坊門清忠~大楠公・正成を死に追いやった不人気者の実像に迫る~

坊門清忠


坊門清忠(ぼうもん-きよただ)と聞いて多くの人が想像するのは、足利尊氏の大軍を迎え撃つ案を出した楠木正成を退け、戦死に追いやった悪役としてのイメージが多いことと思います。
しかし、逆を言えば『太平記』に記された正成との対立以外のエピソードは余り知られていません。
そこで今回は、文学作品における悪役のイメージを取り払い、歴史上の人物としての坊門清忠の生涯について追っていきたいと思います。

清忠は後醍醐天皇の重臣でありながら若い頃の動向は不明で、後述する享年56歳説を採用すれば、弘安6年(1283年)生まれで、同じく南朝の重臣・北畠親房より10歳上となります。
なお、坊門家は藤原道隆の血を引く名門として知られていましたが、承久の乱に加担して罰せられて以降、三位以上の官位(公卿)に登れず冷遇された家系とも言われています。

彼が記録に登場するのは嘉元3年(1305年)で、亀山法皇が崩じた折に哀傷歌(人の死を悼む歌)を、後の後醍醐帝である尊治親王と共に献じています。
正中元年(1324年)に忠清は右中弁・正四位下に任ぜられ、年を追うごとに数々の役職を歴任し、嘉暦2年(1327年)には従三位を賜り、代々の悲願でもあった公卿就任と言う快挙を成し遂げました。

翌年には参議と左京大夫を兼ねた官位を賜っていますが、元徳3年(1331年)に後醍醐帝が倒幕に失敗した後、忠清は参議を辞職しています。
彼は天皇の側近という高位にありながら直接倒幕に関わっていなかったらしく、笠置へ行ったり幕府からの処罰を受けた形跡は見られません。



それから3年後の建武元年(1334年)、後醍醐天皇を中心とした建武政権が誕生すると、雌伏していた忠清にも日の目を見るときが来ます。
彼は信濃権守と大蔵卿を兼任、かつ雑訴決断所の二番衆で東海道を受け持つ重職に就き、従二位に昇格して才覚を発揮しました。

そうした多忙な中でも後醍醐帝の側近・顧問的な地位であった忠清は、天皇の使者となって護良親王(大塔宮)を説得するなど重用されていたと言います。
このようにして建武政権下で活躍していた忠清の運命に陰りが見えたのが、建武3年(1336年)の5月に九州から反攻してきた尊氏との戦いでした。

尊氏迎撃を命じられた正成は先述した兵糧攻めによる奇策を提案し、公家衆にも武人に戦いを一任しようとする空気が漂い始めた時、忠清は異を唱えたのです。
それが、『太平記』でも有名な、以下の発言です。

「正成殿のお言葉はもっともでござろう。しかし官軍が一戦もせずに帝都を捨て、天子を年に二度も亡命させるとは、陛下の御威光を損ない、官軍の面目を失墜させることではありませんか」

この“大義名分”を盛り込んだ言葉こそ忠清が批判される一因とされていますが、官軍のアイデンティティは都を保持することであり、天皇を奉じてその権威を守ることで成立することが多くありました。
後世の戦国時代、明治維新を見ればそれは明白なことです。

無論、その後に忠清が述べた、“武士のおかげではなく天皇の徳で勝利した”“戦えば天皇の軍が必ず勝利する”と述べて正成を軽んじ、出征を促したことは合理性を欠いたと言われても致し方ありません。
しかし、『梅松論』でも尊氏に譲歩して和睦する献策をした正成が嘲笑された記録があり、大義名分を唱えた忠清のみが格別に非常識というわけでもなく、朝廷全体の風潮であったとも言えます。

しかし、結果として正成は湊川の戦で敗死してしまい、後醍醐帝と新田義貞は都落ちする羽目になり、忠清の案は裏目に出てしまいます。
それでも忠清が朝廷と天皇の信頼を失うことはなく、建武4年(北朝の延元2年、1337年)には忠清は吉野朝廷でも重臣として後醍醐帝に仕え続けました。

その翌年の3月21日、忠清は吉野で生涯を閉じます。
後世、正成を忠臣・大楠公として称賛した『大日本史』で糾弾された他にも、昭和期に軍部が独立する理由として武将(軍人)である正成を妨害した悪人として彼の逸話をあげるくらいに坊門忠清は批判の対象となりました。


しかし、先述した政治力だけでなく、『続千載和歌集』などに和歌が収録されるほどの文才を持った忠清は、後醍醐帝にとっては信頼するに値する臣下でもあったことを示す御製があるので、それを紹介して終わらせて頂きます。
これは忠清と、彼に先立つ形で他界した天皇の乳父・吉田定房の死を悼んだ歌です。

「こととはむ 人さへまれに 成にけり 
       我が世のすゑの 程ぞしらるる」

(相談する相手さえまれになってしまった。私の人生も、先が見えてきたようだなあ)

(寄稿)太田

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  • コメント (2)

    • いくさびと
    • 2019年 1月 13日

    「天皇が率いる軍が必ず勝つ=正しい」というのは、現代日本でも強固なアイデンティティになっていると考えます。ただ、現実は酷なもの。建武の新政は完全に民心から拒絶され、戦局面でも足利尊氏の進撃によるじり貧が続いていた局面、坊門はじめ後醍醐帝の側近がどれだけ現実をみすえていたのでしょうか。後年の小田原城攻めにおける北条氏政、大坂の陣における淀殿との重複するような「我々が負けるわけはない」というエビデンスの希薄な精神論で切り抜けるほど、戦とは甘いものではないのだなあ、と思います。

    • 太田
    • 2019年 1月 30日

    @いくさびと

    いくさびと様、コメントありがとうございます。返信が遅れまして、深くお詫び申し上げます。仰せの通り、『天皇が率いる軍隊=官軍=正義の軍』とする価値観は今でも根強く、誰もがそうした大義名分を振りかざす『坊門清忠』や『北条氏政』『淀殿』になり得ると思います。

    しかし、そんな彼を忌み嫌ったはずの大日本帝国軍とその支持者達は大東亜戦争において『天皇の軍は正義であり不敗である』と言い立てて暴走、楠木正成が泣いて訴えたように和睦を考えた人々の案も踏みにじられるなど、前車の轍を踏む暴挙に出ているのは近代史を見れば明らかです。

    自分を糾弾した者達がかつての建武政権と同じかそれ以上のトラブルを引き起こす、そう簡単に進歩しない人間のありさまを見て、坊門氏もあの世で嘆息しているのかもしれませんね。


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