足利直義の解説 骨肉の争いで散った室町開府の功労者

足利直義

足利直義(あしかが‐ただよし)は、徳治元年(1306年)に鎌倉幕府の有力御家人・足利貞氏と側室の上杉清子の三男として生まれました。
異母兄として早世した長男の足利高義、同母の次兄に足利尊氏がいます。

室町幕府初代将軍・足利尊氏の弟として有名な直義ですが幼名など少年時代の記録は不詳で、主君・北条高時と祖先・源義国から一字ずつ拝領した高国(たかくに)を名乗っていました。
直義と名乗ったのは、兄と共に後醍醐天皇に臣従して平家に属する北条氏を離反した以降のことです。

尊氏と共に六波羅探題を陥落させた功績で左馬頭に任じられた直義は鎌倉府の将軍となった成良親王(後醍醐帝の皇子)を奉じて鎌倉の執権になり、のちに室町幕府の重要機関ともなる鎌倉府の基礎を作りました。
建武2年(1335年)に北条時行(高時の子)が挙兵し、中先代の乱が勃発すると直義はその鎮圧に向かいますが、破れて鎌倉に反乱軍を向かわせてしまいます。

この混乱の中、尊氏の殺害を企てるなどかねてから敵対していた護良親王(大塔宮)が北条に奉じられるのを憂慮した直義は、幽閉されていた東光寺に配下の淵辺義博を派遣して親王を斬首させました。
成良親王の京都への撤退を成功させた直義は三河国矢作(愛知県)に落ち延び、京都から来援した尊氏と合流して時行を撃退し、鎌倉を奪い返します。


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中先代の乱が終わり、鎌倉で独自の論功行賞を行って建武政権から離脱した足利氏に後醍醐帝による命を受けた新田義貞の討伐軍が派兵されると、直義は赦免を求めて寺にこもった尊氏の代理で戦いますが、駿河国手越河原(静岡県)で大苦戦を強いられました。
絶体絶命に陥った直義でしたが、程無くして一族を守るために戦線復帰した尊氏の奮戦によって窮地を脱します。

建武の新政に不服な武士達の参戦や佐々木道誉の反逆もあって箱根竹ノ下の戦いで義貞を打ち負かして京都まで進軍するものの、敵方に楠木正成北畠顕家らが参戦した事で直義と尊氏は九州への撤退を余儀なくされます。

その間も直義は兄を忠実に助け続け、光厳上皇の院宣と西国の武士からなる軍を得て九州では建武政権の手先となった菊池氏を大敗させ、京都奪回のために臨んだ湊川の戦いでは陸路の司令官として活躍、正成を倒して義貞と後醍醐帝を京都から敗走させたのです。
この勝利によって光明天皇を奉戴した足利兄弟は幕府を開き、建武式目を制定しますが、これには直義の意向が強いと言われ、政治家としての才能も優れていた事を伺わせます。

しかし、その栄光も北朝の貞和4年(1348年。本項では北朝の元号で通す)に崩れ始めていきます。足利氏の執事で辣腕を振るっていた武将・高師直との対立が激化し、尊氏を始めとした足利家はおろか幕府も二分し、南朝方も加わる戦乱・観応の擾乱の勃発です。
師直派に襲撃され、兄の邸宅に亡命した直義は恵源(えげん)の法名を名乗って出家しますが、彼は養子の足利直冬を師直らが討とうと出陣した隙に京都から逃げ、後村上天皇を奉ずる南朝に降りました。

南朝の助力を得た直義は観応2年(1351年)に尊氏方を圧倒して宿敵の師直を殺害させて勝利、尊氏とその息子・義詮の下に復帰するも関係は悪化、再び直義は反逆します。
対する尊氏は南朝と和睦して直義追討の命令を賜り、翌年に直義は尊氏の軍門に降ったのです。
彼は若き日を過ごした鎌倉で武装解除され、同地の延福寺に幽閉されるも、その年の2月26日に急死しました。
死因は黄疸とも毒殺とも言われています。享年47歳。

後世、南朝正閏が絶対視されるようになると、直義は正当なる後醍醐帝とその配下に敵対した悪逆な人物として見なされるようになります。
『尊氏をそそのかして謀反させた』『野心が芽生えて兄と戦ったのは護良親王の怨念が転生した息子が生まれたから』『後醍醐帝の子を毒殺した』などの悪行が語られているのは有名です。

しかし、実際の直義は神社仏閣や朝廷の伝統的な権威を重んじてとりわけ皇室への崇敬は兄尊氏に勝るとも劣らないものでした。
同時代の記録には、『副将軍』の異名をとったこと、「三条殿(直義公)こそ幕府そのものです」と称賛されたこと、光厳上皇はじめ皇室からの信頼が厚く、直義の子が生まれると公家や皇族から祝賀されたことなど、直義が尊皇心溢れる武士であったことを示す記録は多く残ります。

また、直義を武家の出ながら朝廷の権益を守った平重盛になぞらえらたり、功臣・土岐頼遠が光厳上皇の御車に狼藉を働くと助命嘆願も退けて死罪にした逸話が『太平記』に記されている点でも、「太平記は直義を始めとした北朝側を悪人として扱い、南朝を正統化している」とする見方は危険であると筆者は考える次第です。


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なお、近年においては八朔の贈り物を賄賂として嫌った高潔さ、優柔不断で感情の起伏が激しい兄尊氏を諌める怜悧にして沈着な人格も評価されるようになり、吉川英治さんの小説やそれを基にした大河ドラマ(演:高嶋政伸さん)を始めとしたマスメディアを中心に、悲劇の副将軍・足利直義の再評価は進みつつあります。

(寄稿)太田

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