藤原秀衡とは~平泉政権の黄金期を築いた三代目~

藤原秀衡




藤原秀衡(ふじわら の ひでひら)は奥州藤原氏(平泉政権)の二代当主・基衡の嫡男として生まれました。
彼も父と同様に生年と生母の名が不明ですが、一説には安倍宗任の妻を母として保安3年(1122年)に生まれたとも言います。
彼が歴史上に姿を現すのは保元2年(1157年)に父基衡を亡くし、後継者として当主の座に就いた時のことです。
嫡男として扱われ、その地位も盤石であったためか、秀衡には父や祖父などのような血で血を洗う後継者争いはなく、彼は平和裏に世代交代を行っています。

奥六郡(岩手県)を統治し、出羽と陸奥の押領使(治安を保つ軍事的な役職)を兼任した秀衡は17万騎もの戦闘力を有する大勢力を誇る指導者として君臨しました。
秀衡が統治した時代の平泉は平安期に次いで人口が多く、保元・平治の乱による都の騒乱をよそに、平和を謳歌する文化都市だったのです。


馬や米、そして北方交易の要である黄金を産出する肥沃な地を領有したのはもちろんですが、父の後を継ぐ時にも争いを経なかったために国力を疲弊させずに済んだこと、そして陸奥守・藤原基成の娘(泰衡の母)を妻にして都と対立しなかったことなど、様々な要因が絡んでいた平和とも言えます。

そうした秀衡を朝廷も無視できず、嘉応2年(1170年)の5月25日には秀衡に鎮守府将軍の地位を賜っています。
この富強な東北の覇者を中央政界は恐れ、九条兼実は『奥州の夷狄』として日記『玉葉』に記しました。
朝廷による畏怖と奇異の目を秀衡自身も忌み嫌ったのか、彼は源平合戦には加わらずに中立を保ちます。

その中立と平和を破ったのが、安元年間(1175~1177)に平泉政権へ亡命してきた源義経の存在でした。
治承4年(1180年)、源頼朝が平家打倒のために挙兵したのに駆け付けようとする義経を秀衡は引き止めますが、義経は出陣してしまいます。
翌年の4月、秀衡に頼朝追討の院宣が出されたと噂されたり、8月15日には従五位上と陸奥守が秀衡に贈られるなどの出来事がありました。

それは宗盛などが平泉政権を味方につけようと朝廷を通して行った工作でしたが、秀衡は全く応じませんでした。
源頼朝が東大寺再建の費用として千両の金を出すようにと無理難題を出した時も、出し渋ることはせずに五千両も納めるなど、秀衡は財力と政治力をフル活用して時の権力者を翻弄します。

文治2年(1186年)、平家を倒して力を伸ばした頼朝は藤原を侮辱する内容の文面を送り、朝廷を背景にして脅しをかけます。
こうした態度に、鎌倉幕府との決戦を覚悟したのでしょうか。
藤原秀衡は翌年の2月10日、再び奥州に自分を頼って逃げてきた義経を、平泉に迎え入れました。


それに対して頼朝は、奥州に追放された院近臣の引き渡し、金を貢がなかったことなどを理由に責め立てており、奥州藤原氏と義経の連携に危機感を強めているのが見て取れます。
そうした駆け引きの中、同年の10月29日に藤原秀衡は病に倒れ、帰らぬ人となりました。

秀衡が平泉政権を託したのは嫡子で次男の泰衡、側室の生んだ長男の国衡、そして義経でした。
家督を泰衡に継がせて政治権力を一任し、義経を大将軍すなわち軍事の最高責任者に任命したのは有名ですが、庶子国衡の扱いにも苦慮しています。
彼に自分の正室(泰衡の生母)を娶らせ、泰衡と義父子の関係にしており、頼朝への対抗策として一門の結束を促していたのです。

この遺言は当初こそ厳守されますが、身内争いの火種と義経を巡る頼朝や朝廷の干渉は秀衡の想定を超えたもので、平泉政権を守ることを優先した泰衡はこれらの悪循環を打破すべく義経を倒します。
義経を国防の要に据えた秀衡の構想は、皮肉にも裏目に出てしまったのです。

死後、秀衡の遺体は他の藤原氏当主と同様にミイラとなって中尊寺金色堂に納められます。
調査結果によると、秀衡は血液型がABで身長が164センチと、当時では大柄な体格で、肥満や歯槽膿漏、虫歯など美食に由来する病にもかかっていたとされます。

また、秀衡と同時期の東北地方の遺跡からは、人々が豊富な種類の果物や野菜、魚介類などを食べていたことを示す根拠が見つかっており、彼のミイラから見つかった特徴と照らし合わせても、奥州は災害や戦乱などで食糧難に悩む人が多かった他の地方と比べ、食糧事情が格段に良かった証拠とも言えます。


そして、秀衡の棺に入れられた副葬品の数珠や剣なども舶来・国産を問わず当代最高の工芸品が多く納められており、平和と繁栄に彩られた平泉の黄金時代を築いた人物としての面影を、今に伝え続けているのです。

(寄稿)太田

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コメント

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  • コメント (4)

    • 山田 久夫
    • 2020年 7月 14日

    寛弘三年三月九日 [類聚符宣抄七] 1006年
    太政官符陸奥国司外
    応下以二正六位上平朝臣八生一補中任押領使職上事
    右得二被国去長保五年三月十日解状一偁、謹檢二案内一、此国北接二蛮夷一
    南承二中国一、姧犯之者、動以劫盗、仍試以二件八生一、為二国押領使一
    令レ行二追捕事一、凶賊漸以刊レ跡、部内目以粛清、見ニ其勤公一、最足二採用一、
    抑八生、故武蔵守従五位佐上平朝臣雅弟、同公基男也、門風所レ扇、
    雄武抜レ群、望請官裁、以二件八生一、被レ補二任押領使一、将下励二翹勇之心一、
    弥領中狼戻之俗上者 従二位行権中納言兼中宮大夫右衛門督藤原朝臣斉信宣、
    依レ請者、国宜二承知依レ宣行一レ之、符到奉行、
    右少弁(広業)       左少史
      寛弘三年三月九日
    十一世紀初頭の陸奥国域は福島県域に縮小していました。刈田郡以北の蝦夷は華風に馴染まず朝廷は律令支配を放棄し賊地化していたのです。伊達の大木戸は関門跡で、この関門が陸奥国と蛮夷の地との境界となっていました。この境界を越えてくる蛮夷を取り締まるのが押領使の役目でした。刈田郡以北は律令支配を受けない無法地化していたのです。藤原基衡、藤原秀衡は国衙の役人であり、居館は国衙近くにあったのです。
    刈田郡から更に奥地の平泉に藤原秀衡の居館があるはずがないのです。平泉の初出は東鑑文治五年の条です。
    多賀国府も同様に同じ東鑑に初出します。多賀城碑出土地の発掘調査で該当時代以前に廃絶された遺跡であることが確認されています。刈田郡以北の朝廷支配は九世紀後半に放棄されていたのです。発掘調査の結果も符合します。

    • 山田 久夫
    • 2020年 8月 25日

    陸奥国衙が信夫郡に在りました。藤原秀衡の国衙の長官陸奥守に補任されています。国司の館は国衙から百丁程の所にありました。文治二年の頼朝奏上によれば、義経を匿った藤原秀衡の所帯跡に地頭を補すと帰されています。
    陸奥国信夫庄鳥和田村地頭に最初に任じられた人物は奥州征伐総奉行工藤行政(二階堂行政)です。彼が藤原秀衡の所帯跡を拝領したものと考えられます。国衙の国役、雑事は先例に任せ勤仕させるとあります。陸奥国衙は平安時代鎌倉時代を通じて同じ場所、信夫郡にあったのです。鎌倉幕府滅亡後北畠顕家陸奥守は信夫郡の陸奥国衙に下向しました。
    中先代の乱で上洛した隙に伊賀氏等足利方に国衙は占拠されてしまいました。京都から戻った南朝方は陸奥国衙へ入れず仕方なく隣の伊達郡霊山に仮の国衙を置いて陸奥国衙奪還を図っていたのです。残念ながら承和二年に吉良定家、畠山国氏等の一斉攻撃を受け伊達郡内の南朝方諸城はすべて陥落したのです。
    東鏡文治五年八月の条は存在しない多賀国府が実在したかの如く改竄されたのです。存在しない多賀国府か平泉に行った如く記されていますが虚構でしょう。藤原基衡も信夫庄に公田押領で陸奥守藤原師綱陸奥守に糾弾されています。藤原基衡も陸奥国衙の在国官人目(さかん)です。平泉とは全く関係ない人物です。多賀国府、平泉藤原三代説は江戸時代に創作された虚構です。虚構文学と史学は切り離して論ずべきだと思います。

    • 山田 久夫
    • 2020年 8月 30日

    文治二年六月小廿一日丁卯。【吾妻鏡】1186年
    爲搜尋求行家義經隱居所々。於畿内近國。被補守護地頭之處。其輩寄事於兵粮。譴責累日。万民爲之含愁訴。諸國依此事令凋弊云々。仍雖可被待義經左右。有人愁歟。諸國守護武士并地頭等早可停止。但於近國没官跡者。不可然之由。二品被申京都。以師中納言。可奏聞之旨。被付御書於廷尉公朝歸洛便宜。又因幡前司廣元爲使節所上洛也。爲天下澄淸。被下 院宣。
     糺断非道。又可停止武士濫行國々事
       山城國    大和〃    和泉〃    河内〃    攝津〃    伊賀〃
       伊勢〃    尾張〃    近江〃    美濃〃    飛騨〃    丹波〃
       丹後〃    但馬〃    因幡〃    伯耆〃    出雲〃    石見〃
       播磨〃    美作〃    備前〃    備後〃    備中〃    安藝〃
       周防〃    長門〃    紀伊〃    若狹〃    越前〃    加賀〃
       能登〃    越中〃    淡路〃    伊豫〃    讃岐〃    阿波〃
       土佐〃
     右件卅七ケ國々。被下 院宣。糺定武士濫行方々之僻事。可被直非道於正理也。但鎭西九ケ國者。師中納言殿經房御沙汰也。然者爲件御進止被鎭濫行。可被直僻事也。又於伊勢國者。住人挾梟悪之心。已發謀反了。而件餘黨。尚以逆心不直候也。仍爲警衛其輩。令補其替之地頭候也。 抑又國々守護武士。神社佛寺以下諸人領。不帶頼朝下文。無由緒任自由押領之由。尤所驚思給候也。於今者被下 院宣於彼國々。被停止武士濫行方々僻事。可被澄淸天下候也。凡不限伊勢國。謀叛人居住國々。凶徒之所帶跡ニハ。所令補地頭候也。然者庄園者本家領家所役。國衙者國役雜事。任先例可令勤仕之由。所令下知候也。各悉此状。公事爲先。令執行其職候ハンハ。何事如之候乎。若其中ニ。不用本家之事。不勤國衙役。偏以令致不當候ハン輩ヲハ。随被仰下候。可令加其誡候也。就中。武士等之中ニハ。頼朝モ不給候ヘハ。不知及候之所ヲ。或号人之寄附。或以無由緒之事。令押領所々。其數多候之由承候。尤被下 院宣。先可被直如此之僻事候也。又縱爲謀反人之所帶。令補地頭之條。雖有由緒。可停止之由。於被仰下候所々者。随仰可令停止候也。 院宣爭違背候哉。以此趣。可令奏達給之由。可令申師中納言殿也。
        文治二年六月廿一日                   御判

    「凶徒之所帶跡ニハ。所令補地頭候也。」義経を匿った凶徒は藤原秀衡でしょう。
    藤原秀衡の所帯跡の地頭はどなたでしょう。
    「國衙者國役雜事。任先例可令勤仕之由。所令下知候也。」平安時代末期の国衙は鎌倉時代にひきつがれル事が記されています。
    陸奥守藤原秀衡の勤仕した陸奥国衙はどこにあったのでしょう。

    • 太田
    • 2020年 8月 30日

    @山田 久夫
    山田 久夫様

    多岐にわたるご指導、恐悦至極に存じます。今後の執筆並びに研究に対する模範とさせていただく次第です。また、返信が遅れました事、何卒お許しくださいますようお願い申し上げます。

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