高師直 ~非凡な才と苛烈さで恐れられた南北朝の武将~

高師直

高師直とは

高師直(こうのもろなお)は、平安初期の皇族・峯緒王(後に臣籍降下して高階峯緒)の血を引く武将で、本名を高階師直と言います。
1991年の大河ドラマ『太平記』(2020年に大河ドラマアンコール)で柄本明さんによる熱演で話題となりました。

武士化した高階氏は源義国(源義家の三男)の頃から関東に移り住み、師直の曽祖父・重氏の代には足利家の執事として重用されていました。
そうした歴史ある家柄の生まれながら師直の生年月日は不詳で、高師重の息子として生まれてその家督を継承したこと、師泰(※1)と重茂と言う兄弟がいたことが判明しています。

家職とも言うべき執事職にあった師直は足利尊氏に仕えて頭角を現し、尊氏が後醍醐天皇と連携して鎌倉幕府を討ち、建武の新政(建武中興)で叙任された際には窪所、雑訴決断所の奉行人の職務を師直も賜りました。
建武2年(1335年)に時の大納言・西園寺公宗の謀反が発覚すると、師直は楠木正成らと協力して西園寺一派をとらえ、反乱を未然に防ぐ活躍を見せています。


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翌年、建武政権に尊氏が反旗を翻した時にも師直は随行して九州に赴き、東上した際には湊川の戦いで正成を戦死に追いやって勝利し、後醍醐帝と新田義貞京都から駆逐しました。
北朝の建武5年(1338年)、新帝・光明天皇によって尊氏が征夷大将軍に任ぜられ、室町幕府が開かれると師直は将軍家の執事として権勢を振るい、その一族は重職を歴任します。

同年、吉野へ逃れて南朝を興した後醍醐帝に味方する貴族武将・北畠顕家を和泉(大阪府)で討ち取って南朝に打撃を与えたのを始め、貞和4年(1348年)に四条畷の戦いで楠木正行、正時兄弟を討って吉野山にある南朝の本拠を焼き払うなど、師直は10年もの間尊氏のために戦います。
軍人、行政官として遺憾なく才能を発揮する師直でしたが、その行く手にも暗雲が立ち込めていました。
それが、観応の擾乱です。

この政治闘争の発端については諸説ありますが、自らの武力を頼みにする武家を率いる実力主義、革新派の師直に対し、伝統を重んじる保守的な足利直義(高氏の弟)の闘争が著名であり、師直とその配下は直義が逃げ込んだ尊氏の御所を包囲して彼を出家、引退に追いやります。

北朝の観応元年(1350年)、直義の養子で尊氏の庶子であった足利直冬を討つべく出陣した師直は、思いもよらぬ打撃を受けます。
それは、京都からの脱走に成功した直義と南朝の後村上天皇が組んで尊氏を劣勢に追いやったことでした。
結果、尊氏は師直と師泰の出家を条件に和睦することとなるのですが、前年に師直が起こした謀反で追放、後に殺害された上杉重能の養子・能憲が道中に待ち受けていたのです。
父の恨みを晴らそうと伺っていた能憲は武庫川(兵庫県)で師直を襲い、彼はその一族と共に無念の最期を遂げたのでした。


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後年、太平記の流布と共に師直は史実のように尊氏に忠義を尽くした文武両道の才人では無く、非道で欲の深い悪人として描かれ、以下のような描写で知られます。

・南朝が要塞化した神社仏閣、特に清和源氏の氏神でもあった石清水八幡宮に放火
・好色が高じ、美女を得るためにその夫・塩谷判官を悪辣な手段で滅ぼす
・『帝や院などは木か金の像で作り、本物は流罪にせよ』と暴言を呈した
・配下の武人が荘園を横領するのを許した

これらの“悪行”のうち、特に好色なくだりは彼の家名である『高家』や領地だった三河と関連が深い吉良上野介を『仮名手本忠臣蔵』で悪役として描く際、吉良の立ち位置が師直に仮託されたのは有名です。
しかし、その下りは太平記で強調された悪行であり、朝廷・皇室をないがしろにした発言自体は師直を反対派が貶める際に述べた言葉でもありました。

このような悪役としての描写が目立つ太平記においても、高師直は足利の執事に相応しい寛大さと聡明さを兼ねた実像に近い描写が記されており、私たちにもなじみの深いことわざの由来ともなった、最後にそのエピソードを紹介致します。
北朝の武士・上山六郎左衛門は急な敵襲の際、師直の甲冑を無断拝借し、高家の配下ともめ事を起こしました。
そこに現れた師直は配下を諌め、

「この上山殿は、私に替わって戦って下さろうとしている方。
そのような御仁のためなら、鎧一領など惜しくはない」

と上山の非常識な振る舞いを快く許したばかりか、大切な鎧までも彼に与えてやったのでした。


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その思いやりに感じ入った上山は楠木正行の突撃で師直が窮地の時、身代わりとなって戦い、師直を再起させたのです。
そのことを、太平記の著者は以下のように評しています。
「情は人の為ならずとは斯様の事をぞ申すべき」

(※1)兄とする説、弟とする説が存在する

(寄稿)太田

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