の陣で織田信長を破るなどして、犬山城主・織田信清の弟を討ち取るなどし、稲葉山城に織田勢を寄せ付けなかった。


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織田勢の犬山城主・織田信清が、斎藤龍興に寝返るなど好転もあったが、一癖も二癖もある美濃の国人衆を、若年の斎藤龍興が束ねられる訳もなく、知略ある竹中半兵衛(竹中重治)を重用せず、評判の悪い斎藤飛騨守の重用するなど家臣の信頼を得られず、森可成坂井政尚・堀秀重・斎藤利治明智光秀らが離反。1562年には、有力家臣であった郡上八幡城主・遠藤盛数も病没した。

それでも、斎藤龍興は酒色に溺れて政務を顧みようとせず、一部の側近だけを重用した為、美濃三人衆や竹中重治らに愛想を尽かされ、1564年2月、竹中半兵衛と弟・竹中重矩や、舅・安藤守就らが斎藤龍興の居城・稲葉山城(後の岐阜城)をわずか16人(17人説も)で乗っ取っり、斎藤飛騨守を殺害する事件が起こる。驚いた斎藤龍興は鵜飼山城、さらに祐向山城に逃走。


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織田信長は竹中半兵衛(竹中重治)の稲葉山城奪取を知ると、美濃半分を与えると言い、稲葉山城を引き渡すよう要求した。
しかし、竹中半兵衛はあくまでも主君に目を覚ましてもらうための行動だとして、8月には稲葉山城を斎藤龍興に返還した。
その間、織田信長は、近江国の浅井長政にお市の方を娶らせ同盟を結び、斎藤家の混乱に乗じて、寝返っていた犬山城主・織田信清を攻めて陥落させ、ついに織田信長は尾張を統一。

その後、斎藤家は衰退の一途を辿り、市橋氏・丸毛氏・高木氏などが織田氏に通じた他、1565年には、丹羽長秀の調略で加治田城主・佐藤忠能(佐藤紀伊守)が織田家に寝返り、加治田城を攻撃してきた堂洞城主・岸信周を討ち、同じく織田家に寝返った斎藤利治により関城主・長井道利も敗れて敗走し、宇留摩城主・大沢基康も織田家に降ると、いよいよ斎藤龍興は織田信長に追い込まれる。

足利義昭の仲介で一旦和睦するも斎藤龍興は破棄して、美濃河野島で織田信長勢を1566年閏8月8日急襲したがこれが最後の勝利となった。

1566年9月、当時、足軽頭になっていた豊臣秀吉(木下藤吉郎)が川並衆の蜂須賀小六前野長康らの協力を得て墨俣に築城することに成功。
1567年8月1日、ついに西美濃三人衆の稲葉良通(稲葉一鉄)や氏家直元(氏家卜全)、安藤守就らが織田信長に内応を約束すると、すぐに織田信長は稲葉山城攻めを開始して9月に包囲。
この時、織田信長勢は、斎藤家臣の旗印を立てるなどして背後に廻り込むなどし、討って出ていた斎藤龍興が「これは敵か味方か?」と戸惑っているうちに挟み撃ちされ、斎藤龍興(20歳)は長良川を船で下り、北伊勢の長島へと逃走すると、遂に稲葉山城は織田信長(33歳)によって陥落した。

斎藤龍興は、長島一向一揆に長井道利と共に協力し、織田信長に対して抵抗活動を続けたが、1569年、伊勢から畿内へ移ると三好三人衆 (三好長逸三好政康岩成友通)と結託し、織田信長が擁立した室町幕府第15代将軍・足利義昭を襲撃するも敗退している(本圀寺の変、六条合戦)。
1570年8月には、三好康長・安宅信康・十河存保石山本願寺法主・本願寺顕如らとともに三好三人衆の籠城を支援(野田城・福島城の戦い)した。

斎藤龍興は伊勢長島や三好三人衆の元へと身を寄せるうち、キリスト教に興味を持ち、ルイス・フロイスからキリスト教の宗儀・世界の創造などについて非常に興味を示している。
ルイス・フロイスは著書「日本史」において、斎藤龍興の事を「非常に有能で思慮深い」と記載している。


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その後、縁戚関係にあったことから越前の朝倉義景のもとへ逃れ、客将となったが、朝倉義景が織田信長と対決するために近江に出陣した際、斎藤龍興も従った。
しかし、1573年8月13日、刀禰坂(刀根坂の戦い)で織田勢の追撃を受け討死。
一説によると、かつての重臣であった氏家直元(氏家卜全)の嫡男・氏家直昌に斬られたとされる。享年26。

下記は、疋壇城(疋田城)近くにある、刀根坂合戦で討死した武将の墓になるが、このひとつが、斎藤龍興の墓か?

斎藤龍興の墓か?

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