北条政子とは【尼将軍と呼ばれた御台所】

北条政子




北条政子(ほうじょう-まさこ)は、平安時代末期の1157年に、伊豆の平氏豪族である北条時政の長女として生まれました。
母は正室である伊東祐親の娘です。
兄に北条宗時、弟に北条義時、北条時房、北条政範、阿波局、北条時子などがいます。
年表式で詳しくご紹介してみます。

北条政子が3歳の頃、流罪となった源頼朝(13歳頃)が伊豆にやってきて、父・北条時政が監視する立場となります。
蛭ヶ小島(ひるがこじま)にて生活した源頼朝とは、このような形で、顔見知りとなったのでしょう。
やがて、北条政子と源頼朝は恋仲となります。
いつ頃かは定かではありませんが、北条時政が大番役で京へ上っていた時とされ、平家側の父・北条時政は結婚に猛反対でした。
離れ離れにしようと北条政子は別の場所に連れていかれましたが、それでも、大雨の夜に、源頼朝の元へ会いに走ったともされています。
この逸話には他にも色々な話がありますが、多くは創作で、確かな事は不明です。
いずれにせよ、1177年頃、父・北条時政は北条政子(20歳)と源頼朝(30歳)の婚姻を認め、1178年に長女・大姫が産まれました。
北条政子は、結婚したのが遅かったと言う印象ですが、すでに気が強い性格だったのかも知れません。


下記写真は蛭ヶ小島にある北条政子と源頼朝の像。

北条政子と源頼朝の像

1179年に、山木兼隆が伊豆配流となると、山本氏が伊豆での権力を強めてきました。
また、京では平清盛がクーデターを起こし、後白河法皇を幽閉します。
そのため、1180年、後白河天皇の第3皇子である以仁王(もちひとおう)と源頼政が、平氏追討の令旨を、木曾義仲など全国の源氏に発します。
韮山の源頼朝には、叔父・源行家によって令旨が届けられました。

計画は露見して、以仁王と源頼政は宇治で敗死し、源頼朝はしばらく静観していましたが、平家が諸国の源氏追討を考えたため、自身に危険が迫ることになり、源頼朝はついに挙兵を決意します。
父・北条時政も、山木兼隆の権力拡大に危機感を抱いていたため、この挙兵に協力することになり、源頼朝に従った工藤茂光土肥実平、岡崎義実、天野遠景、佐々木盛綱、加藤景廉、堀親家らは伊豆目代・山木兼隆の屋敷を襲撃することになりました。
北条政子の兄・北条宗時や、弟・北条義時も、父と共に参じています。
こうして、挙兵した源頼朝は、続いて坂東武者の味方を募集し、三浦義明・三浦義澄らと合流するため、相模・土肥(湯河原)に向かいました。
そして、石橋山の戦いとなり、兄・北条宗時が討死します。
そんな中、戦火を逃れるため、北条政子は大姫など子供らと伊豆山に避難して、不安な日々を送ったとされます。
平家勢の大庭景親、伊東祐親らに敗れた源頼朝は、安房に船で逃れ、父・北条時政や弟・北条義時も安房に渡りました。
その後、源頼朝は数万騎の加勢を受けて、鎌倉に入ると本拠地としたため、北条政子らも鎌倉・大倉館に移り住んだと言う事になります。
源頼朝(32歳)は鎌倉殿となり、北条政子(23歳)は御台所と呼ばれるようになりました。
また、1181年閏2月4日に平清盛が死去。


1182年には嫡男・源頼家(のち2代将軍)が産まれます。
北条政子が懐妊した際に、三浦義澄の助命活動によって、捕らわれの身であった伊東祐親が恩赦を受けています。
しかし、伊東祐親はかつて三女・八重姫が源頼朝の子を産んだ際に、子を殺害し八重姫を離した経緯から、伊東祐親はこの赦免を恥じて自害しました。
この話は、曾我兄弟の仇討にも少し繋がります。

また、この北条政子の妊娠中に、源頼朝は、伊豆から密かに「亀の前」を鎌倉に呼び寄せて寵愛しました。
亀の前は、流人暮らしの頃から仕えていた、良橋太郎入道の娘です。

この事を、父・北条時政の継母である牧の方から知らされた北条政子は激怒し、牧の方の父・牧宗親に命じて匿われている逗子の伏見広綱宅を破壊させました。
怒った源頼朝は牧宗親を叱責し、髻を切らせたため、妻の父への屈辱に怒った北条時政は、北条一族を連れて、伊豆に引き上げています。
北条政子の怒りは収まらず、匿っていた伏見広綱は遠江へ流罪となりましたが、亀の前のその後に関しては不明です。

源氏の棟梁である源頼朝が、多くの女性と関係を持つのは、いわば常識や義務でもありましたが、北条政子の嫉妬は、当時としては異常なほどのように見受けられます。
ただ、北条政子は地方豪族の出で、身分は高くなかったため、正室の座として、必死だったとも考えられます。

1183年、対立していた源義仲(木曽義仲)と源頼朝は和睦しますが、和睦条件として木曽義仲の嫡男・木曽義高(11歳)が人質として鎌倉入りし、北条政子の娘・大姫(6歳頃)との婚約が成立しました。

木曽義仲は先に京を制圧しましたが、京の統治がうまく行かず、平家に敗北しただけでなく、後白河法皇とも対立しました。
1184年、源頼朝は弟・源範頼、源義経らの軍勢を派遣すると、木曽義仲を滅ぼします。
このとき、鎌倉にいた木曽義高の殺害が決定しますが、これを侍女らの話から漏れ聞いた大姫は、木曽義高を鎌倉から脱出させます。
これに怒った源頼朝は、堀親家に追撃させて討ち取りました。
大姫は悲嘆して病の床についたため、北条政子は堀親家の不始末のせいだと源頼朝に迫り、やむなく木曽義高を斬った藤内光澄を晒し首にしています。
しかし、大姫の心は深く傷付き、今で言う うつ病のようになり、そのまま享年20で生涯を閉じることになります。


一ノ谷の戦いで捕虜になった平重衡(平清盛の5男)の器量に感服した源頼朝は、その身柄を鎌倉に移します。
このとき、北条政子のはからいで、侍女「千手の前」(駿河・手越長者の娘)が差し出されました。
千手の前(せんじゅのまえ)は、献身的に虜囚の平重衡を支えたようです。
しかし、壇ノ浦の戦いで平家が滅亡したあと、奈良の東大寺と興福寺は、寺院を焼いた平重衡の引き渡しを要求し、平重衡は奈良に向かう途中、木津川にて斬首されました。
この訃報を知った千手の前は、平家物語によると、出家して信濃・善光寺に入り、平重衡の菩提を弔ったとされていますが、1188年、僅か24歳で死去したともあります。

一方で、平家滅亡のあと、源頼朝と対立した源義経は都を落ちて奥州に逃れます。
1186年、源義経の愛妾・静御前と母・磯禅師が捕らえられて鎌倉へ送られると、北条政子は白拍子の名手である静御前の「白拍子の舞」を鶴岡八幡宮で見学しました。
この時、源頼朝の目の前で「吉野山峯の白雪ふみ分て、入りにし人の跡ぞ恋しき 」「しづやしづしずのをたまきをくり返し、昔を今になすよしもがな 」と、源義経を慕う歌を詠ったため、源頼朝は激怒します。
しかし、北条政子は「私のあの時の愁いは今の静の心と同じです。義経の多年の愛を忘れて、恋慕しなければ貞女ではありません」と、源頼朝が挙兵し、別居していた不安の日々を語り、この言葉を受けて源頼朝は静御前に褒美を与えたと言われています。

また、北条政子と静御前は、大姫を慰めるために南御堂に参詣して舞を納めました。
静御前は源義経の子を産みますが、北条政子の助命も受け入れられず殺害されてします。
その後、静御前と母・磯禅師は、北条政子と大姫からたくさんの重宝を与えられて、京に戻ったとされています。

1186年、次女・三幡(さんまん)が誕生しました。
しかし、北条政子の妊娠中に、またしても源頼朝は妾・大進局(常陸入道念西の娘)のもとに通い、大進局は源貞暁をもうけます。
ただし、出産の儀式は省略され、大進局は北条政子の嫉妬を恐れて隠れました。
幼子も、北条政子の逆鱗に触れるのを恐れて、乳母のなり手がいないなど、人目を忍んで育てられたようです。
のち、京の仁和寺へ送られ僧侶・貞暁(ていぎょう)となったあと高野山に登り、生涯を終えています。

1189年4月、源義経は藤原泰衡に攻められて自害し、奥州征伐となりました。
この時、北条政子は鶴岡八幡宮にお百度参りして、源義経の戦勝祈願を行っています。


1192年、源頼朝が征夷大将軍に任じられた直後、北条政子は源実朝(のちの3代将軍)を産みました。

1193年、富士の巻狩りの最後の夜に、曾我兄弟が父の仇・工藤祐経を討ちました。(曾我兄弟の仇討ち)
このとき、鎌倉では源頼朝が暗殺されたとのうわさが流れたため、北条政子は心配したと言います。
そのため、鎌倉に残っていた源範頼が「源氏にはわたしがいるから安心するように」と北条政子を慰めました。
この一言によって、源頼朝の異母弟である源範頼は、謀反の疑いを掛けられて、伊豆・修禅寺に幽閉され殺害されています。

1194年、北条政子は、病に伏せっている大姫と、源頼朝の甥であり公家の一条高能との縁談を勧めました。
しかし、大姫は源義高(木曽義高)を慕い、頑なに拒んだとされています。
そのため、北条政子は源義高の追善供養を盛大に催し、大姫を慰めました。

1195年、北条政子と源頼朝は京に上洛し、大姫を帝である後鳥羽天皇へ入内できないか、宣陽門院の生母・丹後局と協議しました。
相手が帝(天皇)なら大姫も喜ぶだろうと考えましたが、逆に大姫は重い病の床につき、そのまま回復せず、1197年に死去しました。
そのため、源頼朝は3娘・三幡を入内させようとしましたが、朝廷の実力者・土御門通親に阻まれています。

鎌倉幕府に協力的だった関白・九条兼実が失脚したため、源頼朝は再度の上洛を計画しました。
しかし、1189年12月に、重臣の稲毛重成が亡き妻のために相模川に橋をかけ、催された橋供養に出席した帰り路に体調を崩します。
原因は落馬と言われるが、1199年1月に源頼朝は急死しました。享年53。

源頼朝の墓
源頼朝の墓

その後、子の源頼家(18歳)が家督を継ぎ、北条政子は出家して尼になったため「尼御台」と呼ばれました。
なお、源頼朝の死の5ヶ月半後に3娘・三幡(乙姫)が高熱を発します。
北条政子は鎌倉にある寺社すべてに命じて加持祈祷をさせ、後鳥羽上皇に頼んで京の名医を鎌倉に呼び寄せましたが、三幡は14歳で亡くなりました。
また、若い源頼家による政治は、御家人らの反発を招き、1200年、大江広元梶原景時、比企能員、父・北条時政、三善康信、中原親能、二階堂行政、足立遠元、安達盛長、八田知家、三浦義澄、和田義盛、そして弟・北条義時らによる「十三人の合議制」が定められました。

将軍・源頼家は、不仲である安達景盛(安達盛長の嫡男)の愛妾を奪おうとします。
中野能成・和田朝盛・比企宗員・小笠原長経ら留守を狙って実行しようとしたところ、北条政子は「景盛を討つならば、まずわたしに矢を射ろ」と源頼家を強く諌めたと言います。
更に安達景盛の屋敷に赴いて起請文を提出され、騒ぎを収めました。


また、将軍・源頼家が鎌倉幕府・侍所別当として重用していた梶原景時も失脚(梶原景時の変)して命を落とし、源頼家は蹴鞠など遊興にふけり、更に乳母の夫・比企能員を重用したため、御家人の不満は高まりました。
これは父・北条時政にとっても脅威となり、1203年、比企能員を謀殺し、北条政子は兵を送って比企氏を滅ぼしました。(比企能員の変)

将軍・源頼家は、北条時政討伐を命じますが、すでに御家人らは北条氏に従っており、源頼家は北条政子の命にて伊豆の修善寺に幽閉となりました。
そして、北条政子らは朝廷に、源頼家は死去したという虚偽の報告を行い、源頼家の弟で、阿波局が乳母を務めた源実朝(12歳)を元服させて、鎌倉幕府3代将軍(第3代鎌倉殿)に擁立しています。
翌年、北条時政は手勢を送り、源頼家は入浴中に殺害されました。享年23。

こうして、鎌倉殿として3代将軍になったのは、源実朝でしたがまだ若かったため、大江広元と並んで北条時政は政所別当に就任し、幕府の実権を握りました。
ところが、北条時政と後妻の牧の方は、政権を独占しようと図り、畠山重忠を罠にはめて殺害し、1205年、源実朝を廃して女婿・平賀朝雅を将軍に擁立しようと画策します。
この父の横暴は、牧の方によるものと、北条政子は弟・北条義時と共に阻止し、父・北条時政を出家させて伊豆・韮山に追放しました。(牧氏事件)
そして、弟・北条義時が鎌倉幕府第2代執権になっています。
また、北条政子は、源頼家の子である公暁を鶴岡八幡宮別当にするなど仏門に入れて、政権の安定をはかりました。

1218年、北条政子は熊野を参詣して、病がちな源実朝の平癒を願い、更には京に赴いて後鳥羽上皇の乳母・藤原兼子と会談をしました。
このため、北条政子は従二位に叙されていますが、病弱で子がない源実朝のあとには、後鳥羽上皇の皇子を将軍にしようと考えていました。

ところが、1219年、源実朝は右大臣拝賀のために鶴岡八幡宮にて儀式を行いましたが、その帰りに公暁によって暗殺されます。

北条政子は、鎌倉殿としての任務を代行する形で京に使者をおくり、後鳥羽上皇の皇子を将軍に迎えるべく準備を進めました。
しかし、後鳥羽上皇がこれを拒んで条件も出したため、執権・北条義時は、弟・北条時房の軍勢を派遣して交渉を続けました。
ただし、話はまとまらず、皇族からではなく、摂関家から藤原頼経を迎えることにしましたが、藤原頼経(三寅)は、まだ言葉も話せない2歳の乳幼児でした。
そのため、北条政子が後見して政治を代行したため「尼将軍」と呼ばれるようになり「鎌倉殿」の地位になりました。


1221年、後鳥羽上皇と鎌倉幕府との対立は決定的になり、幕府が送った京都守護・伊賀光季を攻撃し、承久の乱となります。
上皇は、北条義時追討の院宣を諸国に出し、朝敵となった御家人らは大きく動揺しました。
これに対して北条政子は「故右大将(源頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深い、逆臣の讒言により不義の綸旨が下された。上皇の近臣である藤原秀康、三浦胤義を討って、三代将軍(源実朝)の遺跡を全うせよ。ただし、院に参じたい者は直ちに申し出て、参じるがよい」との演説します。

大江広元が鎌倉から出撃したほうが良いと提案すると、北条政子が決断して、京へ向かった幕府軍は19万騎の大軍となりました。
そのため、朝廷勢は西国の豪族らを味方にしましたが敗走を重ね、後鳥羽上皇は、北条義時追討の院宣を取り下げました。
鎌倉幕府は、後鳥羽上皇の膨大な荘園を没収して隠岐島へ配流し、順徳上皇は佐渡島へ流されています。
北条泰時・北条時房は京の平清盛邸の跡地である六波羅に滞在して戦後処理に当たり、六波羅探題として治安維持や朝廷監視に当たりました。
こうして、鎌倉と京都の二元政治が終わり、鎌倉幕府は武家政権を確立しています。

1224年、弟・北条義時が死去すると、嫡男の北条泰時が第3代執権に就任します。
しかし、北条義時の継室・伊賀の方が、実子である北条政村の執権擁立を画策して、三浦義村とたくらんだため、法事用政子は三浦義村の邸宅に乗り込んでこれを鎮めました。
伊賀の方は伊豆・北条に追放されています。(伊賀氏の変)


1225年、気丈に政権を支えてきた北条政子も、ついに病の床に付き、死去。享年69。
戒名は安養院殿如実妙観大禅定尼。
墓所は鎌倉・寿福寺で、源実朝の胴墓の脇にあります。

源頼朝の生涯【鎌倉幕府・征夷大将軍】旧相模川橋脚も
蛭ヶ小島 源頼朝配流の地
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