足利義詮の解説~人を重んじた大度量の室町幕府二代将軍

足利義詮

足利義詮とは

足利義詮(あしかが‐よしあきら)は、元徳2年(1330年)に当時の鎌倉幕府に仕官していた足利尊氏と、その正室である赤橋登子との間に三男として生まれました。異母兄に竹若丸と足利直冬、実弟に基氏がいます。

彼が歴史の表舞台に登場するのは生誕からわずか3年後の元弘3年(1333年)、父の足利尊氏(この頃は足利高氏)が後醍醐天皇による討幕軍を鎮圧するために上洛した時です。幼名を千寿王と言った義詮は、母と共に人質として鎌倉に置かれました。

尊氏が後醍醐帝からの綸旨を受けて京都の六波羅探題を攻めた際、義詮は家臣の助けで鎌倉から逃げ出すことに成功、尊氏の名代として新田義貞の軍と合流して鎌倉攻めに参加しました。この時、義詮がなした功績のひとつが武士達に軍忠状(参陣や手柄などを記した書類)を発給した事で、幼児という事で臣下らが補佐を受け持ちますが、この一件は足利こそ武家の棟梁と仰がれる一因になったと言います。


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同年に建武の新政(建武中興)が成った後、義詮は成良親王(後醍醐帝と阿野廉子の皇子)を奉ずる叔父・足利直義と共に鎌倉へ帰って任務にあたり、建武2年(1336年)に尊氏が建武政権から離反した時は共に戦い、主に鎌倉で関東支配を任せられました。

南朝を追い詰めて室町幕府を盤石としていた将軍・尊氏の嫡男(長兄竹若丸は幼少時に死亡、次兄直冬は認知されず)として順調な人生を歩んでいたかに見えた義詮でしたが、ある事件がきっかけで戦乱の渦中に巻き込まれていくことになります。

その事件こそが、幕府の重臣で足利家執事の高師直と直義の対立が、尊氏ばかりか南朝勢をも巻き込んだ内乱・観応の擾乱です。北朝の貞和5年(1349年、南朝の正平4年)に弟の基氏と入れ替わる形で上洛した義詮は、3年後の観応2年(1351年、南朝の正平6年)、父の尊氏が叔父・直義を降すべく南朝に降伏(正平一統)すると、共に降伏しています。

しかし、義詮を取り巻く問題は悪化の一途をたどり、尊氏降伏の翌年には増長した北畠親房らの背信によって正平一統は破断、楠木正儀(楠木正成の三男)らが京都に侵攻した時に義詮は都を脱出して近江に逃れます。その時に北朝方は、光厳・光明・崇光の三上皇と直仁皇太子を南朝に連行されてしまい、一時は危機に陥るものの後光厳天皇の即位で北朝を維持し、京都奪還に成功しました。

その後、骨肉相食む争いの中で直義が倒されて観応の擾乱は終わりを迎えますが、義詮は兄の直冬らが加わる南朝の猛攻に耐え、時には京都を奪われるなどして戦いの人生を送ります。北朝の延文3年(1358年)に父尊氏が死去して、義詮は征夷大将軍の職を拝命するも、九州に後醍醐帝の子・懐良親王が勢力を築いていたことや細川清氏と佐々木道誉の対立など、多忙な日々を過ごしていました。

そうした状況に落ち着きが見えたのは1360年代からで、正平17年(1362年)に斯波義将を管領として登用、翌年には動向が落ち着かなかった大内と山名の両氏が幕府に帰参して、桃井直常や仁木義長、石塔頼房などの人材も幕府方の武将として加わったことで北朝と室町幕府の優位性は固まります。中でも後に大きな影響を与えたのが、貞治5年(1366年)、斯波氏に替わって管領に任じた細川頼之の登用です。

統一のため精力的に動く義詮でしたが、その最後は突如として訪れます。頼之を管領に取り立てた翌年、義詮は38歳の若さで逝去します。彼は死の床に伏した際に頼之と嫡男・足利義満を傍に呼んで、
「われ今汝のために一子を与えん。汝のために一父を与えん。その教えにたがうなかれ(頼之殿、貴公に我が子義満を与えましょう。義満よ、お前には頼之殿を父上として与えます。そのお教えに背いてはなりません」
と言い残しました。義満と頼之はその言葉に背くことなく、悲願であった南北朝合一を果たすことになります。

彼は死後、足利氏の菩提寺でもある等持院に葬られたとも言われていますが、その墓所には諸説が存在し、中でも有名なのが楠木正行(楠木正成の長男で正儀の兄)の首塚がある宝筐院と言う説です。正行を敬愛していた義詮は、当時の院主に対して正行公の隣で眠りたいと所望し、宝筐院には彼と正行のものだと言われる墓があると伝えられています。


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足利義詮は尊氏と義満と言う著名にして功績も大きな父と息子の陰に隠れがちで、『太平記』などの書物でも人の言葉を鵜呑みにしてばかりいる愚直で人の好さが強調されがちで、大河ドラマ『太平記(演・片岡孝太郎さん)』でも凡庸さが際立つ人物とされるなど、一般には高い評価は得られていません。

しかし、尊氏には及ばずとも、神南(大阪府高槻市)で兄の直冬を迎え撃ち、男山八幡(京都府八幡市)の戦いでは後村上天皇を奉じた楠木、北畠と言った南朝の幹部らを打ち負かして敗走に追いやるなど、義詮は決して弱い将ではありませんでした。

政治面でも尊氏在世中は半済令で配下の経済力を保証し、特に人材を活用する能力は高いものがあり、先述した北朝の忠臣・細川頼之の登用はその最もたるものです。また、敵対する南朝の忠臣である楠木正行に対しても敬意ある振る舞いを忘れない度量の大きさと、人を重んじる義詮の存在は室町開府と南北朝合一へと移りゆく時代を紡ぎ出すにふさわしいものであったと言えます。

(寄稿)太田

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