源行家の解説 以仁王の挙兵【以仁王の令旨】使者

源行家

源行家とは

源行家 (みなもと の ゆきいえ)は、平安時代末期の武将で、河内源氏の棟梁・源為義の10男として1141年に生まれました。
母は鈴木重忠の娘?(第15代熊野別当・長快の娘?)ともされ、同じ母が産んだとされる娘に、鳥居禅尼(とりいぜんに)がおり、異母兄としては源義朝(源頼朝の父)がいます。
その鳥居禅尼(丹鶴姫?)が、熊野速玉大社などを束ねていた熊野別当・行範の妻になった縁からか、源義盛(源行家)は新宮(新宮十郎行家の屋敷)に住み、新宮十郎源行家と名乗りました。

平治元年(1159年)平治の乱では、兄・源義朝に従って参陣しましたが、敗れて熊野に逃れました。
そして、約20年間、熊野にて潜伏したとされます。


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1179年、後白河法皇と対立した平清盛は、福原から兵を率いて京へ乱入してクーデターを起こし、院政を停止すると法皇を鳥羽殿に幽閉しました。(治承三年の政変)
更に1180年2月、平清盛は高倉天皇を譲位させると、高倉帝と平清盛の娘・徳子との間に生まれた、3歳の安徳天皇を即位させて、権力を欲しいままにします。
こうして、平清盛から信頼されていた摂津源氏の源頼政平氏を裏切り、後白河天皇の皇子である以仁王(もちひとおう)と結んで挙兵を計画しました。
1180年4月9日、以仁王の令旨と言う、諸国の源氏と大寺社に、平氏追討の令旨(りょうじ)を発します。
この時、令旨を伝達する使者として、熊野に隠れ住んでいた源行家が起用されていました。
八条院の蔵人(取次役・連絡役)に補され、義盛から行家と改名したと言う事になり、源行家は山伏に扮すると同じ4月9日にさっそく京を立ち、諸国を廻りました。
源氏がいる近江、美濃、尾張、三河とまわり、4月27日には、伊豆にいた源頼朝にも、源行家より令旨が届けられました。
その後、信濃へと足を伸すると、甥の木曾義仲に会って挙兵を説いています。
しかし、この行家の動きは、熊野別当・湛増(鳥居禅尼の孫)に悟られて、平家に密告されたとされ、5月初めには、以仁王の挙兵が露見しました。
5月15日、以仁王は臣籍降下となり「源以光」と名を改めた上で、土佐国に配流が決議されたため、以仁王は大津の園城寺(三井寺)へ逃れています。
比叡山延暦寺が平氏に味方する動きを見せたため、最終的に、以仁王は源頼政らと宇治平等院に籠りましたが、敗れました。
宇治平等院の裏手には、源頼政の墓があります。

源頼政の墓

以仁王の墓は、木津川市の高倉神社にあります。

一方、熊野別当・湛増(たんぞう)は、田辺勢・本宮勢を率いて、源行家の甥に当たる範誉・行快・範命らが率いた源氏の新宮勢や那智勢と戦いましたが、敗退しました。
その後、10月、伊豆の源頼朝が挙兵すると、熊野別当・湛増も源氏に味方しています。


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源行家のほうは、源頼朝らと強調せず、三河・尾張で独自に挙兵する道を選びました。
富士川の戦いで源頼朝に敗れた平氏は、1181年、平維盛・平重衡を大将に再度軍勢を差し向けます。
この時、尾張の墨俣川東岸にて、迎え撃ったのが、源行家と甥の源義円(常盤御前の子)や、星崎城主の山田重満らでした。
源義円は単騎敵陣に夜襲を仕掛け、敵陣に秘かに入りましたが、渡河して濡れていて見破られ、平家の高橋盛綱に討ち取られています。享年27。
山田重満も討死し、源平合戦の中では、珍しく源氏方が負けた戦いでした。
その後、源行家は熱田でも敗れて、三河の矢作川まで撤退して体制を整えましたが、鎌倉から源氏の大軍が来るという噂が流れたため、平氏は撤退しています。

木曽義仲に味方

多くの兵を失った源行家は、源頼朝を頼るほかなく、相模国松田に入った模様です。
しかし、所領を与えられなかったことから、源行家は、甥の源義仲(木曽義仲)の元へと走りました。
木曽義仲の軍勢に加わると、能登の志保山の戦い、倶利伽羅峠の戦いにて、平忠度・平知度を撃破したほか、上洛する際には、伊賀方面から進軍して、平家継と戦っています。


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1183年、木曽義仲と源行家は入京すると、蓮華王院(三十三間堂)の御所に参上して、後白河天皇に拝謁しますが、木曽義仲と序列を争い、相並んで座ったと言います。
朝廷からの評価は、勲功第一が源頼朝、第二が木曽義仲、第三が源行家となりました。
源行家には、従五位下・備後守に叙任されましたが、木曽義仲と差があると不満を漏らしたため、すぐに備前守に遷任となっています。
しかし、木曽義仲とも不和となり、身の危険を感じたことから、平氏追討の任を朝廷から公式に受けて出陣しました。
ただし、軍勢は僅か270騎に過ぎずないことから、木曽義仲のそばから「離れる」こと目的だったとされています。

ともあれ、源行家は1183年11月29日、播磨・室山に陣を構えていた平知盛・平重衡を攻撃しましたが、室山の戦いに敗れて、海路で和泉に移動し、烏帽子形城(河内・長野城)に籠城しています。
そこで烏帽子形城(河内・長野城)を攻撃するため、木曽義仲は、樋口兼光を派遣したので、また敗戦した源行家は紀伊国の名草に逃れました。
鎌倉勢の源範頼源義経により、木曽義仲が討死すると、1184年2月、後白河院の命にて源行家は都に戻りました。
そして、源義経に接近し、鎌倉殿との対立をあおったとされますが、以後、平家追討には参加せず、河内源氏の本拠地である河内・和泉を支配しました。


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1185年8月、源頼朝は、源行家の討伐を計ったため、源行家は源義経と結び、後白河院から源頼朝追討の院宣を受けています。
しかし、賛同する武士は少なく、源頼朝が鎌倉から大軍を出発させる動きを見せたため、11月3日、源行家・源義経は都を落ちました。
その途中、摂津源氏の多田行綱らの襲撃を受け、撃退しますが、大物浦(尼崎)にて暴風雨にあって西国渡航に失敗しています。
そして、和泉国日根郡近木郷の神前清実(日向権守清実)の屋敷(畠中城)に潜伏していたところ、密告され、1186年5月、鎌倉幕府の命を受けた北条時定(北条時貞)や常陸坊昌明らによって捕らえられました。
後ろの山に逃げて、民家の2階に隠れていたところ、発見されたと言います。
桂川下流の赤井河原にて長男・源光家、次男・源行頼とともに、源行家は斬首されました。

源行家と別れていた源義経は、比叡山延暦寺、興福寺鞍馬寺などに隠れたあと、北陸から奥州平泉藤原秀衡のもとに身を寄せるのでした。

2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、源行家を俳優の杉本哲太さんが演じられます。

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