天文法華の乱【解説】宗派による戦国時代とは?

天文法華の乱

天文法華の乱(てんぶんほっけのらん)は、日本で上位を争う戦国時代の宗教戦争として有名です。

これは、日本仏教の総本山とも言われる比叡山(天台宗)京都で勢力拡大して大きな力を持った法華宗(日蓮宗)との争いになります。

戦国時代と言えば、戦国大名を中心とした武将たちが勢力拡大のために戦っていたというイメージがありますが、この時代の寺社勢力も戦国武将と同様に激しい勢力争いをしていました。

この武力衝突によって京都は、応仁の乱以上に建物など燃えた面積が広く、犠牲者も数千~1万ほど出たと言われています。


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この2つの宗教とは、どのような宗派なのでしょうか?
天文法華の乱の前に2つの宗派について解説していきます。

比叡山(天台宗)と法華宗(日蓮宗)

◆比叡山延暦寺(天台宗)とは?
比叡山延暦寺は天台宗の総本山です。
開祖は、最澄(伝教大師)。

比叡山で修業していた最澄が、延暦7年(788年)に一乗止観院(根本中堂)を創建して、本尊の薬師如来を刻まれたのが起源となります。

比叡山は、都(京都)の鬼門と呼ばれる北東に位置しているため「平安京の守護者」と呼ばれ、天台宗は皇室からも尊崇された公認の宗派となったのです。

また、比叡山は日本仏教の母山とも称されています。
ここで親鸞上人、日蓮上人、法然上人などの各宗の祖師が日本仏教を学び、やがて宗派を立ち上げて布教につとめたのでした。

天台宗の教えの根本になっているのは法華経です。
その中でも法華一乗の教えが最良最高の教えであると説いています。

以下の4つは、天台宗の代表的な教えになります。
1.人は皆すべて、仏の子供であると宣言する。
2.悟りに至るまでの方法を全ての人に開放した。
3.仏さまをお迎えして仏とともに生きる
4.一隅を照らす。(自らを輝いた存在とする)

◆法華宗(日蓮宗)とは?
開祖は、日蓮。

1253年(建長5年) 千葉県の清澄寺の山頂でお題目(南無妙法蓮華経)を唱え布教を誓って立教しました。

日蓮は、妙法蓮華経(法華経)を何より大切にして、南無妙法蓮華経の7文字が高徳の全てと考えたのです。

そして、法華経こそが困難な時代を生きる人々を救う尊いお経であると説き続けたのでした。


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例えるなら、法華経以外の経典では一部の人(武士など)は成仏できないが、法華経なら「差別などなく皆平等に成仏できる」ということです。

ですので、法華宗(日蓮宗)は、「南無妙法蓮華経」を繰り返し唱えることで、徳を積むことになり、修業が進んだことになります。

この教えが多くの人々に受け入れられたことで急速に広がっていく事となります。

法華宗(日蓮宗)の勢力拡大

1294年に上洛した日像(にちぞう)によって、京に初めて法華宗(日蓮宗)がもたらされました。

1334年には、後醍醐天皇より日像が宗派の名として法華宗の宗号を賜ったのです。

これにより日蓮宗は法華宗とも呼ばれるようになりました。

それから200年後の1500年の初頭。

日像の撒いた種が見事に実り、京都で法華宗(日蓮宗)が多くの人に信じられるようになり勢力を拡大していくのでした。
この要因の一つが、京の信者の多くが町衆といって裕福な商工業者だったというのもあります。

この勢いに乗る法華宗(日蓮宗)のことを良く思っていないのは、古くから布教活動をしている古来の宗派です。

それを煽るように法華宗(日蓮宗)は、「古来の宗派の教えなど時代遅れで意味がない。日蓮の唱える法華宗(日蓮宗)こそが正しい教えだ!」といった態度で追い打ちをかけていたので、他宗派との対立の溝は深まるばかりでした。

◆1532年(天文元年)
ある噂が京都に流れます。
「京で一揆を起こすために浄土真宗の信者が集合しているらしいぞ!」という噂が瞬く間に蔓延したのです。

そこで、自分達がやられてしまうと危険を察知した法華宗(日蓮宗)側は、浄土真宗の山科本願寺などを放火するという暴挙にでます。

これにより、浄土真宗は摂津の石山本願寺へ本拠地を移すことになったのでした。


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さらに勢いに乗る法華宗(日蓮宗)は、自分たちが自治している領地を勝手に決めただけでなく、地子銭(税金)の支払いも拒否するという自分勝手な行動が目立ち始め始めました。

他の宗派と比較して信者が急激に増加していることもあったので、強気の行動に出ていたのかもしれません。

◆1536年(天文五年)
日蓮宗(法華宗)は、日本仏教の母山とも言われる比叡山・延暦寺にたいして宗教問答を仕掛けたのです。

宗教問答とは、一問一答でやるのではありません。
宗教の教え、内容、主張について宗派の代表者が徹底的に議論するものです。

この問答は「松本問答」と呼ばれ、宗教問答から宗教戦争に発展するキッカケとなった有名な問答です。

この問答での天台宗・延暦寺の代表者は、延暦寺西塔の僧侶・華王房(けおうぼう)。
そして、日蓮宗(法華宗)の代表者は、僧ではなく一般信者の松本久義吉でした。

当初、宗教問答は、延暦寺側が優勢と思われましたが、華王房が松本久吉に論破されて破れてしまったのです。

僧侶が一般信者に負けたのですから、比叡山の面目は丸つぶれです。

天台宗・比叡山の延暦寺といえば、最澄(伝教大師)以来数百年という長い歴史と日本仏教の代表であるという格式(プライド)があります。

それ故、かつて自分たちの所(比叡山)で修業した僧が立教した新興勢力の法華宗に負けたことなど認められるわけにはいきませんでした。

それならば、もう一度問答や学問等で勝負を挑むのかと思いましたが、比叡山は仏に使える者としてあり得ない行動に出たのです。

日蓮宗(法華宗)をよく思っていなかった東寺、神護寺、根来寺東大寺高野山など宗派に関係なく多くの寺に武力蜂起を促したのでした。


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ここまでくると仏の教えや格式など全く関係ありません。

だが、この由々しき事態を重く見た近江の戦国大名の六角定頼が仲裁に入ります。
これで何とか一件落着と思いきや、何と仲裁に入ったはずの六角定頼が延暦寺側についてしまったのです。

これにより、比叡山と法華宗(日蓮宗)の争いを止める者はいなくなりました。

法華宗・二十一本山の炎上

京周辺には、比叡山・六角氏などの連合が5万~15万、対する法華宗(日蓮宗)は2~3万が集合したのです。

数では圧倒的不利ともいえる法華宗(日蓮宗)。
ですが、衝突当初は法華宗(日蓮宗)が奮闘して膠着状態が続いていました。

膠着状態を崩すべく、六角氏の軍隊が京都の市街地に入ります。
そして、無差別に京内の建物に放火したことで戦況が一気に変わり、法華宗(日蓮宗)は、次第に追い込まれていくのです。

この放火によって、下京の全域と上京の約三分の一が焼けてしまい、法華宗の二十一本山も全て炎上してしまいました。

この争いによる犠牲者は数千から一万人ほど出たと言われています。

この争いに負けた法華宗(日蓮宗)は、京都から堺へと落ち延びて、再起を待つことになりました。

室町幕府菅領の細川春元は、この争い以降の約6年間にわたって京内での法華宗の活動を禁じたのです。

やがて、勅許(天皇のゆるし)によって活動の制限を解かれると、争いに絡んで京の大半を焼き討ちにした六角氏が仲介に入り、比叡山と法華宗の和議が結ばれたのでした。

それから35年後に今度は、比叡山が織田信長によって焼き討ちにあってしまうのです。
仏の教えにある因果応報といえるのではないでしょうか。

◆追記・日本の仏教
そもそも日本の仏教は、中国を経て日本に伝わってきた大乗仏教に分類されます。
お釈迦様が亡くなってから100年後、700人の高僧が集まりました。

お釈迦様が亡くなって直ぐに500名の阿羅漢(あらかん)という高僧(聖者)が集まってお釈迦様の教えを纏めましたが、時代とともに色々な考えが出てきたという事で、再び結集して話し合いが開かれたのでした。

話し合いの中心は、お釈迦様の教えを伝えていく過程でお金(お布施)を受け取っても良いかの戒律についての確認でした。

これについて話が纏まらず根本分裂してしまったため仏教が2つに別れることになります。


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1つは、お金を受け取らずにお釈迦様の教えを忠実に守っていこうという保守派の仏教で、インド⇒スリランカ⇒タイへと伝わり上座部仏教(南伝仏教)と言われています。

もう1つは、お釈迦様の教えを説いて多くの人に広げながらお布施も頂いていこうという改革派仏教の大衆部です。これが、中国に伝わり大乗仏教(北伝仏教)となり、やがて日本に伝わってきたのです。

そして、日本でもお釈迦様に教えについて様々な解釈がされ、それを人々に広げていくために色々な宗派に別れていったのです。

(寄稿)まさざね君

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