後村上天皇の解説~京都奪回を目指した後醍醐天皇の後継者

太田先生

後村上天皇とは

本項で紹介する後村上天皇(ごむらかみてんのう)は、嘉暦3年(1328年)に後醍醐天皇と側室・阿野廉子の間に7番目の皇子・義良親王(のりよし/のりながしんのう)として生誕しました。同母兄弟に恒良・成良両親王や祥子・惟子内親王姉妹、異母兄には恒良皇太子、護良親王(大塔宮)などがいます。

正慶2年(1333年)に北条高時が自害して鎌倉幕府が滅亡すると、義良親王は北畠親房とその息子である北畠顕家に奉じられ、東北地方を支配する奥羽将軍府を創設すべく、多賀城(宮城県)に派遣されました。この時、わずか5歳だった義良皇子は翌年に多賀城で親王となり、北畠親子のもとで東北地方に鎮座したのでしたが、その治世は順当と言いきれませんでした。


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建武2年(1335年)に北条時行が中先代の乱を起こし、護良親王の暗殺事件や足利尊氏が建武政権から離反するなどの政変が立て続けに起こり、同年の12月には親房・顕家らと共に義良親王は多賀城から出陣し、翌年の正月には奥羽軍が京都で尊氏軍を撃破し、3月に親王は元服して陸奥太守(陸奥国司)の地位を授かります。

転戦した少年時代

足利氏を九州へと追い払った北畠親子に奉じられた親王は任地の陸奥に戻りますが、かねてから西国の武士からの支持を集め、持明院統の光厳上皇から院宣を賜っていた尊氏は九州で勢力を盛り返していました。そして、再度京都への侵攻を再開して湊川(兵庫県)で楠木正成を討ち取り、後醍醐天皇と新田義貞らは京都を捨てて逃亡すると言う不測の事態が起こったのです。

延元2年(1337年。建武朝廷側の元号で、本項ではこれで統一する)、後醍醐天皇によって南朝が成立して以降の義良親王と北畠氏は北朝軍の猛攻によって窮地に陥った多賀城を捨てて伊達行朝の勢力圏である霊山(福島県)に避難します。そして京都奪還の軍を興して鎌倉を奪取、帰順してきた北条時行を配下に加えて美濃青野原(岐阜県)では足利に味方する土岐頼遠の軍を破って西に向かい、後醍醐帝と吉野(奈良県)で合流しました。

顕家や時行など若手世代を従えて活躍した義良親王ですが、南朝全体の戦況は芳しいものではなく、翌年には顕家と義貞が戦死します。親王は親房らと共に奥州に戻ろうとしますが暴風で伊勢まで漂流し、失意のうちに吉野へと戻る羽目になったのでした。そして翌延元4年(1339年)には皇太子に立てられ、同年に後醍醐帝が崩御した際にはその前日に譲位されて即位します。時に12歳のことです。


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即位後の後村上天皇は親房や母后・廉子らの補佐を受けて精力的に行動し、その範囲は政治・軍事・外交と幅広いものでした。正平3年(1348年)には高師直に南朝が敗れて紀伊花園(和歌山県)、賀名生(奈良県)へと退却することもありましたが、2年後の観応の擾乱で兄尊氏と対立していた足利直義が寝返り、ついに南朝は尊氏をも降伏せしめることに成功します(正平一統)。

武装帝王の野心とその終焉

しかし、北朝の天皇を廃位して三種の神器を没収しただけでなく、南朝が和議を破談にして上皇や皇子を捕えてしまったことで一統は終わりを迎えます。正平7年(1352年)に楠木正儀(正成の子)らが尊氏の嫡子・足利義詮を打ち負かして京都を制圧、後村上帝も行宮を石清水八幡宮のある男山八幡(京都府)に移しました。しかし、足利方の反撃にあって早々と京都を放棄し、男山に立て篭もるも義詮の猛攻で大敗を喫したために退却を余儀なくされました。

太平記』によると、“主上は軍勢に紛れさせ給はん為に、山本判官が進らせたりける黄糸の鎧を召して、栗毛なる馬に召されたる(天皇は軍勢に紛れようとなさり、山本判官が献じた黄糸の鎧を御着用になり、栗毛の馬にお乗りでした)”と記されています。また、皇子に譲位して自ら京都へ攻め込むと言う噂が流れるなど、武装して自ら都を奪い返さんとしたその姿は、勇猛と権力を誇示する海外の帝王にも比肩すべきものと言えました。

しかし、そうした後村上帝の決意と奮闘もむなしく南朝は潰走し、天皇自身も北朝方の武将から勝負を挑まれたり、神器の八咫鏡を危うく失いかけるなどの憂き目を見つつも大和へと落ち延びます。しかし、親房が捕らえた北朝方の皇子・上皇の身柄と三種の神器を手放さなかったことが功を奏し、北朝は神器なしの天皇(後光厳天皇)を即位させねばならず、その権威にダメージを受けてしまうのです。

その後も後村上天皇は京都奪回の軍を興し、正平10年(1355年)に尊氏の庶子である足利直冬を送り込むも失敗、正平16年(1361年)には幕府執事・細川清氏の寝返りを機に正儀を派遣して京都を制圧しますが退却を余儀なくされるほど、南朝は戦う力を徐々に失っていきました。そんな中でも室町幕府を継いでいた義詮は南北朝合体の和平交渉を持ちかけており、それには武人である正儀も賛成派だったのですが、正平22年(1367年)の交渉で後村上帝は北朝の降伏を要求し続けます。その翌年、仮の皇居としていた住吉行宮(大阪府)で後村上天皇は41歳の若さで崩御し、長男の寛成親王が長慶天皇として即位しました。その遺骨は観心寺(大阪府)の檜尾陵に葬られ、楠木正成の首塚、そして母・廉子の墓が同じ境内に存在し、共に今も眠りについています。

後醍醐天皇の遺志を引き継いで自ら武装して室町幕府と戦った後村上天皇ですが、准勅撰集『新葉和歌集』を始めとした歌道を始め、源氏物語などの文学や禅、書道、琵琶などの音楽をこよなく愛した文化人でもありました。楠木正行を始めと楠木氏との深い絆を示すエピソードも有名ですが、大河ドラマ『太平記』(演:渡辺博貴さん)や宝塚歌劇『桜嵐記』(演:暁千星さん)に主要人物として登場するなど、南北朝時代を語るに欠かせない英雄として父帝に勝るとも劣らぬ足跡を日本史に残しています。


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参考文献(敬称略)

南朝の真実・忠臣という幻想 亀田俊和 吉川弘文館
わたしの古典14・山本藤枝の太平記 山本藤枝 集英社
乱世に生きた足利尊氏 田中正雄 学習研究社
 
(寄稿)太田

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