赤松則村~不撓不屈の生き様を貫いた播磨の雄①~

赤松則村




その時代の政情・社会情勢によって評価が全く異なる武将は多く存在しますが、本項で紹介する南北朝の武人・赤松則村(あかまつ-のりむら)もまた、そうした武将の一人とも言える人物です。
赤松則村は建治3年(1277年)、村上源氏の血を引く播磨(兵庫県)の武家・赤松氏の3代当主・茂則の子(生母の名は不詳)として生まれました。
法名の円心(えんしん)でも名高い彼には円光と言う弟がおり、この円光は楠木正成の姉を妻としていたと伝えられ、則村は正成の義兄弟とする説があります。


若い頃の則村がどのような人物だったかは良く分かっていませんが、臨済宗の禅僧・雪村友梅と親交が深かったことや、長男の範資と次男の貞範が摂津(兵庫県)の長洲荘に勤務したこと、そして赤松氏が本拠地にしていた佐用荘の領主層の一部に六波羅探題の臣下だった者達がいたことなど、則村もまた六波羅と関連が深い武将だったとする説が存在します。

則村が歴史の表舞台に登場したのは50代半ばを過ぎた頃で、元弘3年(1333年)1月21日に護良親王(大塔宮)からの令旨を受け、赤松氏は討幕軍として挙兵しました。
朝廷、とりわけ護良親王との関連性については、同じ村上源氏であった北畠氏(特に北畠親房は護良親王の縁者)とのつながり、あるいは三男で比叡山延暦寺に入って律師妙善と名乗っていた則祐が、延暦寺の天台座主だった護良親王に仕えていた縁があったとも言われています。

それ以降、則村は子供達や家臣を従えて護良親王配下で転戦していき、初めに幕府に与しようとした一族の高田氏を討ち、備前守護が送り込んで来た討伐軍との戦いを経て摂津の摩耶山に拠ります。
同年2月11日には六波羅が2万の大軍を繰り出すも、地の利と伏兵を用いた野伏戦法で撃退する活躍を見せました。

赤松氏のゲリラ戦はこれに留まらず、3月には雪解け水で増水していた桂川を渡って京都に攻め込むも、蓮華王院の戦いで六波羅探題の強固な抵抗があり、則村は退却を余儀なくされます。
その際、円心入道・則村のものだとして首級が5つも晒された逸話も有名です。
この頃にはすでに入道して『円心』と名乗っていたことが伺えます。


則村が参じた戦いの中でも白眉と言えるのが3月10日に行われた瀬川合戦で、『太平記』によると鎌倉幕府軍の攻撃で一時敗走した則村は、則祐の進言で3,000騎の兵で奇襲を仕掛け、23万もの六波羅勢を打ち負かしたと記されています。
また、それに先立って1万もの六波羅勢を相手取って善戦し、奇襲をかけられても50騎で敵中突破して

生還する至難の業も則村は成し遂げています。

摂津と山城の国境である山崎に攻め込んだ赤松軍は各地に放火しつつ侵攻しますが、新手の兵が投入されたことで則村も死を覚悟したと言います。
しかし、則村は気を取り直すと軍旗に龍を描いて八幡菩薩のお告げとして京都侵攻を宣言しました。
そして、淀川や西国街道を封鎖することで兵糧攻めを採用して戦い続け、後醍醐帝に帰順した足利高氏(のちの尊氏)らと共に5月8日に六波羅を包囲、陥落に追いやったのです。

これらの戦いを見ると気付くのが地方豪族の出身で野伏・民兵を用いた悪党的なゲリラ戦を得意とし、同じく護良親王配下として討幕軍に加わった楠木正成との共通点です。
一方で正成が千早城など山城での防衛戦で幕府を翻弄したのに対し、則村は洛中に討ち入って打撃を与えるなど積極攻勢に出ており、それぞれの得意分野で護良親王を助けていたことが見て取れます。


念願の六波羅攻略と言う大功を挙げた則村は、5月30日に兵庫で帰京の途についた後醍醐帝に謁見を賜り、建武の新政では播磨の守護職を賜りました。
しかし、彼の行く手には不穏な空気が立ち込めていたのです。
それについては、次項で紹介させていただきます。

(寄稿)太田

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