赤橋守時(北条守時)とは 鎌倉幕府最後の執権(16代)も・・・

赤橋守時(北条守時)

赤橋守時(あかはし-もりとき)は、鎌倉幕府第16代執権になった鎌倉時代末期の武将で、生まれは1295年です。
北条一門であることから、北条守時(ほうじょう-もりとき)とも呼びます。
父は六波羅探題も務めた北条一族である赤橋流の北条久時で、母は北条宗頼の娘です。
赤橋家(赤橋流)は、北条得宗家に次ぐ高い家格であり、妹の赤橋登子は、御家人最有力の足利尊氏の正室になっています。
屋敷が赤橋(現在の鶴岡八幡宮・太鼓橋)の近くにあったため、赤橋を称しました。


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1307年、北条守時は、僅か13歳で従五位下左近将監に叙任されており、北条一門の中でも格別な家柄であることがわかります。
1311年、引付衆就任を飛ばして、いきなり評定衆に加わりました。
ただし、幕政の実権は、内管領の長崎円喜・長崎高資と、外戚である安達時顕が握っていました。

その長崎氏と安達氏が、次の執権を誰にするかで揉め、第15代執権に一門の長老である金沢貞顕が選出されましたが、たった10日で辞任しています。
このように、争いに巻き込まれるのを嫌って、執権につく北条一門がいない中、1331年、引付衆一番頭人であった赤橋守時が、第16代執権に就任しました。
連署(執権の補佐役)には大仏維貞が就いています。
その他、引付頭人の筆頭に北条茂時、2位・金沢顕実、3位・北条時春、4位・大仏貞直、5位・安達時顕がついています。


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しかし、権力の中心は、出家していた元執権の北条高時や、内管領・長崎高資らにあり、多くの難問が噴き出し、鎌倉幕府は諸問題に対処できない機能不全に陥ります。

1333年5月、後醍醐天皇が隠岐を出て挙兵したため、妹・赤橋登子の夫である御家人筆頭の足利高氏(足利尊氏)らが、討伐のため京に向かいました。
しかし、後醍醐天皇の誘いを受けて寝返り、鎌倉幕府の京の機関「六波羅探題」を攻め落とします。
また、人質に取っていた妹・赤橋登子と、千寿王丸(足利義詮)も鎌倉から逃れたため、北条高時は、赤橋守時に謹慎を申し付けました。


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やがて、関東で挙兵した新田義貞の軍勢が鎌倉に近づくと、赤橋守時(北条守時)は、真っ先に出陣して、巨福呂坂にて新田勢を迎え撃ちます。
このとき、糸口貞満と激戦を繰り広げましたが敗れて、侍大将・南条高直ら90余人と洲崎(神奈川県鎌倉市深沢)まで撤退すると自刃しました。享年39。
自分は足利の縁者であるから退却できないと、死を選んだとされます。
南条高直らや、庶子とされる子・赤橋益時も、父に共に自害したと伝わります。

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