赤橋登子とは 足利尊氏を支えた最後の執権の妹

赤橋登子

赤橋登子とは

赤橋登子(あかはし-なりこ、あかはし-とうし)は、鎌倉時代末期の1306年に、北条久時(赤橋久時)の娘として生まれました。
母は、鎌倉幕府8代執権・北条時宗の異母弟である北条宗頼の娘です。
兄に最後の執権となった北条守時(赤橋守時)、鎌倉幕府最後の鎮西探題になった赤橋英時(北条英時)があります。
赤橋家は、鎌倉幕府で執権を務めた北条得宗家に次ぐ高い家格の北条一門です。
そして、この頃、最大の有力御家人であった足利貞氏の跡取り息子である足利高氏(足利尊氏)に、
赤橋登子は嫁ぎました。
1330年に、嫡男・千寿王(足利義詮)を産んでいます。


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1333年、後醍醐天皇が隠岐を脱出し、鎌倉幕府倒幕の挙兵をすると、夫・足利尊氏は名越高家と共に幕府軍として出陣しまた。
この時、鎌倉幕府は人質として、赤橋登子と千寿王を鎌倉にとどめ置いています。
なお、名越高家が討死すると、後醍醐天皇の誘いを受けた足利尊氏は、反旗を翻して所領の丹波にある篠村八幡宮で、反幕府の兵を挙げました。
そのため、赤橋登子と4歳の千寿王は、鎌倉を脱出しました。
その後、千寿王を擁した足利勢は京の六波羅探題を滅ぼし、その翌日には新田義貞が関東で挙兵し、鎌倉の戦いとなって、鎌倉幕府は滅亡しました。


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その後、足利尊氏が室町幕府の初代将軍になると、赤橋登子は御台所として従二位に叙せられています。
なお、足利尊氏の庶子・足利直冬の認知には反対していたとされ、無事に2代将軍に足利義詮を据え、鎌倉公方にも子の足利基氏を就任することを後押ししました。
また、足利尊氏との仲は、よかったと伝わります。

延文3年(1358年)、足利尊氏が死去したあとは「大方殿」と呼ばれましたが「大方禅尼」とも呼ばれているため、夫の死により出家したと言う事になります。

正平20年(1365年)5月4日に赤橋登子は死去。享年60。


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戒名は登真院殿定海大禅定尼。
火葬されて、京都・仁和寺の等持院に埋葬されました。
死後、従一位を追贈されています。

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