大楠公「楠木正成」の知謀を探る~日本史上に残る知将の戦いとその魔術とは

楠木正成

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楠木正成(くすのきーまさしげ)の生誕についての詳細は、はっきりしておらず鎌倉時代の末期、1294年(永仁2年)頃とされ、生い立ちも諸説ある。
南北朝時代の後醍醐天皇即位、鎌倉幕府滅亡から建武の新政や、その崩壊と南北朝分裂などを描いた、全40巻からなる日本の古典歴史文学作品「太平記」によれば、大阪河内の土豪として描かれている。
その他にも、御家人(得宗被官)として、鎌倉幕府の執権である北条氏に仕えていたという説や、正成の系譜関係が悪党的であるとされ、非御家人とみなされていたという説もあるなど、そのほとんどが定かではなく、日本史の表舞台に楠木正成が本格的に登場してくるのが後醍醐天皇による、鎌倉幕府倒幕の計画に参加し、挙兵する1331年ー元弘元年ーの元弘の乱(元弘の変)からである。

日本の歴史において、数々の英雄とされる人物が存在するが、楠木正成は和気清麻呂と共に日本歴史上、二大英雄として皇居には二人の銅像が置かれており、また、功績を称えられ「大楠公ーだいなんこうー」の称号と、1880年に「正一位」という、神階の最高位が贈られる。

知将として知られている楠木正成が、腐敗した鎌倉幕府の倒幕を計画した、醍醐天皇の挙兵に参加し、湊川の戦いにおいて最期を迎えるまでの、知略を駆使した戦い、そしてその人物像に迫ってみたい。

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河内、赤坂城にて挙兵した正成

元弘元年9月、北条高時の差し向けた幕府軍数十万(「太平記」では30万)に対し、赤坂城にて挙兵した正成軍の兵は僅か500。
しかもその兵の大半は本来の武士ではなく、農民などの民衆が武装した地侍で編制されたもので、それらを率いて籠城戦に持ち込んだ正成は知謀を用い、策略をめぐらせ、当初は油断していたとはいえ、圧倒的兵力で攻めてくる幕府軍を翻弄し、一時退却にまで追い込む。

その後、籠城戦法からの奇襲戦を仕掛ける正成軍に対し、幕府軍は山城である赤坂城を取り巻き、兵糧攻めによる瓦解を狙った戦法にでるのだった。
これにより正成軍は20日で兵糧も尽き、なすすべもない状況に陥ってしまう。そこへ、笠置山に立て籠もっていたいた、主君である後醍醐天皇が幕府に捕らえられるという知らせが正成のもとに届く。

決断に迫られる正成は、赤坂城の放棄と撤退を行うのだが、大軍に包囲されているこの状況で撤退することは容易なことではない。
しかし、ここでまさに正成の魔術ともいえる知略が発揮される。

正成の降伏か自害か或いは討ち死にか、幕府軍が見守る赤坂城からついに火の手が上がり、幕府軍は炎上する赤坂城を見て正成軍は自刃したと考え、城を奪うことに成功したのだが、焼け跡から見つかった数十体の遺体からは、楠木正成と断定できる状態のものを見付けることが出来なかった。
つまり、どれが正成の死体か分からず、幕府軍はこの中の一体が正成のものであると思い込んでしまったということである。

これは正成による陽動作戦といえるものであり、これまでに戦死していた兵の死体を予め焼け跡から発見されるように準備しておき、幕府軍の注意が炎上している赤坂城に向けられている最中に撤退し、落ち延びることに成功したのだった。

楠木正成と宇都宮公綱の戦い

赤坂城の戦いの後、しばらく沈黙を守っていた正成は、元弘2年4月、赤坂城を襲撃し奪還に成功する。
幕府により赤坂城に配置されていた、湯浅宗藤を降伏させた正成は湯浅氏を楠木勢に引き入れ、その勢いで一気に和泉と河内を攻め落とし、摂津の天王寺を占拠するに至り、ついに京へ迫ることになる。

この事態に対し、幕府の治安維持のため設置されていた六波羅探題は宇都宮公綱に正成軍の討伐を命じ、宇都宮軍は500~700程度の軍勢で正成のいる天王寺に布陣する。
正成の軍勢は2000であり、敵の兵力が500程度だとして和田孫三郎をはじめとする正成軍の幕僚は大将の正成に、勢いに乗じて戦うことを進言するが、正成は『良将ハ戦ズシテ勝ツ』と言い放ち何故か全軍を天王寺から撤退させてしまう。

戦わずして勝とはいったいどういうことなのか?

またしても正成の魔術が発揮されることとなる。

正成軍の撤退により、容易に天王寺を占拠することができた宇都宮軍であったが、夜になり衝撃の光景を目の当たりにすることになる。
天王寺一帯取り巻く山々に数万にも及ぶかがり火が焚かれており、それを見た宇都宮軍は、正成の何万もの軍勢が攻めてくるという極度の緊張感に苛まれ、これが三日三晩にも及び、四日後にはついに宇都宮軍は天王寺からの撤退を余儀なくされるのだった。

だが宇都宮軍に数万の大軍だと思わせたかがり火は、正成が生み出した幻の大軍だったのである。

次々に制圧していった和泉や河内といった地域の、幕府に対し不満を募らせていた民衆を従えていった正成は、数千もの民衆の協力を得て、天王寺を取り囲む山で数万もの松明に火を灯し、宇都宮軍に数万もの大軍に包囲されているという恐怖の幻影を見せつけていたのである。

そして正成は、幕府軍最強と云われた宇都宮公綱に、一戦も交えることなく、また一滴の血も流すことなく勝利し、再び天王寺を奪取することに成功するのだった。

千早城の戦いから倒幕へ

相次ぐ敗戦から業を煮やした幕府はついに、元弘3年2月、数万から10数万にも上る正成追討軍を編制して、楠木正成の討伐に差し向けるのであった。

正成軍の兵力は1000余であり、戦力の差は明らかである。
この圧倒的大軍の幕府軍に対し正成は、またしても千早城での籠城戦法に持ち込むのであった。
というよりも、いかに知将楠木正成であっても、まともに相対しては勝負になるはずもなく、山城という地形を利用しての籠城戦を決行する以外には万が一の勝機はなかったであろう。

この戦いにおいても、大岩の投石や、わざと引き付けてからの弓矢の一斉射撃や火計といった、奇策を用いた数々の正成による作戦により、圧倒的に数に勝る幕府軍ではあるが千早城を陥落させることはできないばかりか、突撃の度に逆に返り討ちに遭ったりと大勢の戦死者を出す羽目に陥ってしまう。

正成の知謀の前に攻めあぐねることとなった幕府軍は、赤坂城での戦い同様、兵糧攻めを敢行し、正成軍が飢え降伏してくるのを待つ戦法に出るのだが、これもた功を奏することにはならず、正成と連携を取っていた民衆や野伏によって正成軍は飢えることもなく、反対に幕府軍が補給線を断たれ、やがて飢えに苦しむという現象が起こってしまうのだった。

正成は予てから農民、野伏、山伏といった武装した民衆との独自のネットワークを形成し、幕府軍の包囲網から山道や間道などを利用した情報の入手と兵糧の補給、また幕府の補給部隊を襲撃させるといった連携を行い、ついには僅かな兵で数万もの幕府軍を退却させることに成功するのである。

この知らせは瞬く間に全国に轟き、幕府の権威は失墜することとなり、各地で幕府打倒が叫ばれる事態を引き起こす。
幕府内部からの反乱、そして、足利高氏(後の尊氏)や新田義貞などの武将が挙兵したことにより鎌倉幕府は瓦解し、滅亡へと至るのであった。

建武の新政そして湊川の戦いへ

元弘3年(正慶2年)6月、後醍醐天皇は京へ凱旋し政権を奪還、王政復古が実現すると、世に云う「建武の新政(建武の中興)」が行われることとなり、後醍醐天皇と光厳天皇に重複していた元号も建武に定められる。

しかしながら、建武の新政を行った後醍醐天皇が統治する時代も、人々を不満から解放し、世を泰平に導くものではなく、やがて後醍醐天皇に反旗を翻した足利尊氏と天皇から勅命をうけた楠木正成は雌雄を決する宿命となる。

建武2年、離反した足利尊氏追討の命が新田義貞に下り、箱根竹ノ下の戦いを経て、京へ迫っていた尊氏軍であったが、そこへ正成と北畠顕家が義貞軍に合流し、ここでは尊氏軍を撃退し、尊氏は九州へ逃れ一時は朝廷軍の勝利となる。
だがこの際、朝廷軍から多くの将兵が尊氏に随行すこととなる。

勝利を収めたとはいえ、正成は尊氏の能力もさることながら、その人望と徳といったものを高く評価するとともに、朝廷にとって脅威的な存在であることを見抜いており、尊氏との和睦の提案を帝に奏上する。
ところが、正成のこの忠言は、天皇や公家たちから一笑に付され容認されることはなかった。
しかも勝利した立場にありながら、朝敵である足利尊氏との和睦を進言したことによる朝廷からの不信を買うことにもなった。

一方、体制を立て直し、着々と力を蓄えていった尊氏は、建武3年、多々良浜の戦いにおいて九州制覇を果たし、各地の、朝廷に不満を持つ勢力や民衆を引き入れた巨大戦力を従え、再び倒幕のため京へ進軍する。
その数は優に10万を超えていたのだった。

これに対し、勅命を受け迎え撃つは新田義貞軍であったが、力の差は歴然であり、天皇のもとに義貞軍退却の報が知らされると、すぐさま正成に尊氏軍を迎え撃てとの命が下る。
この命を受けた正成は、すでに小勢となった朝廷軍で大軍である尊氏軍とまともに戦っても勝ち目はなく、帝は比叡山に御身を潜めて頂き、その間に義貞軍と共に京で尊氏軍を前後から挟み、兵糧攻めによって疲弊するのを待ったうえで集まって来た味方の軍と協力して攻め入れば、敵軍を一掃することが可能であるという種の進言をした。

だが、後醍醐天皇はまたしても正成の進言を退け、公卿である坊門清忠の、これまでも少数の軍勢で大軍に勝利してきたのは、聖運が天に通じておるかだとし、帝が都を離れるのは帝位を軽んずることだという進言を聞き入れ、正成は尊氏との決戦に身を投じることになるのだった。

そして、楠木正成、新田義貞の連合軍と足利尊氏軍は湊川にて対峙することとなった。

尊氏軍数万に対し、700余の正成軍はひるむことなく突撃を繰り返したが、多勢に無勢の戦いは数時間後には無力となるまでにその数を減らし、正成ら残った僅かな者たちは、湊川付近の民家に身を寄せ、皆で刺し違えて果てるのだった。

下記は伊丹城近くの本泉寺にある楠公一族の墓。

楠公一族の墓

3基並んでおり、中央は「前三国守楠公の墓」(楠木正成)、右は「従四位上小楠公の墓」(楠木正行)、左は「楠正貞墓」(楠木正貞?)と刻まれている。

七生報国

楠木正成を象徴する言葉に「七生報国」というものがある。これは七度生まれ変わり国に忠義を尽くし、国の恩に報いるということで、湊川で自害した正成と弟である正季は最期にこの言葉を残したと云われている。

たとえ、この身は滅ぶとも魂は七度生まれ変わって国のために戦い、報いることが己の定めだという、朝廷と天皇に報いてきた、正成に相応しい言葉であろう。

非理法権天

楠木正成が旗印として記した語で、非は理に及ばず、理は法に及ばず、法は権に及ばず、権は天に及ばずといった意味で、国は天子(天皇)によって成り立っているものであり、人々は天に背くことは許されなということを表している。

この国に忠義を示す精神で統一されていたことが、正成軍の、大軍とはいえ命令によって動いているだけの烏合の衆ともいえる軍に、少数の兵力で勝利できた理由だったのかもしれない。


湊川の戦い後の楠木正成

六条河原で梟首された正成の首は、尊氏によって故郷である大阪、河内に戻されることとなる。
そしてその首塚は大阪河内の観心寺にあり、民衆を想い、国に報いてきた稀代の英雄、そして日本史にその名を残す知将、楠木正成の魂は、この地でいつまでもこの国を護るために戦い続けているに違いない。

また、正成の知謀と魔術も、日本に生きる人々の心に語り継がれていくことだろう。

(寄稿)探偵N

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  • コメント (1)

    • 地縫又害
    • 2018年 4月 16日

    楠木正成楠木正成

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