姉川の戦い 遠藤直経 信長暗殺を進言した知勇兼備の謀将【姉川合戦場探訪】

遠藤直経(えんどう-なおつね)は、近江の須川城主・遠藤主膳の子として1531年に生まれました。通称は遠藤喜右衛門です。
遠藤家の先祖は近江に所領を得た鎌倉武士です。
まだ浅井家が京極家の被官に過ぎなかった頃からの、浅井家における譜代の家臣でした。

要するに浅井家は京極家の家臣だったのですが、浅井亮政が主家の衰退に乗じて下剋上を成し遂げて、小谷城主として独立し、朝倉家の支援を得て戦国大名となります。
すると、遠藤家は小谷城下にある清水谷に屋敷を与えられた重臣となっていました。

遠藤直経は浅井家随一の智将で、浅井長政も幼い頃から何事も遠藤直経に相談していたため信頼も厚く、磯野員昌と並んで力自慢・戦上手の武将だったと言います。


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浅井久政の時代には、六角定頼の圧力に抗しかねて従属していた浅井家でしたが、1559年に浅井長政は父・浅井久政を竹生島に追放して家督を相続し、六角家に対抗する姿勢を見せました。

この時、15歳だった浅井長政は、決意するにあたり浅井政澄(浅井玄蕃)と遠藤直経に、真っ先に相談をしたとされており、このクーデターは家臣らも周到に準備したものだったようです。
そして、1560年、肥田城主・高野備前守を調略しました。
こうして、1560年8月、野良田の戦いにて浅井長政は大軍の六角承禎に勝利し、戦国大名として揺るぎない地歩を固めたのです。

なお、遠藤直経は伊賀忍者と交流があったとされ、浅井家の諜報活動を担っていたのでは?と言う説があります。

このように情報通であったことからも、早くから織田信長の才能を見抜いたようです。
浅井家と織田家が同盟していた1568年には、佐和山城を訪れた織田信長の接待役を遠藤直経が任命されますが、この話を聞いた時、浅井長政に信長暗殺を進言したとされています。
しかし、浅井長政は暗殺は信義に反するとし、遠藤直経も断念しました。

やがて、浅井家が朝倉家との旧縁を重んじるべきか、織田家との婚姻同盟を継続するべきかの判断に迫られると、遠藤直経は織田家に協力するべきと強く主張しました。


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結果的に、浅井長政の父・浅井久政らの意見が採用されたことから、1570年、織田家との決戦となる「姉川の戦い」へと発展しました。

姉川の戦い

1570年4月下旬、浅井長政の裏切りにより、金ヶ崎の戦い朽木元綱の協力を得て辛くも脱した織田信長は、岐阜城に戻ると直ちに小谷城攻めの準備に取り掛かりました。

6月19日、2万の大軍を率いて岐阜城を出発。
6月21日、織田信長は小谷城の目の前となる虎御前山に布陣し、森可成坂井政尚斎藤利治柴田勝家佐久間信盛・蜂屋頼隆・木下秀吉(豊臣秀吉)・丹羽長秀らに命じて、小谷城の城下町を焼き払います。
6月22日、すると織田信長は殿軍に簗田広正中条家忠佐々成政らを据えて鉄砲500、弓兵30を授け後退し、横山城へと向かいました。
下記写真が姉川合戦場から見た横山城です。

横山城

6月24日、浅井勢の三田村国定、野村直隆、大野木秀俊らが籠る横山城を包囲すると、織田信長は竜ヶ鼻(龍ヶ鼻)に布陣しました。

竜ヶ鼻(茶臼山古墳)

ここに徳川家康が5000を率いて竜ヶ鼻(茶臼山古墳)に到着し、一方、浅井の援軍としては朝倉景健8000が駆けつけ、小谷城の東にある大依山に布陣しました。

そのため、浅井長政は横山城を救援する動きに出て、6月28日未明に北国街道と姉川が交差する手前に布陣しました。浅井勢5000(浅井長政、磯野員昌、浅井政澄、阿閉貞征、新庄直頼、遠藤直経、藤堂高虎)、朝倉勢8000(朝倉景健、前波新八郎、真柄直隆)で合計13000です。
下記が、浅井長政が本陣を置いたとされる「陣田」です。

浅井長政本陣跡の陣田

当時は小高い丘になっていたそうですが、現在は区画整備されており平坦であるため、推定地となっています。
浅井長政本陣跡は史料では下記の「陣屋橋」付近であったとする説もあります。

浅井長政本陣跡の陣屋橋

これに対する織田勢は丹羽長秀、稲葉一鉄氏家卜全安藤守就を横山城の備えに残し、向かってきた浅井・朝倉勢を迎撃する体制を整えます。
織田信長、坂井政尚、池田恒興、木下秀吉(豊臣秀吉)、柴田勝家、森可成、佐久間信盛、和田惟政?、そして徳川勢は徳川家康酒井忠次、小笠原長忠、石川数正榊原康政と、総勢13000とされます。
兵力数には諸説あるのですが、浅井勢と織田勢の戦力差はあまり無かったとも言えると推測致します。

しかし、史料により兵力数には大きな誤差があり、浅井・朝倉が18000で、織田・徳川は29000とする場合など、色々あります。

姉川・野村橋

ちなみに地元の農民らは七尾山へ逃げて、合戦の様子を見ていたようです。

姉川の合戦場

姉川の戦いの行われたのは国道362号線が姉川を渡る野村橋の辺りですが、その周辺でと結構、広範囲に渡ります。
徳川家康は岡山(現在の勝山)に本陣を置き、姉川対岸の朝倉勢と対しました。


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午前6時頃に始まった姉川の戦い(姉川合戦)は、浅井・朝倉勢より進軍・攻撃したようで、姉川を渡ったあたりで激戦となり、横山城を包囲していた稲葉一鉄らも、織田軍危うしと駆けつけました。
しかし、浅井・朝倉の連合軍が伸びきってたのを見て、徳川家康は榊原康政を左翼に展開させて、側面攻撃させます。
これが成功して、元々士気の低かった朝倉勢は、退路が断たれると言う危機感から朝倉景健らが敗走を始めたため、それを見た浅井勢も恐怖を感じて敗走し始めます。
そこを織田・徳川勢は、敗走する浅井・朝倉勢を姉川を渡って追撃したようで、浅井・朝倉勢は1100余りが討死すると言う大敗となりました。

姉川の戦いマップ

合戦場付近には「血原」「血川」という地名が残り、激戦を思わせますが、これは浅井・朝倉勢が最初に布陣した、姉川の北側にあります。
その姉川合戦にて浅井勢は総崩れとなり、大敗を悟った遠藤直経は無茶な行動に出ます。

遠藤直経は味方武将である三田村左衛門の首級を掲げて、織田家の武将に成りすますと言う偽装工作を行い、姉川の南側にある織田家の本陣へと向かいました。
ひとりで本陣に入り込み、織田信長を殺害しようと思ったのです。

姉川の戦い

しかし、織田信長まであと数十メートルのところで、竹中半兵衛(竹中重治)の弟・竹中久作(竹中重矩)または、竹中家後見役の不破矢足に見抜かれてしまいました。
竹中半兵衛と竹中重矩は、美濃・斎藤家を離れた後、浅井家で客将になっていた時期があり、浅井家の重臣・遠藤直経の顔を知っていたのです。

捕らえられた遠藤直経は斬首となり、竹中久作(竹中重矩)の手柄とされました。
遠藤直経が斬首された地には長らく遠藤塚がありました。
場所は姉川よりだいぶ織田勢側に入った龍ヶ鼻の麓にあります。

遠藤直経の墓

ここの地名の小字も円藤(遠藤)です。
畑の中にあったそうですが、平成9年に野村町の圃場整備のため40mほど移転しているとの事です。

その遠藤直経の首塚から姉川側にある 県道37号線沿いには、織田信長が戦闘の際に本陣を置いたとされる「陣杭の柳」があります。

姉川合戦・陣杭の柳

討死した浅井勢では、浅井長政の実弟・浅井政之、浅井政澄、弓削家澄、今村氏直ら多くの武将が戦死したとその名かが見受けられます。
また、朝倉勢でも豪傑で知られた真柄直隆、真柄直澄、真柄隆基らが討死し、午後2時頃に戦闘が終わった時、姉川は血で赤く染まっていたと言います。

姉川の戦いで血に染まったと伝えられる血川の跡地が下記です。

姉川の戦い・血川

当時は、用水路のような小さな流れだったようですので、水量のある姉川が血で染まったと言うよりは、このような小さな流れが血で赤くなったと言うのが誇張された?と考えて良いでしょう。
1985年に完成した野村町の圃場整備により血川は失われています。
まさにこの説明板の下が血川だったそうで、川幅も説明板と同じくらいだったとそうです。

浅井・朝倉勢を蹴散らした織田信長は小谷城へと迫りましたが、織田勢の被害も決して少なくはありませんでした。
そのため、堅固な小谷城を今回落とすのは難しいと考え、横山城の包囲に戻ると、まもなく横山城は降伏しています。
そして、横山城には木下秀吉(豊臣秀吉)が城番として入った訳です。
木下秀吉(豊臣秀吉)は、初めて城を任されたと言うのが、この横山城です。
しかも、対浅井家の最前線です。


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姉川の戦いにて戦闘の際に、徳川家康の本陣として使用したのが、小高い丘である岡山です。
姉川合戦にて徳川家康が勝ったことから、その後は「勝山」と呼ばれるようになりました。

姉川合戦・勝山

現在、勝山には登れませんが、南の麓には、織田信長も戦いの前に戦勝祈願したとされる上坂神社(旧:流岡神社)(上記写真)があります。
勝利のお礼に金灯篭を寄進したと言います。

姉川戦死者の碑

姉川戦死者の碑は、姉川合戦に浅井勢として参加していた新庄直頼の子孫が建立しました。
姉川の野村橋北側にあります。

姉川合戦の血原

上記の血原跡は、朝倉軍と徳川軍が激戦を繰り広げた場所で、多くの戦死者の血で染まったため「ちはら」と呼ばれています。
現在は、無料駐車場と公衆トイレがある公園になっています。
各史跡の場所はページ最後の説明をご確認願います。

姉川古戦場

血原公園は地元では「千人切りの丘」と呼ばれることもあるようで、姉川古戦場の石碑が建立されていました。

三田村氏屋敷跡

その朝倉勢が本陣としたのが三田村城(三田村氏館跡)で、現在は伝正寺となっており、その周囲に残る土塁が往時を偲ばせます。

伝正寺の土塁

三田村氏館跡の土塁

三田村城の土塁

三田村氏屋敷跡がある地区は、かつては西三昧と呼ばれた場所でした。

伝正寺の近くに七十士の墓があります。

七十士の墓

姉川合戦での戦死者を葬ったとされる石塔があちこちにあったのを野村町の圃場整備の際に、上記・七十士の墓にまとめた物となります。
ただし、この石塔群は三田村城主・三田村左衛門の一族の墓との説もあるようです。

姉川の戦い(姉川合戦)における、上記の各写真撮影場所ですが、詳しい地図は下記のページに、観光所要時間なども踏まえて、まとめて掲載させて頂いておりますので、ご確認申し上げます。

姉川合戦場の巡り方・地図・場所と駐車場などのまとめ
竹中重矩~軍師・竹中半兵衛の弟とは?
浅井長政(詳細版)~初陣で3倍の敵兵力に勝利した勇将
朝倉景健 (安居景健)~姉川の戦いでの朝倉勢大将
磯野員昌~織田勢に肉薄した近江の猛将と磯野行尚
坂井政尚 姉川の合戦で先方を務めた織田家の勇将
小谷城の訪問記と小谷城の戦い~浅井家の滅亡・浅井御殿も
人質の黒田長政(松寿丸)を保護した不破矢足と五明稲荷神社
竹中氏陣屋と岩手城~破却を免れた立派な櫓門と水堀がある竹中家先祖伝来の地
琵琶湖東岸の湖北・湖東にある戦国時代史跡スポットを巡る1泊2日の旅

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