阿野廉子の解説 後醍醐天皇の遺志を引き継いだ女傑の伝説

阿野廉子




南北朝時代に活躍した女性と言うと、皆さんは誰を思い浮かべるでしょうか。
勾当内侍赤橋登子、南江久子、雛鶴姫などの女性達は、『太平記』などを元にした作品のヒロインになるなど今でも人気が高いですが、彼女らの頂点に立つ巨星と言うべき女傑が存在しました。
それが、本稿で紹介する阿野廉子(あののれんし/かどこ、やすこ説もあり)です。

廉子は正安3年(1301年)、右近衛中将である阿野公廉を実父として生まれ、のちに洞院公賢の養女となりました。


彼女が宮廷に仕えたのは元応元年(1319年)に後醍醐天皇の正室である西園寺禧子が中宮に立てられた時、中宮内侍として仕えた時です。
廉子は女官として宮仕えするかたわらで後醍醐帝の側室としても寵愛を受け、元享2年(1322年。諸説あり)に最後の伊勢斎宮となった祥子内親王を産みました。

廉子は後醍醐帝との間に多くの皇子女を産んでおり、正中2年(1325年)に恒良親王、嘉暦元年(1326年)に成良親王、嘉暦3年(1328年)には後に後村上天皇として即位する義良親王、末子として惟子内親王を儲けています。
元弘元年(1331年)には従三位に叙され、三位内侍と名乗りますが、翌年には元弘の乱で敗れた後醍醐帝の流刑地である隠岐に同行し、天皇と苦難を共にして信頼を得ました。

元弘3年(1333年)に北条氏率いる鎌倉幕府が倒れ、建武の新政(建武中興)が始まると廉子は後醍醐帝と都へ還御、同年に主であった禧子皇后が奉じていたのもあって廉子は一躍宮廷での台頭を始めます。
建武元年(1334年)に廉子の産んだ男子の中で最年長だった恒良親王が皇太子に指名され、彼女自身も翌年に准三后の位を賜るなど、天皇からの信愛は更に増しました。

また、廉子は天皇の世継ぎを産んだだけでなく学術にも秀でており、『新葉和歌集』に20首が入集され、政治的な実務能力も優秀な女性として有名です。
流刑された隠岐で苦楽を共にした千草忠顕、脱出に貢献した名和長年らの功績を認めて報いる論功行賞があったのも、廉子の推挙があったからとも言います。


特に智謀が発揮されたと言うべき出来事が、後醍醐帝の第三皇子・護良親王(大塔宮)との抗争です。
我が子の立太子・即位の障壁になりかねない護良親王が、武家に信頼厚い足利尊氏の殺害を目論むと共通の敵を持つ尊氏と共に親王を破滅させ、軍事力を用いずして脅威を除きます。
一方、護良親王の力を削ぐためにその忠義な配下だった赤松則村らを冷遇しており、それは後に禍根を残してしまいます。

優れた行動力と智謀で台頭した廉子でしたが、その天下は自らが陰で動かしてきた後醍醐帝と尊氏の反目によって崩れ去りました。
彼女の策略が一因となって足利方についた赤松氏の協力で九州に落ち延びた尊氏が、延元元年(1336年)に湊川の戦いで楠木正成新田義貞を破って京都へ攻め込んできたのです。

廉子は一転して栄華から困窮、敗走の身になるも天皇に尽くし、彼女のサポートを受けた後醍醐帝率いる建武政権も用意周到に事を進めます。
尊氏が奉じる持明院統と和睦した際には恒良親王を北陸に逃がして新田氏と共に戦わせ、その一方で「尊氏養いまいらせた(尊氏公がお育て申し上げた)」皇子であった成良親王を光明天皇の皇太子にする両統迭立の交渉も行っており、その背景には二皇子の母・廉子の意向があったとする声もあります。

後醍醐帝が三種の神器を持つ正統な天皇として南朝を興した後も、廉子は吉野へと逃れて天皇の助けとなりますが、恒良親王が北陸で敗れて北朝軍に捕まり、成良親王は皇太子を廃位(太平記によると両皇子は毒殺されるが、消息は諸説あり)され、ついには後醍醐帝をも失う悲劇に見舞われます。時に延元4年(1339年)8月16日のことでした(本項では南朝の年号で統一)。

それでも廉子の遺志は衰えず、彼女は最後に生き残った愛息・義良親王が即位して後村上天皇となって以降は皇太后として南朝を支え続け、正平6年(1352年)に新待賢門院の女院号を賜って令旨を出すなど、天皇の母として位を極めた廉子は持ち前の智謀と行動力を発揮し続けました。

観応の擾乱、正平の一統など北朝打倒と京都奪回のチャンスはあれども、文観僧正・北畠親房ら重臣の死去や内紛もあって南朝は衰亡の一途を辿り、廉子の夢は潰えていきます。
そうした中で阿野廉子は正平12年(1357年)に出家し、2年後に南朝が仮の皇居としていた観心寺(大阪府河内長野市)で崩御しました。享年59歳。


天皇の生母と言う誉れ高い身でありながら、室町幕府が関与したとも言われる『太平記』での廉子は後醍醐天皇の寵愛を独占して政治を乱した悪女として批判的に描かれ、南朝の北畠顕家も私利私欲で国政を悪化させた女官上がりの者がいると上奏文で糾弾するなど、長らく低評価が続きました。

その“悪女”としての評価は、吉川英治さんの小説『私本太平記』やそれを元にした1991年の大河ドラマ『太平記(演・原田美枝子さん)』などの諸作品でも健在です。
一方で行動力と知略を兼ねた廉子を強きヒロインとして描いた小説やコミックも存在し、研究者の中でも森茂暁さんが彼女を「尼将軍北条政子を彷彿させる」と表現するなど、廉子もまた研究の進歩によって実像を明らかにされつつある人物の一人でもあります。

後醍醐天皇の願いであった京都帰還の夢を引き継ぎ、女性の身で才覚を駆使して乱世を生き抜いた阿野廉子は、一生をかけて奉戴した我が子にして君主でもある後村上天皇と共に、今も終焉の地である観心寺に眠り続けています。

(寄稿)太田

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