赤松則村~不撓不屈の生き様を貫いた播磨の雄②

赤松則村


~赤松則村~不撓不屈の生き様を貫いた播磨の雄①~の続き

赤松則村護良親王の令旨を受けて配下に加わり、後醍醐帝の悲願であった鎌倉幕府の打倒に成功し、建武の新政(建武中興)の論功行賞で播磨守護を賜り、栄達します。
その様子を歴史書『梅松論』では、楠木正成や名和長年と並んで朝恩を誇って傍若無人であったと記しています。

しかし、程無くして則村は守護職を剥奪され、領土は佐用荘のみになってしまいました。
背景には仕えていた護良親王が後醍醐帝の寵姫・阿野廉子と対立して敗れたことや、播磨国司の地位を拝命していた新田義貞が関連しているとも言われます。
建武元年(1334年)に親王が失脚すると、憤慨した則村は子供達と共に播磨へ帰郷し、建武政権から距離を置きました。


翌年に北条時行が中先代の乱を起こすと則村は範資と貞範を尊氏率いる討伐軍に従軍させ、新政に不満を抱く武士に信頼されていた足利氏に接近します。
建武3年(1336年)に尊氏が蜂起して一時京都を占領するも、敗走して九州へ逃れた時も彼に味方し続け、足利軍を摂津に迎え入れました。

その時の逸話として名高いのが、朝敵の汚名を脱却するために持明院統の光厳上皇から綸旨を賜る献策をしたこと(『梅松論』)、自らも白旗城で義貞率いる6万の大軍を僅か2000人で撃退した武勲です。

この時則村は、書写山中心に第一、城山城中心の第二、そして周囲からの援助が容易な白旗城を第三の防衛戦として布陣し、尊氏を追撃してきた義貞を食い止めます。
その際に彼が用いた計略は同じく悪党的な野伏戦法、心理作戦を得意とした正成に勝るとも劣らないものです。

まず始めに、播磨守護を補任する綸旨を頂戴できるならば寝返ると則村が義貞に乞い、使者が往復10余日で再来するまで時間を稼ぎ、籠城の準備をしました。
『太平記』によるとこの白旗城には水も食べ物も豊富なうえ、近隣から弓の名人が招集されていたと記され、則村の用意周到さが伺えます。


さて、待望していたはずの綸旨がもたらされると則村は以下のような言葉で義貞を嘲笑、綸旨をも拒絶したのです。

「播磨守護は将軍・尊氏公から拝命することに致し申した。
そのような手のひらを返す綸旨など、不要であります」

この言葉を聞いた義貞は激怒して城攻めを敢行し、弟の脇屋義助が千早城の正成に翻弄されて鎌倉幕府が滅亡した前例を引き合いに出して忠告します。
そうした慧眼の士を有しながらも無為な戦いをし、50日余りも足止めされた新田軍は疲弊して徒労に終わったのです。

こうして則村の献策と奮戦は、尊氏に捲土重来する十分な時間を与えただけでなく、湊川の戦いで正成を敗死に追い込み、敗走した義貞と後醍醐帝をも京都から逃亡せしめることで、洛中制圧・室町開府と言う歴史を動かすに足る大成功を導いたのでした。

その比類なき功績で則村が播磨守護、長男の範資が摂津守護に任ぜられ、赤松氏は2ヶ国の守護として栄えることとなります。
一方で暦応元年(南朝の延元3年、1338年)、播磨に拠る義貞の一族である金谷経氏が起こした反乱の鎮圧に6年もの時間を費やしました。

晩年の則村は終始室町幕府と北朝に尽くし、観応の擾乱でも尊氏に味方して南朝・直義方に加担する足利直冬の討伐軍を編成していた観応元年(南朝の正平5年、1350年)に京都七条の私邸で急死し、波乱に満ちた生涯を終えたのでした。享年74歳
家督と播磨守護職は長男の範資が相続しました。

則村を祖とした赤松氏は名門として室町時代を通して栄えますが、近代化以降に南朝正閏の歴史観が浸透するのに伴い、逆賊として扱われた尊氏に味方した則村の評価も低くなっていきます。
しかし、そうした評価が史実・客観性を無視して公平さを欠いている事は、南朝寄りの作品とされる『太平記』の記述を見ても明らかです。
則村は一門を率いて尊皇討幕のために身を捧げた武人であり、その忠義に対する朝廷の背信が彼を背かせた一因となったことは、紛れもない事実として存在しています。


近年になると足利将軍家や北朝皇室の再評価と研究が進み、それに伴って則村に対する評価も好転し、1991年に大河ドラマ『太平記』(渡辺哲さんが則村役)が放送され、北方謙三さんの小説『悪党の裔』で則村が主役になるなど赤松則村は映像・小説化と言ったカルチャーの方面でも脚光を浴びました。

また、則村が活躍した白旗城があった兵庫県赤穂郡上郡町では則村の法名である円心に因んだ駅名『河野原円心駅』をはじめ、キャラクターや名物の名称に起用されるなど人気は高く、その偉業はかつては不撓不屈の精神で鎌倉討幕や南北朝の乱世を生き抜いた彼の生き様のように現代によみがえりつつあります。

(寄稿)太田

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