日野資朝とは~鎌倉幕府打倒の夢に殉じた行動派の公卿~

日野資朝


日野資朝(ひの-すけとも)は、正応3年(1290年)に藤原北家の権大納言を務めた日野俊光の次男として生まれました。
家族構成として長兄に日野資名、弟に柳原資明と真言僧の賢俊がいますが、生母は不明です。

少年時代の資朝については不明な点が多く、記録に登場するのは正和3年(1314年)に従五位下に叙され、花園天皇(持明院統)の蔵人になった時です。
文保2年(1318年)に大覚寺統の後醍醐天皇が即位しても、資朝は院司として花園上皇に仕えていましたが、元亨元年(1321年)から親政を開始した後醍醐帝の寵愛を受けて側近になります。
同年に資朝は正四位下になったのをはじめ、参議への補任など官位を高めました。


しかし、そうした次男の行状には長きに渡って持明院統の天皇に忠勤した父の俊光が黙っておらず、彼は資朝を義絶(親子関係の断絶)するほどに険悪な関係になったと言います。
こうした“背信行為”にとどまらず、資朝の人格・行状は破天荒で権威におもねらないものであり、その行動力は後醍醐帝が計画した鎌倉打倒計画へと向けられていったのです。

後醍醐帝と側近達は中国から伝わった儒学のひとつである朱子学(宋学)を学んでおり、とりわけ大義名分論の影響を受けて鎌倉幕府の打倒、天皇親政の理念を掲げた討幕を志し、その中心人物の一人が資朝でした。
彼は同族である日野俊基らと共に討幕の策を巡らせ、重用してくれた後醍醐帝の志を助けるべく動き出します。

その様子は『太平記』にも記されており、美女を侍らせて歌舞音曲や酒食を楽しんだ“無礼講”や、学僧を招聘した勉強会を開催するなどして資朝達は幕府の目を欺いたのです。
しかし正中元年(1324年)、六波羅探題に討幕計画は察知されてしまい、資朝と後醍醐帝の計画は頓挫します。これが正中の変です。

幕府軍によって逮捕された資朝は鎌倉に送られ、自ら全責任を背負って佐渡に流罪となります。
しかし、彼は京都に戻ること無く命を散らしました。
元弘元年(1331年)に再度の討幕計画、すなわち元弘の乱が勃発したのです。
翌年の元弘2年(1332年)、資朝は佐渡の地で処刑されました。

『太平記』によると、

“五蘊 仮に形を成し 四大今空に帰す 首を将って白刃に当つ 截断一陣の風”

以下のような辞世をしたためてから資朝は斬られ、息子の阿新丸(くまわかまる)が、父資朝を処断した本間三郎に報復して討ち取る逸話が記されています。
この逸話も含め、後世に南朝正閏の考えが広まるにつれて資朝は南朝の忠臣として評価され、真野宮と大膳神社(いずれも新潟県佐渡市)や吉野神宮(奈良県吉野町)に祀られました。


一方、吉田兼好の『徒然草』では老僧を尊崇する公家に年老いた犬を与えて皮肉った逸話を始めとし、権威や先入観を恐れない資朝の破天荒な気質を伝える話が多く残されており、後醍醐帝に忠義を尽くした偉人のイメージとは正反対な印象を与えます。
しかし、いずれの“物語”も、資朝と言う行動力溢れる公家の姿を今に伝えていることには変わりありません。

(寄稿)太田

佐渡・雑太城 佐渡最大の城跡である妙宣寺と日野資朝の墓
後醍醐天皇の負けず嫌いな執念と室町幕府や南北朝時代になった背景
大田のシリーズを見てみる

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