後醍醐天皇の負けず嫌いな執念と室町幕府や南北朝時代になった背景

後醍醐天皇

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後醍醐天皇(ごだいごてんのう)に関して、なんで隠岐に流されたのか?、なんで鎌倉幕府を倒そうとしたのか?、なんで味方だった足利尊氏が寝返ったのか?、なんで南北朝時代となったのか?など、歴史の背景などできる限り分かりやすく、ご紹介したいと存じます。

後醍醐天皇とは

後醍醐天皇は、鎌倉末期から南北朝初期の天皇ですが、大覚寺統・後宇多天皇の第2皇子でした。
母は談天門院忠子 (参議・藤原忠継の娘)です。

元寇もあったこの鎌倉末期の天皇は、後伏見天皇の「持明院統」と、亀山天皇の「大覚寺統」の2つに分裂した両統迭立(りょうとうてつりつ)となっており、それぞれの家系から交互に天皇を即位させていました。

後醍醐天皇の異母兄である後二条天皇は第94代天皇となっていましたが、1308年に24歳で急死し、持明院統の花園天皇(95代)が12歳で即位します。
当然、若年なので、持明院統の伏見上皇や、兄の後伏見上皇が「院政」を行います。

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院政とは

この「院政」(いんせい)と言うのは、天皇が生きているうちに皇位を後継者に譲って上皇(じょうこう)となり、新たな天皇に代わって政務を代わり行うものです。
すなわち、即位した天皇は名ばかりで、権力は後見となる上皇が握っていたと言う事になります。

そして、この頃は、両統迭立で天皇の在位期間は10年と話し合いで決まっていたことなどから、すぐに次の皇太子が決められています。
この時、大覚寺統の皇位継承は、亡くなった後二条天皇の第一皇子・邦良親王(くによししんのう)でしたが、まだ幼少だったこともあり、第91代・後宇多天皇の第2皇子であった尊治親王(後醍醐天皇)に「中継ぎ」として皇位継承権が巡ってきたと言う事になります。

こうして、1318年、大覚寺統の後醍醐天皇(31歳)が第96代天皇になりました。
しかし、父・後宇多天皇は再び院政を開始し、結局、後醍醐天皇も名ばかりの天皇となります。
更に後醍醐天皇は「中継ぎ」であり、自身の子である護良親王(もりよししんのう)に皇位継承権が無いことにも不満がありました。
そして、天皇継承の承諾をする鎌倉幕府の実権は執権・北条氏でした、鎌倉幕府将軍が、持明院統から出ている事も、好ましく思わなかったようで、鎌倉幕府の倒幕も考えるようになったようです。

1321年に、後醍醐天皇は父・後宇多天皇の院政を停止し、自身による天皇親政を復活させました。

親政とは

「親政」(しんせい)と言うのは、天皇が自ら政治を行う事を指します。

吉田定房、北畠親房らを登用して政治の中心機関「記録所」(きろくしょ)を再興し、政治改革を行いました。
しかし、天皇政治が思うようにいかない根源が、鎌倉幕府にあることを痛感し、日野資朝・日野俊基ら公卿と、討幕計画を進めます。
これが、1324年、鎌倉幕府の京都出先機関「六波羅探題」に知られて露見し、持明院統の量仁親王が鎌倉幕府の指名で次期の天皇に立てられ、後醍醐天皇は窮地に追い込まれました。

元弘の乱

更に、倒幕計画が漏れたことにより、1331年、六波羅探題の軍勢が御所内部にも侵入し、後醍醐天皇は三種の神器を持って「女装」して京都を脱出し、笠置山に入り挙兵します。
後醍醐天皇の皇子・護良親王や、河内の悪党・楠木正成も呼応しましたが、足利尊氏・新田義貞ら鎌倉幕府の軍勢に敗れて後醍醐天皇は捕縛されました。

謀反人となった後醍醐天皇は天皇の座を奪われて、1332年に隠岐島に流罪となります。

しかし、潜伏していた護良親王と楠木正成は再び挙兵し、六波羅探題勢を撃破します。
千早城の楠木正成が、鎌倉幕府の対銀相手に勝利しているとの知らせは日本各地に伝わり、後醍醐天皇も名和長年らの力を借りて隠岐島から脱出しすると、伯耆・船上山にて倒幕の綸旨を天下へ発しました。

これを追討するため鎌倉幕府から派遣された足利尊氏は、丹波にて反旗を翻し、佐々木道誉や赤松則村らと六波羅探題を攻め落として京都を制圧します。
光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇ら持明院統の皇族を捕らえました。

その直後に、上野国で挙兵した新田義貞が、鎌倉幕府に不満を持つ御家人を増やしつつ、小手指ヶ原の戦い、分倍河原の戦いで勝利し、ついに鎌倉を陥落させます。
そして、執権・北条高時ら総計800人余りが自刃し、鎌倉幕府は滅びました。

建武の新政

後醍醐天皇は京都に戻ると、念願であった天皇親政である「建武の新政」(けんむのしんせい)を開始します。

しかし、論功行賞において、鎌倉御家人だった武士らは不遇な扱いを受け、恩賞の不公平が生じます。
足利尊氏に対しては、実力と声望を恐れて新政の中枢から遠ざけ、北畠顕家と義良親王を奥州に派遣して、後方から関東の足利勢を牽制しようとしました。
こうして、足利尊氏の離反が生じ、室町幕府の成立へと結びついていくのです。

1335年、足利尊氏が鎌倉で反旗を翻すと、後醍醐天皇は新田義貞に追討を命じます。
足柄峠付近で「箱根・竹ノ下の戦い」では勝利した足利尊氏でしたが、北畠顕家に駆逐されて九州に落ち延びます。
しかし、赤間関の少弐頼尚や、宗像大社の宗像氏範の支援をた足利勢は、今度は逆に軍勢を京へと向けました。

1336年、新田義貞と楠木正成の軍勢が足利勢を迎え撃ちますが、湊川の戦いで楠木正成が討死して敗北。
後醍醐天皇は比叡山に逃れて抵抗しますが、三種の神器を差し出して、吉野に逃れました。

南北朝時代の始まり

こうして、足利尊氏は、建武式目を制定し持明院統から光明天皇を擁立します。
また、鎌倉幕府の正当な後継者と主張して、1338年には征夷大将軍に任じられると室町幕府を開きました。

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これに対して、後醍醐天皇は、自身が正当な天皇だとして吉野朝廷を開いて「南朝」ができ、足利尊氏の息のかかった「北朝」との「南北朝時代」(なんぼくちょうじだい)56年間が始まった訳です。
持明院統と大覚寺統の対立は、完全な分裂状態となった訳ですが、後醍醐天皇は各地に自らの皇子を派遣して協力を要請しました。
しかし、名和長年、結城親光、千種忠顕、北畠顕家、新田義貞らが討死にし、1339年には後醍醐天皇も崩御しました。

勢力を弱めた南朝・北畠親房は、篭城した常陸・小田城にて南朝の正統性を示す「神皇正統記」を執筆し、関東の武士を味方につけますが、懐良親王、北畠顕能、宗良親王らも亡くなり、1392年に南朝は降伏しています。

なお、明治44年に、南朝の天皇を正統と定めたため、足利尊氏が擁立した光明天皇など、北朝時代の天皇は歴代天皇にはカウントされていません。

ちなみに、父・後醍醐天皇と不和になっていた護良親王(もりよししんのう)は、1335年に足利尊氏を捕縛されており、鎌倉の東光寺に幽閉されていました。
1336年、諏訪頼重による中先代の乱の際に、敵に擁立されるのを警戒され、鎌倉にいた足利尊氏の弟・足利直義の命により、淵辺義博が殺害しています。

山梨県の石船神社に祀られている頭蓋骨は、護良親王のものだと伝わる他、護良親王の子を身籠った雛鶴姫が同じく山梨方面に逃れたと言う伝承もあり、興味深いところです。

護良親王が命を落とした東光寺跡には、現在「鎌倉宮」がありますが、明治天皇の命にて造営された神社となります。

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