佐々木道誉とは 戦国の風潮を先取りしたばさら大名

佐々木道誉




佐々木道誉(ささき-どうよ)は、別名を京極導誉とも言いますが、永仁4年(1296年)に宇多源氏の血を引く佐々木氏支流で近江の地頭となっていた京極氏の4代目である宗氏と、佐々木宗綱の娘との間に三男として生まれました(一説には1306年生まれ説あり)。

本名を高氏と言った道誉は母方の叔父の後継者になり、正和3年(1314年)に左衛門尉、その8年後には検非違使になり、後醍醐天皇の行幸に随員として加わったり、鎌倉幕府執権・北条高時の御相伴衆として仕えます。道誉と言う号は、高時が出家した時に名乗ったものです。

元弘元年(1331年)に後醍醐天皇が元弘の乱を起こすと道誉は鎌倉方に味方し、隠岐に流される後醍醐帝一行の護送を務め、2年後に足利高氏(のちの尊氏)が官軍に味方した時には近江番場で北条仲時を自害に追い込み、彼らが奉じていた光厳天皇や花園上皇の身柄を確保して三種の神器を奪還、同族の武将を官軍に降参させる活躍を見せます。


建武の新政(建武中興)がなった後、道誉は雑訴決断所の奉行人を拝命し、北条時行(高時の子)が蜂起した中先代の乱では尊氏に随行して戦い、上総や相模に恩賞として領土を賜りました。それから程なくして尊氏が新政に不満を持つ者達に担がれて謀反を決意すると、道誉は弟の一人を失い、新田義貞に降参します。しかし、箱根・竹ノ下で道誉率いる佐々木軍が足利に寝返った事で新田軍は潰走し、義貞は京都へと逃げる羽目に陥ったのです。

その後、北畠顕家楠木正成の反撃を受けた尊氏は一時的に九州へ逃れ、西国の武士団を率いて東上、正成を戦死させて義貞を敗走させた折、道誉は近江を制圧して敵の補給を断ち、勝利に貢献しています。時に南朝の延元元年(北朝の建武3年、1336年。以降、北朝の年号で統一)の事でした。翌年には勝楽寺(滋賀県)に築城して生涯の本拠地にしました。

尊氏の大業を支えた道誉ですが、北朝の暦応3年(1340年)に大事件を起こします。彼と息子の秀綱や家臣団は、天台宗の寺院である妙法院で紅葉の枝を折った件で対立し、亮性法親王(光厳上皇の兄弟)の御所まで焼き払ったのです。この凶行に対する山門(延暦寺)の弾劾と朝廷・皇室の要請もあって流石に尊氏も庇い切れず、ついに道誉と秀綱を流刑地へと追放します。


しかし、その処罰も温情あるもので、寺社や朝廷が求めていた“道誉を出羽、秀綱を陸奥に流すべき”としていたのを彼ら父子の領国である上総への配流にとどめました。長年にわたって山門と対立していた道誉も唯々諾々と罰されはせず、道中で数百人もの若衆を連れて遊女を侍らせて遊び、比叡山の神獣として重んじられる猿の毛皮を腰当てにするなど、挑発的な物だったと伝えられます。

更に、配流される宣下に書かれる俗名が主君と同じ名前(高氏)では申し訳ないと言う理由で道誉は改名するのですが、それも比叡山を意味する峯と言う字を盛り込んだ“峯方”と言う名前にし、権威ある延暦寺に対する抵抗を続けました。翌年、幕政に復帰するのを許された道誉は南朝との戦いや朝廷との交渉などで尊氏のために尽くします。

観応の擾乱でも尊氏に南朝との和睦を進言して彼の勝利を導き、正平7年(1352年)に正平一統が破綻して北朝の天皇や皇族が南朝に拉致された時には後光厳天皇を奉じて北朝の復興に尽力しました。6年後に尊氏が亡くなって義詮が将軍就任した後は幕府内で守護の争いに対する調停役として道誉は働くことになります。

一方で彼の“ばさら”ぶりが際立つ事件も次々に起きていました。ばさらは仏教用語でダイヤモンドを意味し、その硬さで既存の常識や権威を打ち破ることとされており、道誉はその最もたる存在でした。


北朝の康安元年(1361年)に南朝に京都を奪われた際、道誉は私邸を美しく飾って宴の支度まで整えてから退却していき、楠木正儀が佐々木邸を制圧します。道誉の情けある振る舞いに感動した正儀は一切の放火略奪を禁じ、宝物である鎧と刀を置いて立ち去りました。なお、この正儀は佐々木氏の傷病者を助けて施しをしたことでも知られており、後には道誉と共に南北朝合一のために働くこととなります。

また、幕府の実力者だった斯波高経と対立した時には彼が将軍邸で開催した花見にぶつける形で大原野(西京区)に盛大な花見の宴を催し、高経に一矢報いる作戦を立てました。『太平記』によると道誉は一斤(600g)もの香木を焚いたのを始め、京都中の芸人を招いて猿楽や白拍子などを披露し、豪華な景品をかけてお茶の銘柄を当てる催しや数々の美味しい飲食物を支度して集った人々を楽しませます。

極めつけは巨大な真鍮の壺を桜の樹下に置いて巨大な生け花のように見せかける豪快な演出を行い、その結果として道誉の宴は衆目を集める一方で高経の面目を潰し、それによって焦った彼を最終的には失脚に追いやったのです。鎌倉末期から室町開府にかけての乱世を戦った佐々木道誉は応安6年(1373年)に逝去し、勝楽寺と徳源寺に墓所が作られました。彼によって繁栄した京極氏は戦国の乱世をも生き抜き、その末裔の一人が京極高次です。


道誉と言えば先述したように皇室や武家政権、神社仏閣を問わず権威を嘲笑する激しい性格の人物として名高いですが、そうした悪しき側面だけが彼の全てではありません。後醍醐帝を護送する時には歌を賜るほどの間柄で、捕らえられた北畠具行(親房の親族)を助けようと尽力したり、勝楽寺や東山の祇園社(八坂神社)など著名な寺社にもかかわりが深いなど、人情味と信仰心も持った人物でした。

また、勇猛な一方でその心は優しく、優柔不断でもあったことで有名な足利尊氏が窮地に立たされた時にも道誉はヒーローの如く駆け付けて彼のために戦い、悩み傷付く尊氏に寄り添って様々な策略を編み出して助けたばかりか、その死後までも幕府に忠勤を尽くしています。こうした粋と反骨によって織りなされた“ばさら”は室町時代を彩り、後には戦国時代における下剋上や傾奇者と言った価値観の先駆けともなり、まさしく戦国を先取りした大活躍をしたと言っても過言ではありません。

その生きざまは書籍やメディアで大きく取り上げられ、吉川英治さんによる『私本太平記』で人気を集め、大河ドラマでは陣内孝則さんによる好演で話題を呼び、今も多くのファンを集めています。他にも、北方謙三さんの『道誉なり』や阿部龍太郎さんの『道誉と正成』で道誉を主役に据えた作品が多く出されるなど、近年その人気は高まりつつあります。

こうした道誉人気の理由として、彼が生きた時代と同じようにめぐるましく激変する一方で、管理化された社会や人間の視線や価値観に束縛され、真の自由が得難い時代だからこそと筆者は考えます。先行きも見えない暗黒の時代に挑み続けた英雄にしてばさら大名・佐々木道誉は、やはり逼塞感に満ちた現代社会を生きる私たちに、夢と勇気を与え続けていくことでしょう。


参考文献(敬称略)

わたしの古典太平記 山本藤枝 集英社
乱世に生きた足利尊氏 田中正雄 学研
南朝の真実忠臣という幻想 亀田俊和 吉川弘文館

(寄稿)太田

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