護良親王の解説【足利尊氏に対抗した生涯】興良親王も

1308年に生まれた護良親王(もりよししんのう、もりながしんのう)は後醍醐天皇の子で、母は源師親の娘・源親子。
妃は北畠親房の娘(また公家・藤原保藤の娘である南方(みなみのかた))とされ、子に興良親王がいます。
護良親王は18歳にして天台宗の座主(ざす)についていましたが、日頃より武芸を好み鍛錬していたと言います。

1331年、不満を募らせた後醍醐天皇鎌倉幕府打倒の「元弘の乱」を起こすと、護良親王は還俗して反対勢力を募り、約2年に渡り足利尊氏鎌倉幕府軍と戦いました。
赤松則祐、村上義光らと十津川、吉野高野山など転戦しました。


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1333年、後醍醐天皇が流刑先の隠岐を脱出して再び蜂起すると、足利尊氏を味方につけたため、護良親王らは京都・六波羅探題を滅ぼしています。
同時期に上野国の御家人・新田義貞を中心とした叛乱軍が鎌倉を制圧し、鎌倉幕府は滅亡しました。

なお、討幕の功労者とされる足利尊氏を牽制する為、護良親王は討幕後も上洛せずに信貴山(奈良県生駒)を拠点としています。

後醍醐天皇が幕府・摂関を廃した建武の新政を開始すると、護良親王は征夷大将軍・兵部卿に就任して上洛。
足利尊氏が鎮守府将軍になったため、北畠親房の子・北畠顕家を陸奥守に任じて、陸奥将軍府を設置し、引き続け牽制しましたが、やがて足利尊氏を暗殺しようとしたため、後醍醐天皇と不和となり征夷大将軍を解任されてしまいます。

そして、1334年冬、足利尊氏の言を受けた後醍醐天皇は、名和長年、結城親光らに護良親王の捕縛を命じ、足利尊氏の鎌倉将軍府に送ると、足利直義(足利尊氏の弟)の監視下に置かれました。
1334年11月15日から当時の東光寺裏山にあった土牢に幽閉されたと言い、その土牢が現在の鎌倉宮の境内に復元されています。約8畳ほどの穴倉です。

護良親王が幽閉された土牢

1335年7月、当時10歳前後と考えられる北条時行(鎌倉幕府第14代執権・北条高時の次男)が、信濃の諏訪頼重、諏訪時継や滋野家に擁立されて挙兵。
7月22日、女影原(埼玉県日高市)で渋川義季・岩松経家ら足利軍を破り、さらに小手指原(埼玉県所沢市)で今川範満、武蔵府中で小山秀朝を破って鎌倉に進撃します。
そして、井出の沢の戦い(町田)にて鎌倉将軍府執権・足利直義(足利尊氏の弟)を破ります。(中先代の乱)

井出の沢の戦い

この時、足利直義は、足利尊氏の子・足利義詮や、後醍醐天皇の皇子・成良親王らを連れて、鎌倉から逃れたのですが、その際に、家臣の淵辺義博に命じて、護良親王を殺害しました。
斬り落された首は両眼をカッと見開き、唇には噛み砕かれた白刃が光っていたと伝わります。
享年28、1335年7月23日の事で、この2日後に北条高時らの北条勢が鎌倉を奪還しました。

足利直義は、将軍・護良親王と、執権・北条時行による鎌倉幕府の復活を恐れたと考えられ、約9ヶ月、狭い土牢の中にいた護良親王は、まともな抵抗もできず、淵辺義博の手に掛かったと言います。

京にいた足利尊氏はすぐに大軍を鎌倉に送り、明確な政治方針など無かった10歳前後の北条時行が鎌倉を占領していたのは、わずか20日間でした。

なお、護良親王の寵妃・雛鶴姫(南の方)は、首を持って津久井方面に逃走し、宿していた子を産んだとする伝承もあります。
この雛鶴姫の話は下記にて詳しくご紹介致しております。

雛鶴姫~後醍醐天皇の第1皇子である護良親王の子を宿すも秋山へ

明治2年2月、非業の最期を遂げた護良親王の遺志を高く称え、永久に伝えることを強く望まれた明治天皇の命を受けて、東光寺跡に神社が造営され、明治天皇自ら「鎌倉宮」と名づけました。
なお、明治天皇は明治6年4月16日に初めて鎌倉宮を行幸し、鎌倉では大塔宮(だいとうのみや)と呼ばれ、親しまれています。


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興良親王

鎌倉を占拠した足利尊氏は、建武政権から離反し、その後、京都を奪われた後醍醐天皇は吉野にて「南朝」を開きます。
護良親王の子である興良親王(おきよししんのう)は、成長すると後醍醐天皇の猶子となって親王宣下を受け、征夷大将軍になっています。

また、南朝勢力の拡大を図った北畠親房は、常陸の小田城主・小田治久の世話を受けると、小田城にて南朝が正統であると言う「神皇正統記」を執筆しました。
この頃、興良親王は常陸・小田城を訪れて、北畠親房に迎え入れられましたが、1341年11月に小田治久が足利家に降伏したため、春日顕時に奉じられて大宝城に移り、1341年春には下野・小山城に入りました。
しかし、11月に関城と大宝城が陥落すると西へと敗走。

1352年頃には但馬・丹波を制覇する活躍も見られ、赤松氏範の支援も受けて、興良親王は南朝の中心的武将として赤松宮と称されています。
しかし、1360年4月25日、赤松宮(興良親王)は赤松氏範と共に南朝に謀反を起こします。
討伐軍に敗れて興良親王は奈良に落ち延びたと言いますが、その後の消息は不明です。

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