北畠親房 神皇正統記を遺した南朝の重鎮

北畠親房

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後醍醐天皇の重臣として南北朝時代を生きた北畠親房(きたばたけ-ちかふさ)は、正応6年(1293年)に北畠師重と藤原隆重の娘の間に生まれました。
親房の系譜上における実父は師重ですが、祖父である北畠師親の養子になっています。

村上源氏の末裔と言う名門に生まれた親房には生後半年で従五位下と言う官爵が与えられ、成長と共に徐々に官位を高めていきました。
14歳になった徳治2年(1307年)には左少弁になりますが、北畠よりも家柄の低い冷泉頼隆が弁官に任ぜられたのを怒り、辞職したと言われます。
親房の激しやすい性格、家柄や秩序を重んじる気質はこの頃から形成されていたようです。


翌年には非参議従三位として公卿の座に就き、その後も順調に出世街道を進んだ親房は応長元年(1311年)には権中納言となり、文保2年(1318年)に後醍醐天皇が即位した時には吉田定房・万里小路宣房と並んで『後の三房』と呼ばれて重用されました。
北畠家はかねてより大覚寺統に忠勤を誓った家でしたが、後醍醐帝からの信頼は格別で、親房は皇子・世良親王の乳人を任せられ、ついには正中2年(1325年)に源氏長者となるなど、位人臣を極めます。

しかし、それから後の親房の人生には暗雲が立ち込め、元徳2年(1330年)に世良親王が薨去した嘆きから出家し、宗玄と名乗っています。
後醍醐帝による討幕には参加しなかったと言われ、その間の動向は不明です。
建武の新政(建武中興)が為された後に親房は政界に復帰、長男の北畠顕家が陸奥守に任ぜられた時には北畠が学者の家である事を理由に辞退するも、後には拝命しています。

建武3年(1336年)の1月にに足利尊氏が武士の不満を吸収する形で蜂起すると、親房は顕家と共に赴任先の奥州から帰還し、尊氏を一時は京都から撃退します。
それ以降両者は敵対関係となり、尊氏が光明天皇を奉じて北朝を興すと、親房は吉野に逃亡した後醍醐帝と合流して南朝軍として抗戦を続けました。

2年後、最愛の長男顕家を堺浦で失う痛手を受けつつも伊勢(三重県)の渡会氏の協力を得たり、結城宗広や宗良親王と言った南朝の重臣を伴って常陸(茨城県)に渡航を試みるも暴風で親王と離散するなど、親房の転戦は続きます。
この転戦期に三種の神器を持つ南朝の正統性を関東に訴えるべく、『神皇正統記』を記したとされます。

親房は南朝の興国4年(1343年)まで5年間、関東で各勢力を糾合しようと活動しましたが、頼っていた小田城主・小田治久が北朝に降る、関白左大臣・近衛経忠が親房排除の動きを見せたりと悪条件が重なり、彼は吉野へ逃げ帰ったのです。
それでも親房は南朝で信頼され、天皇の外戚や母などに与えられる准三宮を賜ります。

正平3年(1348年)には楠木正行が高師直に倒され、旗色が悪くなった親房は南朝と共に賀名生へと落ち延びるも、観応の擾乱を利用して京都と鎌倉を奪い返し、北朝の上皇、皇太子を捕えて尊氏を降すことにも成功します。
しかし、最終的にその和議は破談してしまい、親房は南北朝合一を果たすこと無く正平9年 (1354年) 4月17日に死去したのです。
享年62歳、賀名生の地に葬られました。

後世、南朝正閏が唱えられると親房は称えられますが、彼自身は天皇専制を貫く後醍醐帝の方針には批判的でした。
一方で武家政権に対しても軽視し、後醍醐帝から一字を賜った尊氏を“高氏”と貶め、武家の事情(出陣費用が自費)を理解せず、“武士は数代の朝敵”“恩賞目当ての卑しい輩”と『神皇正統記』で糾弾したのはその好例と言えます。
赤松円心や楠木正成など武士を率いる豪族がないがしろにされた建武政権でしたが、その重鎮である親房もその域を出なかったのです。

そうした価値観に加え、親房の唱えた万世一系の皇室を頂く歴史観は、皇国史観に結びついて軍国主義を台頭させた一因と見做されます。
しかし、戦後になって皇国史観のくびきが無くなると、親房ら神格化された人々への研究は、かえって戦前よりも促進されたのです。


南北朝時代を扱った諸作品における親房は皇国史観に潤色された聖人君子としてのイメージを払拭され、大河ドラマ『太平記』では知略と正義感を兼ね備えた親房役を近藤正臣さんが演じました。
また、近年では小田城滞在中に執筆した『神皇正統記』が昭和50年には教育社、平成27年に新人物文庫から発行され、ミネルヴァ書房、山川出版社などから伝記が出されるなど、博覧強記の大学者にして行動する公卿でもあった親房の姿が、徐々に明らかになりつつあります。

(寄稿)太田

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