坂井政尚 姉川の合戦で先方を務めた織田家の勇将

坂井政尚




坂井政尚(さかい-まさひさ)は、織田信長の美濃攻略時に降り、
元亀初年まで活躍する織田家の武将です。

信長の上洛戦から頭角を現すようになり、
討ち死にするまでの3年間、主要な戦いにはほぼ参戦し、
近江堅田での戦いぶりは「一人当千の働き、高名比類なきところ」
と評されています。
政尚が討ち死にした年は、第一次信長包囲網が敷かれた時期で、
本格的な戦国時代(元亀天正)の混沌はこの後でした。

織田家の躍進時期を支え「これから」という時期に
討ち死にしてしまう坂井政尚の生涯です。

出生~織田家の上洛

出生については、尾張・美濃など諸説があります。
はじめは美濃の斎藤家、後に織田家に仕えたと
されていますが、時期がはっきりとしていません。

美濃の斎藤家は1567年に信長に攻め滅ぼされますが、
政尚はそれ以前のかなり早い時期から信長に従ったと言われています。
同じく早い時期から織田家に臣従した同期の武将として、
森可成や蜂屋頼隆がいます。

1568年9月、政尚は柴田勝家、蜂屋頼隆、森可成とともに
上洛の先陣として信長より一足先に入京します。
岩成友通の籠る勝竜寺城を陥とし、京都周辺の平定に尽力します。

この後、政尚は先の3名に佐久間信盛を加えた5名で
京都畿内を治めるための政務にも従事します。
禁制の発給、兵糧米の賦課、矢銭の免除、
また反抗的な姿勢をとっていた堺の吸収なども行いました。
他方、1569年の発生した信長の伊勢攻略戦にも参陣。
大河内城攻めに参加した記録が残っています。

早期に織田家に従った政尚や蜂屋頼隆、森可成らが
美濃攻略の直前に従った、美濃三人衆よりも
重要な役割を任されていた様子が伺えます。

この頃の成長著しい織田家には、戦の強さと同時に
政治能力も必要とされていました。
政尚はこうした期待に応え、織田家の有力武将としての
地位を着実に築いていきました。

姉川合戦~先方の名誉と嫡男の死~

1570年4月、京都を制圧した信長は、
天下布武を加速させるため、越前の朝倉家への侵攻を開始。
しかし、妹のお市の嫁ぎ先であり同盟国であるはずの
浅井長政が裏切り、一時京都に退却します。
1570年6月、体制を整えた織田軍は浅井領に侵攻。
朝倉義景は浅井長政に援軍を派遣、また徳川家康も織田家に
援軍を派遣し、浅井・朝倉連合軍VS織田・徳川連合軍が近江姉川で激突します。

織田・徳川軍 28,000
浅井・朝倉軍 18,000

政尚はこの大規模な会戦の織田軍の先陣を務めることになります。
政尚率いる2,000の坂井勢は浅井に攻勢をかけますが、
浅井の勇将・磯野員昌勢5,000に崩されてしまいます。
戦は、徳川の横撃を契機に朝倉勢がまず崩れ、次に浅井勢が敗走。
織田・徳川軍が浅井・朝倉軍に勝利します。
しかしこの激戦の中、政尚は嫡子・尚恒(久蔵)を失ってしまいます。

志賀の陣・堅田の戦いで討ち死に

姉川の合戦後、浅井・朝倉軍に備え
南近江の宇佐山城に森可成が配置されます。

直後の1570年8月、信長が擁していた足利義昭の敵対勢力である
三好三人衆が摂津で挙兵。信長に反旗を翻します。

信長は、三好三人衆を討伐するため摂津に出兵しますが、
好機と見た浅井・朝倉軍は森可成の宇佐山城を攻撃。
これを攻め陥とし、両軍は京都に進軍を開始します。

信長は京都まで撤退しますが、浅井・朝倉軍は決戦を避け
比叡山に立て籠り、にらみ合いが続くことになります。

信長は状況を打開すべく、猪飼昇貞ら近江堅田衆を織田家へ臣従させます。
近江堅田衆は、大名にも比叡山にも属さない独立した強固な水軍をもつ
勢力でした。
比叡山の東麓の堅田を抑えたということは、
湖西経由での朝倉勢の退路を断つ一手になります。
信長は、この戦略上の要地である堅田を補強するための
重要な役目を政尚に任せます。

東近江や摂津の押さえに兵力を分散せざるを得ない
織田家は、大軍を用意することができません。
政尚は1,000程の兵力で堅田に乗り込み、
味方になっていた堅田衆と合流して守備を固めました。
しかし、翌日には早くも浅井・朝倉軍の攻撃が開始されます。
20,000以上の敵勢に対し、坂井勢は1,000程度。
この劣勢の中政尚は、寄せての朝倉家の大将である
前波景当を返り討ちにするなど、奮戦を見せます。
しかし、戦力差を埋めることができず遂に堅田城は陥ち、
政尚も討ち死にしました。

政尚の死後、坂井家は次男の坂井越中守が跡を継ぎました。
しかし、その越中守も本能寺の変において主君・織田信忠
ともに討ち死にを遂げています。

(寄稿)渡辺綱

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渡辺綱

投稿者プロフィール

日本史を中心として、東アジア史全般(中国、朝鮮、満州)に興味あり。 
好きな作家:司馬遼太郎、黒岩重吾、陳舜臣、海音寺潮五郎、今東光、
      吉川英治、山岡荘八、宮城谷昌光

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