児島高徳の解説~実は太平記の作者?未だに謎多き南北朝の武士

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児島高徳

児島高徳とは

幕末から戦中にかけて楠木正成新田義貞などと共に、尊王倒幕の英雄とされた児島高徳(こじま‐たかのり)は、備前国児島郡(岡山県)の豪族・児島氏の三男として、鎌倉時代末期に生まれました。
著名な武将でありながら高徳の出自は不詳な点が多く・・・

後鳥羽上皇の子孫に当たる頼宴(らいえん)と、和田範長の娘である信夫(しのぶ)の子
・宇多天皇の子孫・和田範長の息子
・古代日本に帰化した新羅の皇子・天日槍命(あめのひぼこ)の末裔

などの諸説が存在します。対して兄弟や妻子の記録は明確で、宴深と範重と言う兄と妹がおり、正室の貞子(河野氏出身)との間に高秀・高久・高範の三兄弟を儲けていたと言われています。


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このように、高い知名度に反して不明点の多い児島高徳の事績が記されているのは、物語としての要素が強い太平記と、一部の伝承・記録だけであるため、本稿では太平記の記述を主として述べていきます。

十字の詩を木に彫る

高丸と言う幼名を改め、15歳ないしは17歳で元服して児島三郎高徳と名乗った高徳が歴史上に姿を現すのは元弘2年(1332年)のことです。討幕計画が失敗して隠岐に流された後醍醐天皇を道中で救おうとしていた高徳は、作戦失敗と幕府軍の厳重な警備の厳しさに救出を断念します。

無念の退却を余儀なくされた高徳が天皇に贈ったのが、白桜十字詩で有名な桜の木に書き付けた漢詩です。
“天莫空勾践。時非無范蠡”
(天は古代中国の帝王である勾践を見捨てなかったように、きっと陛下を見捨てられる事はありません。勾践を救い出した范蠡のような忠臣が現れ、貴方をお助け申し上げる事でしょう)

その思いが天に通じたのか、翌年に隠岐から逃れた後醍醐帝は伯耆国船上山(鳥取県)で挙兵、天皇の味方として第三皇子の護良親王はじめ赤松則村、楠木正成など各地の英雄が反幕府の活動を再開したのです。
児島高徳も実父ないしは義父の範長と共に鎌倉幕府が差し向けた討伐軍を撃退して功績をあげますが、論功行賞に彼の名は無かったと言います。

更に後醍醐帝と通じていた足利尊氏が鎌倉幕府軍から寝返り、京都の六波羅探題を攻めた時に高徳は総大将の千種忠顕と作戦上の問題で対立し、怒った彼はこれと言った戦功を得られずに児島へ帰りました。なお、高徳の功績は建武の新政でようやく認められたらしく、
鳥取荘(岡山県)を賜っています。

建武2年(1335年)、建武の新政で追い込まれた武士達が尊氏を総大将として仰いで謀反を起こすと、高徳は建武政権側に味方して郷里・領国の近隣である備中の反乱鎮圧のために出陣しました。
しかし、この戦いで配下の離反や拠点の三石城を奪われた事で多くの一族を失い、翌年の戦役では義貞と共に赤松氏を攻めるも惨敗を喫し、高徳本人も父を失う悲劇を味わいます。

それから程なくして京都の北朝と吉野南朝が鼎立し、高徳は宗良親王を奉じる義貞と共に北陸へ赴き、彼のために比叡山へ応援を求める書状を起草したり、京都で尊氏を襲う計画を練るなど、南朝のために闘うものの芳しい成果は上がらず、かつてのような活躍は見られなくなります。

『太平記』によると、南朝の正平7年(1352年)に後村上天皇を奉じて上洛を試みた児島三郎入道志純と言う人物がいますが、彼こそが出家した高徳と言われています。
『太平記』の作者で南朝の文中3年(1374年)に死亡した小島法師が高徳と同一人物とする説もあれば、一説には長慶天皇の代まで生きて南朝の弘和2年から3年(1282年~1283年)に死去したとも言われていますが、詳しくは分かっていません。

後世に受容された児島高徳

冒頭で述べたように南朝正閏の気運が高まった幕末から明治にかけて、高徳は天皇の忠臣として称賛され、明治16年には正四位、明治36年には従三位を贈られたのを始めとして文部省唱歌や2円紙幣の題材になるなど、その人気は爆発的に高まります。一方で
具体的な活躍が『太平記』にしか見られないとして歴史家の重野安繹氏による実在否定説が出され、論争を巻き起こしたこともありました。


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終戦と共に南朝を絶対視する風潮が潰えた現代において、児島高徳は楠木正成や後醍醐天皇に比べてもマイナーな人物として扱われる事が多くなりましたが、郷里の岡山県に建立された作楽神社を始め、日本各地に史跡や神社仏閣が現存しており、今も彼を慕う人々の心に生き続けています。

(寄稿)太田

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