太平記【わかりやすく解説】硬派な軍記物語?怨霊が登場するファンタジー?

太平記

太平記とは

『太平記』(たいへいき)は、南北朝時代の動乱を描く軍記物語です。
足利尊氏をはじめ、楠木正成新田義貞後醍醐天皇佐々木道誉高師直足利直義護良親王赤松則村北畠顕家など魅力的な人物が登場し、敵味方が激しく入れ替わりながらストーリーが展開されます。
現在、書籍や各種メディアで取り上げられる太平記は、
鎌倉幕府執権:北条氏の悪政
鎌倉幕府に反抗する後醍醐天皇を中心とした勢力の蜂起
・鎌倉幕府の滅亡、建武の親政開始
・建武の親政への反抗
・足利尊氏が幕府を開く(南北朝時代始まる)
・足利尊氏の死
のように、後醍醐天皇と足利尊氏の物語として語られることが一般的です。しかし、実際の『太平記』は上記とはまた違った一面も持っています。そもそも『太平記』は、いつ、誰が、何のために書いたのか?あれだけの乱世を描いてなぜタイトルに「太平」がつくのか?(戦乱記の方がふさわしい?)今回は軍記物語『太平記』について解説していきます。


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<いつ頃成立して、誰が書いたのか?>

はっきりとした成立時期や正確な作者はわかっていませんが、複数の人物が長期間に渡って編纂に携わったと考えられています。
編纂者と言われている著名な人物は、以下の3名です。
鎌倉時代後期から南北朝時代に活躍した天台宗の円観
・後醍醐天皇や室町幕府と密接な関係があった玄恵
・小島法師
諸説ありますが、暦応元年(1338年)~康永4年(1345年)頃、『太平記』全40巻のうちの21巻あたりまでが成立していたと言われています。編纂に関わったのは、円観、玄恵など室町幕府との密接な関わりを持つ知識人でした。その後、3代将軍・足利義満やその当時の管領・細川頼之も編纂に参加して書きつがれ、1370年(建徳元年)頃に現在の形になったと考えられています。この過程の中で在野の教養人(物語僧)が参加。小島法師(南朝側の児島高徳という説がある)もその中の一人だったと言われています。

<戦乱を描く物語のタイトルがなぜ「太平」?>

敵味方が節操なく入れ替わるのが、鎌倉時代末期~南北時代の特徴です。
・後醍醐天皇に足利尊氏が協力して北条氏を倒す(鎌倉幕府の滅亡)
・足利尊氏が後醍醐天皇の新政府に反抗する
・足利尊氏をトップとする幕府をつくる
・幕府内で権力争い。弟の足利直義対立、殺害。
・息子の足利直冬と全面戦争
このような戦乱が続いた時代の記録に「太平」をタイトルに持ってくるのはなぜなのでしょうか?先に少し触れましたが、太平記の編纂に関わっているのは、勝者である室町幕府側の人たちです。この時代、怨霊、祟りは深く信じられていました。室町幕府側は、敗者の側が怨霊となり勝者に仇をなすことを恐れたのです。そこで、後醍醐天皇をはじめとした南朝に関わる人の怨霊を鎮魂し、平和を願うという意味を込めて「太平」がタイトルにもってこられたと考えられています。円観ら、僧に太平記を編纂させたこと自体、怨霊を鎮める宗教活動との見方もあります。

上記のように鎮魂が目的とされているので、一貫して南朝贔屓の姿勢で書かれています。一方で、勝者の紡いだ記録でもあるので、軍記物語の形をとりながらも幕府の支配を合理化・正当化するための政治的意味も含んでいるといわれています。


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<物語の構成は?>

太平記に描かれているのは、後醍醐天皇が即位した文保2年(1318年)から、鎌倉幕府の倒幕、建武の新政、観応の擾乱、2代将軍・足利義詮の死去と細川頼之の管領就任(室町幕府の安定)までとなっています内容の構成は以下の通りです。全40巻が3部構成になっており、22巻が欠巻(北朝・室町幕府に不都合なことが書かれていた?)となっています。

・第1部(巻一~巻十一)
後醍醐天皇の即位、鎌倉幕府執権:北条高時の悪政、楠木正成、足利尊氏、新田義貞らを味方に引き入れた醍醐天皇の討幕、建武政権の確立

・第2部 (巻十二~巻二十一)
建武の親政の失敗、足利尊氏の謀反、南朝の樹立、楠木正成・新田義貞の戦死、後醍醐天皇の崩御

・第3部 (巻二十三~巻四十)
南朝方の怨霊の跋扈、観応の擾乱に代表される足利幕府中枢の混乱、細川頼之の管領就任(足利義詮の死、足利義満の登場)


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<日本を代表する怨霊たちが登場する?>

現在、各種メディアになっている太平記は、あくまで硬派な歴史物語ですが上記で触れた通り、40巻あるうちの半分に近い第3部ではたくさん怨霊がでてきて室町幕府に関わりのある人たちを苦しめます。怨霊が現世の人を苦しめる描写を物語に盛り込むことで、鎮魂になると考えられていたようです。第3部の怨霊の活躍(鎮魂のための)を少しご紹介いたします。

・大森盛長(大森彦七)が楠木正成の怨霊と遭遇(巻二十三)

暦応5年(1342年)、湊川合戦で足利方として楠木正成を敗死させた大森彦七は、大太刀を持っていた。「この大太刀があれば足利氏が滅ぼせる」ということで怨霊となった後醍醐天皇がこれも怨霊の楠木正成に「奪ってこい」と命令。楠木正成は、鬼女に化けて大森彦七が持っている大太刀を奪いにやってきます。大森彦七は禅僧から得た「怨霊には大般若経を読むのが効果的」という助言に従い、自身の縁者の禅僧に大般若経を読んでもらいます。すると楠木正成の怨霊は鎮まったと言われています。後醍醐天皇、楠木正成の他にも、大塔宮護良親王、新田義貞らも怨霊となっています。

・後醍醐天皇の怨霊が京都に現れ、疫病を広めた

後醍醐天皇が吉野で崩御すると、その怨霊が不穏な出来事を起こしたと言われています。京都では疫病が流行り、足利直義が病に倒れます。光厳上皇が石清水八幡宮に御願書を遣わして、直義は回復し事なきを得ています。

・愛宕で日本を代表する怨霊たちが国家転覆の会議を行う

出羽国:羽黒の山伏である雲景が、愛宕山の大天狗・太郎坊に誘われて、国家転覆の会議に出くわすことになります。この会議に参加していたのが淳仁天皇、崇徳院、後鳥羽院、後醍醐天皇。政争に巻き込まれ、恨みを抱いたまま死んでいったであろうと考えられる歴代の天皇、上皇たちでした。

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<まとめ>

軍記物語『太平記』は鎮魂、室町幕府の正当性を証明する、など様々な側面をもっています。一方で、中世には初等学問の教科書のような役割も持っていました。戦国時代の武将は兵法書として、同時代のキリスト教宣教師は、日本の文化・歴史を理解するテキストとして重宝したとも言われています。江戸時代に至り、太平記の兵法書としての集大成『太平記評判秘伝理尽鈔』も執筆され、江戸期に至るまでの武士にとって不可欠な兵法書となりました。もちろん文学としても、後世へ大きな影響を残す軍記物語でありました。

(寄稿)渡辺綱

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