玉井助重とは~源頼朝の愛憎深き猛将~

玉井助重

玉井助重

玉井助重(たまのい-すけしげ)は、『平家物語』『吾妻鏡』『保元物語』などの諸資料に登場する鎌倉初期の武士です。
史料によって評価が異なる同時代の人物としては平清盛梶原景時などが著名ですが、この玉井助重もマイナーながら多様な評価をされている武将の一人でもあります。

玉井助重(玉井資重)は玉井資景とも言い、成田大夫助高の子として生まれました。
彼が名乗った名字の由来は武蔵国幡羅郡玉井(埼玉県熊谷市)であり、玉井四郎とも称していました。
『保元物語』にも同名の武将が源義朝に仕える武士の一人として登場しています。

玉井四郎が『平家物語』で記載されているのは、元暦元年(1184年)に行われた一の谷合戦で、ここでは資景と言う名前です。
玉井は源範頼に従軍して平家討伐に参戦し、平通盛を追撃して倒す手柄をあげています。


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『平家物語』では敵を追いかけて滅ぼす点では勇猛な武士として書かれる玉井ですが、対して『吾妻鏡』での彼に対する描写は高評価とは言えません。
元暦元年(1184年)、後白河院からの訴えとして、玉井が蓮華王院領である丹波国一宮出雲社と言う土地で横領したという記録が残されているのです。

寺社と争いを起こすのは後世でも野武士や悪党が行っているので珍しくはありませんが、翌文治元年(1185年)、玉井助重は勅命に従わなかった問題を起こしたとされ、それを問い詰めた使者といさかいを起こします。
その行いを記した項目では・・

本より猛悪を先と為し

つまり、生まれつきの乱暴者として批判的に描かれており、その評価は勇士であった『平家物語』では記載されています。

なお、この時期の頼朝は平家滅亡と鎌倉幕府発足に向け、朝廷との関係を良好にすることが必須なのは想像に難くなく、それをぶち壊しにしかねない玉井の行為と態度を庇い切れないと思ったのでしょう。
激怒した頼朝は、以下の言葉で彼を叱責しました。

綸命を違背之上者、日域に住む不可。關東を忽緒令むに依て、鎌倉へ參る不可。早々と逐電可し
(勅命に違反するならば日本に住むべきではない。関東をないがしろにした罪で鎌倉参向を停止する。さっさとどこかへ行ってしまえ)

こうして玉井は頼朝から鎌倉参向停止、並びに追放の処罰を受けたのでした。
これについて歴史学者にして保守論客でもあった故・平泉澄氏は、玉井助重を朝廷に無礼を働いて国外追放された悪人として糾弾し、“尊皇的”な頼朝の裁きを賞賛しました。

しかし、玉井はこれで歴史から姿を消したわけではありませんでした。
『吾妻鏡』には5年後の建久元年(1190年)に頼朝が上洛した際、その随員の中に彼の名前が記されているのです。

源頼朝に随行する三列縦隊の先頭から41番目の随兵(※1)に玉井四郎の名が散見し、御家人として頼朝の傍に仕えることが許されている身分と見ることが出来ます。
国外追放とそれに伴う取り潰しは無かったのか、それとも何らかの恩赦で許されたのかは定かではありません。

また、没年は不明ですが彼のものとされる墓や玉井助重ゆかりの寺社も地元に残されており、先述した『吾妻鏡』の記述と合わせても、永久に国外追放されたのならばあり得るはずがなく、大きな謎です。

最後に、これは筆者の所感ですが、源平合戦の時は氏族の繁栄をもたらした猛将であったのが、巨大な政権と化した鎌倉幕府の記した史書では問題のある人物として記された玉井助重は、鎌倉時代と言う潮流に適応できなかった、前時代的な武士の雛型だったのではないかと言う見方も可能ではないかと考えます。

強直が過ぎた猛将の熊谷直実や、敵を作り過ぎて自滅した梶原景時と同じく、無法者然とした荒削りな戦いを身上としていた玉井助重は、御家人としての秩序と礼儀を重んじる統制を旨とした鎌倉幕府の歯車として機能しきれず、消えていった武将の一人であったと思う次第です。


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(参考文献)
サイト※1
サイト※2
新編日本古典文学全集平家物語 (1)~(2)  市古 貞次 小学館
全譯吾妻鏡 1~5 永原慶二・貴志正造 新人物往来社
物語日本史(中) 講談社学術文庫 平泉澄 講談社
源平合戦事典 福田豊彦・関幸彦 吉川弘文館

(寄稿)太田

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