六角定頼 楽市楽座や一国一城令など先進的な内政手腕を持つ実質的な天下人

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六角定頼

六角定頼(ろっかく さだより)は、南近江の戦国大名で、六角氏14代当主です。
室町幕府管領代、近江国守護を務めました。
嫡男に織田信長の上洛戦で抵抗を示した六角義賢がいます。
混迷を極める畿内の政局の中で、幕府政治へ大きな影響力を持ち、内政面でも織田信長より先に楽市楽座を実施するなど、先進的な政治手腕を発揮しました。
当時の人から、
・王室の守護者で、武門の棟梁である
・天下を平定し、国の枢要な地位にあった
等と言われ、足利将軍家、細川京兆家に変わり実質的に天下の政治を担っていた人物です。


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明応4年(1495年)に、六角高頼の次男として誕生します。
当時、武家の次男以下の男子はお家騒動の元になるため、幼少時に出家させられることがありました。
六角定頼も例にもれず京都にある相国寺鹿苑院において剃髪。
文亀4年(1504年)に正式に得度し名を光室承亀、号を江月斎と称しました。

兄にあたる六角氏綱が父・六角高頼の跡を継ぎ当主を務めていましたがあまり体が強くありませんでした。
そのため、永正12年(1515年)頃より、家督を代行するようになり、永正15年(1518年)に六角氏綱が死去すると還俗して家督を継ぎました。

中央政界への進出

六角定頼が家督を継いだ当時の京都政界は、山城守護・大内義興の武力を背景に10代将軍・足利義稙を管領・細川高国が補佐して統治されていました。
しかし、大内義興が領国の統治不安を理由に周防山口に帰国。
足利義稙、細川高国の権力を支える武力が大きく減退します。
これをチャンスと捉え、細川高国と家督を争いをして阿波に退いた細川澄元が軍事行動を開始。
京都を制圧する勢いをみせると、細川高国は近江へ撤退します。
足利義稙も近江へ退くかと思いきや、実は細川高国とうまくいっていなかったようであり、近江へ動かずに細川澄元の軍を京都で迎えいれます。
京都から脱出した細川高国は南近江の六角定頼を頼ります。


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細川高国は、六角定頼を中心とする近江勢を味方にし、京都へ反転攻勢。
細川澄元の中心勢力だった摂津勢、三好之長の勢力を駆逐し足利義稙の元に復帰しました(等持院の戦い)。
六角定頼はこの軍事行動に多くの兵力を動員し、勝利の立役者となっています。
以降、細川高国は大内氏の勢力の代替として六角定頼を大いに頼ることになります。
そして、管領ひいては将軍の権力の後ろ盾となる武力を持つ六角定頼は中央政界に大きな影響力を持つようになっていきます。

近江全土へ影響力を拡大

当時、大きな武力を持ちながらも、六角家が有していたのは近江の南半国が中心で、そのなかでもまだ恭順のを示さない勢力もいました。
六角定頼は細川高国との繋がりができたことを利用し、近江の平定にとりかかります。
まずは、被官でありながら事あるごとに反抗の意思を示す伊庭氏、九里氏の攻略です。
九里城は、湖面に面していたため湖からの攻撃に弱いという問題を抱えていました。
六角定頼は、細川高国から船の支援を受けます。
細川高国は大船を兵庫から琵琶湖まで輸送(京都ー近江は陸送)。
六角勢力は弱点である湖面から攻撃が可能となり、九里城は陥落します。
そしてその勢いで、蒲生秀紀も降伏させ大永3年(1523年)、南近江に影響力を増大させます。
大永5年(1525年)には、北近江の京極氏、浅井氏を降伏させ、近江一円に影響力を持つようになります。
中央政界に恩を売りながら、着実に足元を固めることで六角家は力をつけていきます。

細川高国没落~細川晴元へ接近

大永6年(1526年)、安定していたように見えた細川高国政権ですが、従兄の細川尹賢と重臣の香西元盛の間に不和が生じます。
事態はエスカレートし、細川尹賢は香西元盛を謀殺。
これに対し、香西元盛の義兄・波多野稙通(丹波の国人)、実弟の柳本賢治が反発。
細川尹賢への処分が甘かたことに不満をいだき、丹波で反細川高国勢力として挙兵します。
これに、摂津州が加勢。
さらに阿波へ逃れた細川澄賢、三好勝長、三好政長等の阿波勢力が細川澄元の遺児・細川晴元を擁して堺へ上陸しました。
大永7年(1527年)、両勢力は洛中より西方の桂川付近で激突(桂川原の戦い)。
細川高国は敗れ、足利義晴とともに六角定頼を頼り撤退します。


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この時、足利義晴とともに京都からは幕府官僚も退去しており、幕府の政務が機能しない事態になっていました。
そこで細川晴元は、阿波から連れてきていた11代将軍義澄の子である足利義維を奉じて正式な将軍ではありませんが、堺に疑似幕府を創設。
幕府機能を代行して権力を握ることになります。
桂川原の戦いに六角定頼は直接的に関与せず、情勢を鑑み、細川高国へ肩入れしすぎることをあらためるようになります。
足利義晴を迎え入れはしますが、水面下では堺の細川晴元とも連絡を取るようになっていきます。
享禄4年(1531年)、細川高国はいわゆる「大物崩れ」で大敗。
尼崎の広徳寺で自害に追い込まれました。
六角定頼は、細川高国が自害した後も、後ろ盾をなくした足利義晴を保護しています。

京畿にて名声が高まる

細川高国を滅ぼした細川晴元ですが、堺にある疑似幕府も一枚岩というわけではありませんでした。
細川晴元と功労者である三好元長の間に不和が生じます。
細川晴元は、本願寺証如と手を組み一揆の武力で三好元長を滅ぼすことを画策します。
そして一揆の武力を借り三好元長を自害に追い込むことに成功しますが、この一揆勢力が制御不能になります。
畿内のいたるところで武力行使をするようになります。
天文元年(1532年)、これに危機を覚えた細川晴元は、本願寺の一揆(浄土真宗)を抑え込むために比叡山延暦寺(天台宗)、法華宗(日蓮宗)など他の宗教勢力と結託。
さらに六角定頼にも援軍を依頼します。
当時の本願寺の本拠地・山科本願寺は、東から六角勢、西からは山城衆、南からは法華宗門徒に攻め込まれ炎上。
短時間で制圧されました。
この後、本願寺がおとなしくなると今度は法華宗門徒が京都の治安を乱すようになり、他宗派と小競り合いをするようになります。
天文5年(1536年)、これを六角勢を中心とした60,000とも言われる軍勢が鎮圧に向かいます。
法華宗もこれにはかなわず降伏。
法華宗門徒は没落します(天文法華の乱)。
この2度の京都の治安を守る戦いの主力は、六角定頼の兵力でした。
晴元は多くの兵力を持っているわけでもなく、細川高国の残党との戦いを摂津方面で行っていたこともあり、直接武力で関与することがほとんどできなかったようです。
京都の治安を守った六角定頼の名声は高まり、以後、室町幕府の中でも一目置かれるようになります。

幕府の重鎮となる

宗教勢力との戦いの最中の天文元年(1532年)、細川晴元は堺公方の足利義維を見限り、足利義晴と和睦していました。
そして六角定頼の援助を得ながら、2度に渡る宗教勢力との争いをなんとか乗り切ります。
そして天文6年(1537年)、細川晴元、六角定頼の間に婚姻関係が結ばれます。
ここに、12代将軍・足利義晴、細川晴元、これを支える六角定頼という体制ができあがります。
2度の戦いで名声を高め、細川晴元と婚姻を結んだ六角定頼は、幕府内でも影響力を強めていきます。

家臣:「この件、どうすればいいですか」

定頼:「〇〇と将軍から命令を出してもらうのがよいでしょう」

家臣:将軍に伺いを立てる「(・・と六角定頼殿が申していますが)」

将軍:(六角定頼がそのように申すなら)「そのようにしなさい」

このような形で大小の政治判断の多くが六角定頼の元に持ち込まれていました。
「六角定頼の言うとおりに」という形で意思決定が行われ、幕府閣僚の中心となっていたようです。


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また、天文15年(1546年)に行われた足利義藤(足利義輝)の元服においては、六角定頼が烏帽子親となっています。
通常は、将軍となる人物の烏帽子親は管領が務めることになっています。
足利義晴は六角定頼を管領代として元服の儀式を執り行いました。
同時に従四位下になっています。
背景は以下の通り諸説あります。
※そもそも、細川晴元が管領になっていなかった
※細川晴元の権威の否定(細川高国の残党である細川氏綱との戦にかかりきりであり、政務補佐をしないため)

この翌年、足利義晴と細川晴元の間に不和が生じ、武力衝突かとも思われました。
しかし、六角定頼が両者の間に入り仲裁をしています。
将軍家や細川京兆家の当主にまで大きな影響力を持つ六角定頼。
事実上、天下(畿内における政治的影響力の大きさ)を握っていたとされる所以です。

天文21年(1552年)に死去。享年58歳。

先進的な政治手腕

京都政界と絶妙な距離感を保ちながら、その影響力を増していった六角定頼ですが、自国内の統治に関しても先進的な手法を取り入れる大名でした。

■楽市楽座
天文18年(1549年)、六角定頼は晩年にあたるこの時期に居城である観音寺城の城下町に楽市令を出しています。
これが楽市楽座の原型と言われており、織田信長より早い時期に実施しています。


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■城割(一国一城令)
大永3年(1523年)に、家臣団を本拠地である観音寺城に集めるため城割を命じました。
これには謀叛を防いだり、家臣団に大きな武力を持たせない目的があり、江戸時代の一国一城令の基になったとも言われています。

(寄稿)渡辺綱

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